プロローグ
――現在 冬の王国ヒヴェルナ
夏が、やっと冬の王国にやってきた。
この王都アイスロットの街路にも長く残っていた雪は消え、石畳が陽射しを跳ね返してまぶしい。
俺は王城の隣にある神殿で、巨大な水壁の前に立っていた。今日、二十歳になった俺は、この国の王太子として神託を受ける。王位継承者の成人儀礼として花嫁の名を神より授かる。
この大陸の皇族、王族は神が選んだ相手としか結ばれてはならない。何百年も前から続く掟、神との盟約――「王血の誓約」
瞳を閉じる。
ずっと胸に抱き続けた思い出と希望に扉を閉める時が来たのかもしれない。神にとって俺の願いなどあまりに小さく取るに足らないものだろうと、水壁を前に立つと感じる。けれど、抑えきれない眩しい記憶が脳裏によみがえる。
学苑時代。自由だった日々。
一緒に過ごした帝国の皇太子レオニス。
そしてセラ。
なぁ、セラ
俺はあの卒業式の日のことを、これから先もずっと、悔んで生きていくのかもしれないな。
セラを思い出すたびにセラの体温と柔らかい香りが蘇り、愛おしさと後悔が胸を締め付ける。
でもあれで良かったのだとも思う。
あの時、セラの純潔を奪わなくて良かった。
未来を約束できない俺が、君に体の記憶を刻んでいいはずがないんだから。
セラは、大陸屈指の商家エルグラン家の後継者という立場にあった。誰よりも聡明で、まっすぐで、美しい瞳を持っていた。一つ上の学年に婚約者のルークがいるのだから当然だったけど、セラの心に近づきたいと思う俺に対してセラは一本の線を引いていた。厳しい言葉ではなく、優しい笑顔で突き放すような、絶対に超えさせない線があった。
そのセラが卒業式の日──
セラを探して図書室に来た俺が目にしたのは窓辺で、静かに涙を流す姿だった。その背中を気づけば背後から抱きしめていた。
たくさんの時間をここで一緒に過ごした、この図書室にセラがいるのは偶然じゃないと信じたかった。彼女を振り向かせ、涙を拭うと唇を奪った。
セラは拒まなかった。
拒絶されなかったことに勇気をもらい何度も深く口づけた。
「……ユリ、ウス」
吐息で名前を呼ばれた瞬間、俺の理性は崩れ落ちた。
彼女を抱き上げ、奥のソファへ移動するとセラを横たえ、また貪るように唇を重ねた。
セラの手のひらが俺の頬に触れた。
「ユリウス、私……あなたと……」
涙に濡れた瞳が熱っぽく訴えるもの。それは俺がもうずっと前からセラに求めてきたものだった。
衝動にまかせて俺は自分のネクタイをゆるめ、セラのシャツのボタンに手をかけた。一つ、二つと外す。
しかしその時――
『神は純潔の乙女に花嫁を求める』
その言葉が脳裏をよぎった。
未来を、自分の手で摘むつもりか?
いやいや未婚の純潔の女性がこの大陸にどれだけいると思っている?
セラが選ばれる確率を考えたか?
セラだって望んでいるだろ?
激しい自問自答が脳裏を駆け巡る。
心と体が正反対のものを求めてこんなに自分が揺れたのは生まれて初めてだった。
俺は、一呼吸置いてセラを強く抱きしめた。
セラは俺が思いとどまったことを察したのだろう、俺の首に回した腕にぎゅっと力を込めた。
俺はセラの勇気を踏みにじっておきながら懇願せずにいられなかった。
「セラ……神託の日まで……どうか、誰にも体を許さないでくれ」
俺にも、と続けると彼女が小さく頷いた気がした。
この立場に生まれ、責任と重圧を背負って生きていてもそれから逃げたいと思ったことは一度もなかった。ただ、セラに対して未来を約束できない自分の無力さに絶望した。
思いとどまったことをいつか後悔するかもしれない。
それでも俺は信じたいと思った、未来を。
「セラ、───……」
俺はセラに想いを告げた、願いとともに。
回想から意識が浮かび上がると神託の儀式は、もう始まっていた。
運命の水壁の前
俺は、あの時のセラに告げた言葉を今またつぶやいた。それは流水の音にかき消されてだれも耳にも届かない。
「セラ、君が好きだ。俺は君と未来を一緒に生きたい……」
その時、神官の声が、静かに響いた。
「……水壁に、名前が現れました」