第8章 無自覚な誘惑
数日後の体育の授業後。
汗だくになった俺は、体育館裏の、あまり人が来ない日陰で壁に寄りかかり、ぜえぜえと息を整えていた。
持久走だったんだよ、持久走。
陰キャに最も過酷な種目の一つだ。
「悠希くん、疲れた?」
不意に、頭上から声が降ってきた。
顔を上げると、そこには体操服姿の白雪ここあが、きらきらと汗を輝かせながら立っていた。
彼女の体操服は、いつもの制服とは全く違った魅力を放っていた。
白い半袖のシャツが汗で微かに肌に張り付き、その下に着た薄いスポーツブラのラインがうっすらと透けている。
紺色のブルマが太ももの付け根ギリギリまでの長さで、そこから伸びる白くて細い脚が、運動後の上気と薄っすらとした汗で艶めかしく光っている。
「なんでいつも俺のところに来るんだ?」
俺の質問に、ここあは少し困ったような表情を見せる。
「わからない……気づくと、悠希くんを探してる。今日も、体育館の中を見回して、それで外に……」
その答えに、彼女自身が戸惑っているのがわかった。
ここあは、俺の隣に、これまた当たり前のように腰を下ろした。
ほんのりと汗の匂いが漂ってきて、心臓がドクンと跳ねる。
シャンプーの香りに混じって、彼女自身の体の匂い――甘くて、なぜか懐かしいような匂いが俺の理性を揺さぶる。
「あ……」
俺の隣に座った瞬間、ここあの表情が変わった。
ずっと探していた安らぎの場所を見つけたような。
その変化は、もはや隠しようがないほど明確だった。
「また、この感じ……」
彼女が小さくつぶやく。
「どんな感じ?」
「悠希くんのそばにいると、頭の中が静かになる。いつもざわざわしてるのが、ぜんぶ消えて……」
その告白は、甘い誘惑ではなく、本当に困惑しているような響きを含んでいた。
「暑い…………」
そう呟きながら、彼女は自分の体操服の首元をパタパタと広げ、風を入れようとした。
その拍子に、白い体操服の隙間から、彼女の華奢な鎖骨と、汗で濡れた胸元のラインがチラリと見えてしまう。
薄いスポーツブラ越しに、その柔らかな膨らみの形がくっきりと浮かび上がっている。
俺は慌てて視線を逸らそうとするが、ここあが俺の腕に手を置いた。
「悠希くん……」
その瞬間、彼女の表情に変化が起きた。
そして、その瞳に浮かんだのは――安堵と、自分でも理解できない感情への戸惑い。
「なんで……なんで触るとこんなに落ち着くの?」
彼女の声は震えていた。
甘い誘惑ではなく、本当に自分の感情が理解できずに恐れているような。
「水筒持ってる? 喉が渇いちゃった♡」
慌てたように、いつもの調子に戻ろうとするここあ。
俺が差し出した水筒を、白雪ここあは受け取ると、躊躇うことなく直接口をつけてゴクゴクと飲み始めた。
その細い喉が上下する様が、やけに目に焼き付く。
汗で濡れた首筋、薄っすらと浮かぶ血管、そして水を飲む際に微かに開く唇の形。
「ありがとう♡」
飲み終えた彼女の唇には、水滴がキラリと光っていた。
そして、彼女は悪戯っぽく微笑んで、こう言ったのだ。
「また間接キス、しちゃった♡」
俺の顔が一気に熱くなる。
天然なのか、それとも確信犯なのか判断がつかない。
「悠希くん、赤くなってる、可愛い♡」
ここあは、楽しそうにコロコロと笑いながら、俺の真っ赤になった頬に、そっと指で触れてきた。
ひんやりとした彼女の指先の感触が、燃えるように熱い俺の肌とのコントラストで、余計に際立つ。
「熱い…………運動したからかな? それとも…………♡」
意味深な言葉尻と、熱っぽい上目遣い。
だがその瞬間、俺は彼女の瞳の奥に見えたものに愕然とした。
孤独だった。深い、深い孤独。
「ねぇ、悠希くん」
ここあが俺の顔を両手で包み込む。
その距離は数センチ程度。
彼女の吐息が俺の唇にかかる。
「わたし、おかしいかな? 悠希くんといると、自分じゃなくなっちゃうの」
その告白は、甘い誘惑ではなく、切実な悩みだった。
「おかしくないよ」
俺がそう答えると、ここあの目に涙が浮かんだ。
「本当? みんな、わたしを見て『完璧』だって言うけど……悠希くんの前だと、ぜんぜん完璧じゃない自分が出てきちゃう」
彼女の甘い態度も、大胆な行動も――全てが、本当の自分を受け入れてもらいたいという、切実な願いの表れなんだ。
「完璧じゃない方が、いいと思う」
俺がそう言うと、ここあは本当に嬉しそうに微笑んだ。
それは、今まで見たことのない、純粋で自然な笑顔だった。
その時、体育館の方から弓月先生の姿が見えた。
彼女は遠くから、意味深な視線で俺たちを観察している。
(何かがおかしい)
俺の直感が警告を発する。
ここあの異常な行動、俺への依存、そして弓月先生の観察――全てが何かの計画の一部のような気がしてならなかった。