第9章 観察者の記録
昼下がりの保健室。
弓月翠は、一人デスクに向かい、何やら書類を整理している。
その指先は白魚のように細く、優雅な動きでペンを走らせている。
長い黒髪をポニーテールにまとめた彼女は、今日も知的な印象を与える細いフレームの眼鏡をかけている。
白衣の下に着たベージュのブラウスとタイトスカートが、スレンダーながらも女性らしい身体のラインを上品に表現していた。
しかし、その美しい外見とは裏腹に、その瞳の奥には計算的な光が宿っている。
ふと、翠はペンを置き、窓の外に視線を移した。
磨かれたガラス窓の向こうには、賑やかな声が飛び交う校庭が広がっている。
その片隅で、春野悠希と白雪ここあが二人で話している姿が見えた。
悠希は相変わらず戸惑ったような表情を浮かべ、ここあは彼の腕に寄りかかるように密着している。
時折ここあが楽しそうに笑い、悠希がそれに困惑しているような、そんな雰囲気が伝わってくる。
「面白い反応ね……」
翠が、誰に言うともなく、小さく呟いた。
その声には、興味深そうな響きと、どこか満足げな色が混じっているように感じられた。
彼女の手元に広げられた書類には、「感情反応データ」「被験者経過観察」「依存度測定」といった、不穏な単語が並んでいる。
その書類の一枚には、「被験者A:春野悠希」「被験者B:白雪ここあ」という記載があった。
さらに、「感情増幅反応:予想を上回る数値」「相互依存の進行:計画以上の速度」「記憶封印の綻び:要監視」といった記録が並んでいる。
翠は、おもむろにデスクの引き出しを開け、中から一枚の古い写真を取り出した。
それは、どこかの研究施設のような場所で撮られたものらしく、数人の子供たちが無表情にカメラを見つめている。
写真の端には「感情制御実験 第7期生」という文字が印刷されている。
その中に、明らかに幼い頃の悠希と、そして白雪ここあによく似た少女の姿があった。
二人とも、今の快活さや、悠希の陰キャっぷりからは想像もつかないほど、感情の抜け落ちたような顔をしていた。
「10年前……あの子たちは、まだ7歳だった」
翠は写真の中の二人を見つめ、複雑な表情を浮かべる。
「あの時の実験が、今になって……こんな形で開花するなんて」
彼女の表情には、科学者としての興味と、それから――後悔のような感情が混在していた。
「予想以上の進展。感情依存プログラムは成功した。でも、これは……」
翠は書類の一枚をめくる。
そこには「実験終了後の予想される副作用」という項目があり、「被験者間の異常な相互依存」「記憶の自然回復による精神的混乱」「プログラム暴走の可能性」といった警告が赤字で記されていた。
「私たちが作り出したのは、単なる感情操作じゃなかった。本物の絆だったのかもしれない」
再び窓の外に視線を戻し、校庭で話す二人を見つめながら、翠は何かを深く考え込んでいるようだった。
その時、校庭にいた白雪ここあが、ふと顔を上げ、保健室の窓の方を振り返った。
偶然か、それとも何かを感じ取ったのか。
翠と、白雪ここあの視線が、一瞬だけ交錯する。
その瞬間、ここあの表情が、ほんのわずかに曇った。
まるで、忘れかけていた悪夢の断片を思い出したような。
そして、無意識に悠希の腕をより強く握りしめる。
翠は、その変化を見逃さなかった。
「やはり記憶の封印にほころびが」
彼女は手元の書類に何かを記録する。
『ここあの反応:保健室への視線で不安症状。記憶回復の兆候あり』
翠は立ち上がり、窓際に近づく。
校庭の二人をより詳しく観察するために。
「あの子たちの幸せのために始めた実験だった」
彼女の呟きには、深い後悔が込められていた。
「でも今、二人は確かにお互いを必要としている。これが、本当の感情なのか、それとも私たちが作り出した偽物なのか」
夕日が保健室に差し込み、翠の横顔を複雑な陰影で照らし出していた。
科学者としての冷静さと、一人の人間としての罪悪感が、その表情に混在している。
「もう少し様子を見よう。もし二人が本当に幸せなら」
彼女は書類を閉じ、再び椅子に座る。
「でも、もし何か問題が起きたら、私が責任を取らなければ」
保健室の静寂の中で、翠は一人、過去の罪と現在の希望の間で揺れ続けていた。