1 •使者はこない
── 冬の王国 王都 エルグラン邸
その日は朝から何度、窓の外を見たか分からない。
空は澄みわたり、陽射しが眩しい。白い王城の尖塔がくっきりと見えて、その隣に佇む神殿のドーム屋根が輝いている。こんなに近いのに、まるで遥か遠くの世界みたいだった。生まれ育ったこの城下町の景色なのに、今日は手が届かない。
今日、ここ冬の王国の王太子ユリウスが成人を迎え、
花嫁の神託を受ける日だった。神が成人した王位継承者に花嫁の名を告げる日。
その名は神殿の水壁に浮かび、選ばれた女性のもとには昼頃に神殿から使者が訪れるという。
自分にその可能性など微塵もあるはずない、と思いながら心は少しも静まらなかった。それでも、私は商家エルグラン家の後継者としての務めがある。表情には出さず、淡々と帳簿に目を通し、使用人に指示を与え、取引先から届いた文書に印を押した。
なのに、ふと気づくと視線は窓の外に向いてしまう。
自然と、神殿の方角を探してしまう。
──まさか、期待してるというの?
私は自分に問いかけた。あの日、気持ちに整理をつけたはずなのに。
王立学苑の卒業式の日。
図書室で、私は涙を隠すこともせずにいた。現れたユリウスに対して、ずっと引いてきたはずの一線を、自分から踏み越えた。あの時、彼に抱きしめられ、口づけを交わした瞬間。胸が熱くなって、ユリウスに触れたい、抱きしめてほしい、その衝動に身を委ねた。神託で花嫁を得る彼に未来のない恋などしたくはなかった。なのに、これが最後だと思うとユリウスに対して抱いてはいけない感情が次から次に溢れて止められなかった。
もう会えないのなら、全部を捧げてもいいと思った。
でもユリウスは、最後の最後に思いとどまって「あるかもしれない未来」を選んだ。
私には、幼い頃に家同士が決めた婚約者のルークがいる。
春の王国の商家の次男で、兄のようであり、親友でもあり、幼い頃から一緒に暮らしてきたルークとは家族以上の家族だと思っている。
学苑を卒業したら入籍──
それが家同士の決め事だったけれど、ルークは「まだ早い」と先延ばしにした。
本当は、ユリウスの神託を待ってからにしようという意味で言ったことを知っている。同じ学苑にいたルークに私の気持ちはお見通しだったのだろう。
神託の朝、ルークは穏やかに言った。
「セラ、今日の夜は家にいるなら何か美味しいものでも食べに行こうか」
家にいるなら……
使者が迎えに来ないなら、という意味で言ったのだろう。私は笑顔で頷いたけれど、胸の奥で涙が零れそうだった。婚約者である自分が別の人に恋をしているのに。ルークにはもうずっと、返しきれない感謝だけが積もりに積もっている。
昼前、神殿の鐘が街に響き渡った。
長く、重く、何度も鳴った。
── 決まったのね……
目を閉じ、その音をただ静かに受け止めた。
そして、昼を過ぎても使者は来なかった。
日が傾きかけた頃、やっと私は、大切に抱きしめてきた希望を手放そうと思った。
神託で選ばれた相手とは、血も魂も共鳴し合うのだという。
だからきっと、深く愛せるようになる。
どうかユリウスがその人を愛し、幸せになれますように──
心からそう願った。
窓辺から神殿を見つめ、カーテンを引く。
そして振り返って、努めて明るい声を出した。
「ルーク、今日はもう仕事やめて、出かけようよ」
「え、まだ明るいけど。君、もう酒飲むつもり?」
「いいじゃない、夏だし。冷えた白ワインでも飲みに行こう」
自分が不幸なわけじゃない。
きっとたくさんの人が、もしかしたらルークだって、人知れず叶わない恋を胸に抱き、乗り越え生きているのかもしれない。
なら私も乗り越えられる、大丈夫だ。
机を片付けていると、ふと写真立てが目に入った。
ユリウスと、帝国皇太子レオニス、それに私とルーク。
いつか我が家に招いた時に撮った一枚。
もうこんな笑顔で顔を合わせる日は来ない。
王族や皇族と関わることはこれから先、ないのだから。
私は心に扉を閉めるように、写真立てをそっと伏せた。