第2章 予想外の誘い
キーンコーンカーンコーン。
無機質なチャイムの音が、一日の終わりを告げる。
さて、とっとと帰って昨日買ったゲームの続きでもやるか。
俺はカバンに教科書と読みかけの文庫本を詰め込み、さっさと席を立つ。
友達と駄弁るわけでもなし、部活に精を出すわけでもなし。
俺の放課後は、いつだって最短距離で自宅へと向かうように設計されている。
「あ、あのっ!」
不意に、背後から声をかけられた。
いや、正確には、クラスの誰かが誰かに声をかけたんだろう。
俺には関係ない。
そう思って一歩踏み出そうとした、その時。
「悠希くん!」
え? 俺? まさか。
幻聴か?
俺は恐る恐る振り返る。す
ると、そこには――ありえない人物が立っていた。
白雪ここあだった。
放課後の教室に残る夕日が、彼女の艶やかな黒髪を金色に染めている。
制服のブレザーの下に着た白いブラウスが、その豊かな胸の膨らみを控えめに、しかし確実に主張している。
スカートから伸びる細く白い脚は、黒いニーハイソックスとの対比で、より一層その美しさを際立たせていた。
「悠希くん、一緒に帰らない?」
教室が一瞬にして静まり返るのが、肌で感じられた。
いや、マジで。
さっきまで騒がしかったはずのクラスメイトたちが、全員、息を飲んで俺と白雪ここあを凝視している。
視線が痛い。特に男子からの嫉妬と殺意のこもった視線が、俺の背中に突き刺さる。
でも俺は、そんな周囲の反応よりも、ここあの表情に注目していた。
今朝見た時と同じように完璧な笑顔を浮かべているが、その瞳の奥に微かな――不安? それとも期待?――何かが揺れているのを感じ取る。
「え、あ、いや……」
なんで? どうして俺?
意味が分からない。
俺は混乱しながらも、なんとか断りの言葉を口にしようとする。
だが、白雪ここあは、そんな俺の葛藤などお構いなしに、ぐいっと距離を詰めてきた。
近い。近すぎる。
甘いフローラル系の香りが鼻腔をくすぐる。
シャンプーの香りに混じって、彼女自身の体の匂い――なんと表現すればいいのか、甘いミルクのような、温かな匂いが俺の理性を揺さぶる。
この子はパーソナルスペースって知ってるのか?
でも、それ以上に俺が動揺したのは、彼女の表情の変化だった。
俺に近づくにつれて、その完璧な笑顔が微かに緩んで、まるでホッとしたような――安心したような表情になったのだ。
まるで、俺の近くにいることで、何かから解放されたような。
(なんだ、この感じ?)
「お願い♡」
こてん、と小首を傾げ、上目遣いで懇願してくる白雪ここあ。
その仕草に合わせて、ブラウスの胸元が微かに開き、鎖骨のラインがチラリと見える。
その声は、蜂蜜みたいに甘ったるくて、でも、どこか切ないような響きを含んでいた。
そして、その細くて白い指が、俺の腕にそっと触れた。
ビクッ!
電撃が走ったような、とよく言うが、まさにそれだ。
触れた部分から、何かが体内に流れ込んでくるような、奇妙な感覚。
心臓が、ドクン、と嫌な音を立てて跳ねる。
でも、もっと驚いたのは、彼女の反応だった。
俺に触れた瞬間、ここあの瞳が大きく見開かれ、息を呑むような小さな声を漏らしたのだ。
まるで、予想していなかった感覚に襲われたような。
「あ……」
彼女の頬が、薄っすらと桃色に染まる。
その表情は、今まで見せていた計算された美しさとは明らかに違っていた。
より自然で、より生々しくて、そして――より危険だった。
「え、あの、俺に用が?」
俺はしどろもどろになりながら、かろうじて言葉を絞り出す。
だってそうだろう?
学園のアイドル白雪ここあが、俺みたいな陰キャに声をかけるなんて、何か特別な理由でもないと説明がつかない。
でも、彼女の答えは予想外だった。
「用って言うか……」
ここあは俺の腕に触れたまま、困ったような、でもどこか安らいだような表情を浮かべる。
「悠希くんといると、なんか……落ち着くの」
え?
「落ち着くって、何が?」
俺の問いに、ここあ自身が戸惑ったような顔をする。
「わからない……でも、悠希くんのそばにいると、頭の中がシーンとして……いつもの、ざわざわした感じがなくなるの」
その告白は、あまりにも自然で、あまりにも切実だった。
まるで彼女自身も、その理由がわからずに困惑しているような。
(これ、演技じゃない)
俺の観察眼が告げる。
彼女の表情、声のトーン、身体の動き――全てが、作られたものではなく、本心から出ているものだった。
「なんとなく、一緒にいたいって思っちゃった♡」
最後に付け加えられた笑顔は、いつもの完璧なものに戻っていたが、俺にはもうわかる。
それは、自分の本音を隠すための仮面だということが。
周囲の視線が、もう限界だ。
特に男子生徒たちの目は、嫉妬の炎でメラメラと燃え上がっている。
「なんで春野なんだよ」「ありえないだろ」そんな心の声が聞こえてきそうだ。
でも、俺の意識は、ここあの手が未だに俺の腕に触れていることに集中していた。
彼女の体温が、制服越しに伝わってくる。
その温もりが、なぜか懐かしいような気がしてならない。
結局、俺は白雪ここあの勢いに押し切られる形で、一緒に帰ることになってしまった。
断れる雰囲気じゃなかったんだよ、マジで。
ガラガラと教室のドアを開け、廊下に出る。
ここあは俺の半歩後ろを、本当に嬉しそうについてくる。
その後ろ姿を見ていると、彼女の肩の力が抜けているのがわかった。
教室にいる時の緊張感が、まるで嘘のように消えている。
「ねぇ、悠希くん」
歩きながら、ここあが俺の袖を軽く引っ張る。
「今度、お勧めの本、本当に教えてくれる?」
「あ、ああ……でも、SFばっかりだぞ?」
「いいの。悠希くんが好きなものなら、きっと面白いと思うの」
その時、ここあが振り返って微笑んだ。
その笑顔は、教室で見せていたものとは全く違っていた。
作り物ではない、本心からの笑顔。
そして俺は気づく。
彼女は、俺の前でだけ、こんな表情をするのかもしれない、と。
すれ違う生徒たちが、例外なく全員、二度見、三度見してくる。
そして、ヒソヒソと何かを囁き合っている。
「あの二人、どういう関係?」
「まさか付き合ってるとか?」
ああ、もう勘弁してくれ。
俺はただ、静かに生きていたいだけなんだ。
でも、隣を歩くここあを見ていると、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
彼女の安らいだ表情を見ていると、なぜか俺も心が落ち着いてくる。
(なんなんだ、この感覚は?)
俺の平穏な日常は、どうやら今日限りで終わりを告げたらしい。
とんでもない爆弾を抱えてしまったような気分だ。
でも同時に、心の奥底で小さな声がささやいている。
もしかしたら、これは爆弾じゃなくて――もっと別の何かかもしれない、と。