第7章 密やかな時間
昼休みの喧騒が嘘のように、放課後の図書室は静寂に包まれていた。
古書の匂いと、ページをめくる乾いた音だけが支配するこの空間は、俺にとって数少ない安息の地だ。
いつものように窓際の席で文庫本――人工知能が支配する未来世界を描いたSF小説――を開いていると、不意に隣の椅子が引かれる音がした。
「静かなところ、好きなの?」
白雪ここあだった。
いつの間に来たのか、音もなく俺の隣に座り、にこりと微笑みかけてくる。
今日の図書室は、俺たち以外にほとんど人がいない。
夕日が窓から差し込み、古い木製の机を温かく照らしている。
「なんで俺を探して来るんだ?」
俺の質問に、ここあは一瞬困ったような表情を見せる。
「わからない……気づくと、悠希くんのいる場所を探してる」
その答えは、いつもの計算された甘さではなく、本当に困惑しているような口調だった。
俺は彼女の表情を観察した。
完璧な美少女の仮面の下に、微かな不安と――そして、俺を見つけた安堵感が隠れているのを見て取る。
「ねぇ、その本、何?」
ここあが俺の読んでいる文庫本を覗き込む。
その際、制服のブラウス越しに感じる彼女の体温、シャンプーの甘い香りが俺の集中力を乱す。
「SF小説。人工知能と人間の境界について書かれた話」
「人工知能……」
ここあがその言葉を反復する。
そして、なぜか不安そうな表情を浮かべた。
「作られた感情と、本物の感情って……どう違うのかな?」
その質問に、俺は驚く。
なぜ彼女がそんなことを考えているのか。
「どうしてそんなことを?」
「わからない……最近、自分の感情が自分のものじゃないような気がして」
ここあは俺の肩にそっと頭を乗せてきた。
柔らかい髪の毛が俺の首筋をくすぐり、甘い香りがふわりと鼻をかすめる。
肩にかかる、彼女の頭の重みと体温。
制服越しに伝わる彼女の存在感が、俺の心拍数を上げる。
「こうしてると、落ち着く…………」
彼女は、心底安心したような、小さな子供のような声で呟いた。
俺は本に集中しようとするが、もう無理だ。
肩から伝わる彼女の存在感が強すぎて、文字なんて一つも頭に入ってこない。
その時、俺は気づいた。
ここあの呼吸が、俺に触れた瞬間に明らかに安定したことを。
まるで、長い間探していた安らぎの場所をようやく見つけたような。
「ねぇ、悠希くん」
白雪ここあが、囁くような小声で俺に話しかけてきた。
その声は、まるで羽毛のように軽く、俺の鼓膜を優しく震わせる。
顔を向けると、彼女の大きな瞳が俺を見つめている。
その距離は数センチ程度。
彼女の吐息が俺の頬にかかる。
「わたしといて、嫌じゃない?」
その質問には、いつもの自信に満ちた彼女からは想像もつかないような、微かな不安の色が滲んでいた。
その表情は、完璧な美少女のものではなく、普通の17歳の女の子のそれだった。
「嫌じゃない…………」
俺がそう答えると、ここあの表情がパッと明るくなる。
「ありがとう……」
ここあが俺の腕に手を置く。
その瞬間、彼女の表情に変化が起きた。
その瞳に浮かんだのは――混乱と、深い安らぎ。
「また、この感じ……」
彼女が小さくつぶやく。
「どんな感じ?」
「悠希くんに触ると、頭の中のざわざわが全部静かになるの。まるで、初めて『家』に帰ったみたいな感覚」
その告白は、あまりにも切実だった。
「家に帰った?」
「うん。わたし、いつも一人だったから……本当の『家』がどんな感じかわからなかった。でも、悠希くんといると、これが『家』なのかなって思う」
俺は彼女の言葉に衝撃を受けた。
学園一美少女として、いつも人に囲まれているはずの彼女が、実は深い孤独を抱えていたなんて。
「なんで俺なんだ?」
俺がそう尋ねると、ここあは一瞬、困ったような、それでいて何かを探すような表情を見せた。
「わからない…………でも、悠希くんだけが、『白雪ここあ』じゃなくて、『わたし』を見てくれてる気がするの」
その言葉と共に、彼女の目に涙が浮かんだ。
「みんな、完璧なわたしを見てる。でも悠希くんは……悠希くんだけは、わたしの『おかしいところ』も気づいてるでしょ?」
俺は言葉を失った。
確かに、俺は彼女の完璧な笑顔の裏にある違和感を感じ取っていた。
「怖いの……」
ここあが震え声で続ける。
「悠希くんの前だと、自分をコントロールできなくなる。いつもなら考えてから行動するのに、気づくと勝手に体が動いてて……」
彼女の手が俺の胸に置かれる。
薄いシャツ越しに伝わる手のひらの温もり。
「でも、それが……それがすごく安心するの。初めて、『自分らしく』いられる気がして」
彼女の行動の異常さも、俺への執着も、そして今見せている脆弱さも――全てが演技ではない。本物だ。
ここあは俺をまっすぐ見つめた。
「悠希くん、わたし……おかしいかな?」
その問いかけに、俺は答えを探した。
手元の小説には、人工知能が本物の感情を得る瞬間の描写があった。
まるで、今の彼女と重なるような。
俺は思った。もし彼女の感情が何かに操作されているとしても、今ここにある彼女の涙や、俺への想いは――本物なんじゃないか、と。
夕日が二人を照らす中、図書室の静寂が、俺たちだけの世界を作り出していた。