第1章 陰キャの俺と学園の女王
俺、春野悠希、17歳。
都心にあるそこそこの進学校に通う、ごく平凡な(自分で言うのもなんだけど)高校2年生だ。
家族構成も、これまた平凡な父さんと母さん、それから最近やたらと態度がでかい妹が一人。
ま、特筆すべきことなんて何もない、モブキャラAってところだろう。
差し込む朝日が眩しくて、思わず欠伸が出た。
手元の文庫本――表紙が擦り切れるほど読み返している古典的名作SF――から顔を上げると、教室は朝の喧騒に包まれている。
「なあなあ、昨日のあれ見た? マジ神回だったよな!」
「わかるー! 推しが尊すぎて無理!」
ああ、はいはい。尊い尊い。
リア充どもが昨日見たテレビ番組だか、ソシャゲのガチャ結果だかで盛り上がっている。
その熱気は、教室の窓際最後列に座る俺の席までは届いてこない。
まるで俺の周りだけ、見えない何かのバリアでも張られているみたいに。
別にいいけど。
俺は一人で静かに本を読んでる方が性に合ってる。
人間観察は得意だが、人間関係は苦手だ。
他人の表情の微細な変化や、声のトーンの裏に隠された本音を読み取ることはできるけれど、それをうまく人付き合いに活かせたことは一度もない。
俺の人生には今のところ、尊いなんて感情を捧げる対象は存在しない。
せいぜい、新刊の発売日くらいか。
俺は再び視線を文庫本に落とす。
ページをめくる乾いた音だけが、俺の世界のBGMだ。
その時だった。
ガラッ、と教室の前のドアが開く音がした。
瞬間、教室内の温度が数度上がったような、そんな錯覚。
いや、錯覚じゃない。
実際に、クラスの男子どもの目の色が変わったのが分かった。
空気そのものが、甘い香りを帯びたようにさえ感じる。
「白雪さん、おはよー!」
「ここあちゃん、今日も可愛いね!」
黄色い声と、若干キモい男子の声が混じり合う。
その中心にいるのは――白雪ここあ。
学年で、いや、もしかしたらこの学校で一番の美少女と名高い、まさに生きる伝説。
腰まで届く艶やかな黒髪は、朝日を受けてシルクのように輝いている。
雪のように白い肌、長い睫毛に縁取られた大きな瞳、薄桃色の唇。
制服のブレザーを着ていても分かる、しなやかな身体のライン。
非の打ち所がないとは、彼女のためにある言葉だろう。
「おはようございます」
鈴を転がすような、とはよく言ったもんだ。
まさにそんな声で、白雪ここあはクラス全員に微笑みかける。
その瞬間、教室の空気が浄化されたような錯覚さえ覚える。
天使かよ。いや、天使だろうな。
クラスの空気が一瞬で変わった。
男子どもは骨抜きだし、女子でさえ彼女の完璧な美貌にはどこか見惚れている節がある。
俺は、というと。
チラリとも見ない。
いや、正確には、見ないようにしている。
別に嫌いなわけじゃない。
むしろ、美しいものが嫌いな人間なんていないだろう。
ただ、なんて言うか――眩しすぎるんだよな、ああいう存在は。
俺みたいな日陰の住人とは、世界のレイヤーが違う。
だが、俺の目は、俺の意思とは関係なく、時々情報を拾ってくる。
今もそうだ。
文庫本に視線を固定しているはずなのに、白雪ここあの笑顔が、網膜の隅に焼き付いている。
そして俺は気づいてしまう。
(完璧すぎるんだよな、あの笑顔)
口角の上がり方、目の細め方、声のトーン。
全てが計算され尽くしているように見える。
ミリ単位の狂いもない、黄金比率の笑顔。
まるで、AIが作り出したバーチャルアイドルのようだ。
そう思うのは、俺がひねくれているからだろうか。
でも、時々――本当に時々だけど――その完璧な仮面に、微細な綻びを感じることがある。
笑顔の奥に潜む、名状しがたい何か。
寂しさ、なのか?
それとも、疲労?
あるいは――。
「ねー、ここあちゃん、今度一緒にカラオケ行かない?」
女子の一人が声をかける。
ここあは相変わらず完璧な笑顔で応答するが、俺にはその笑顔が一瞬だけ――本当に一瞬だけ――硬くなったように見えた。
気のせいか。
白雪ここあが、ふと、こちらに視線を向けた。
俺の心臓が、一拍跳ねる。
いや、まさかな。
俺の席は窓際の最後列。
クラスのヒエラルキーで言えば、カースト最底辺の場所だ。
学園一の美少女が、わざわざこんな掃き溜めみたいな席に意識を向けるはずがない。
きっと窓の外の景色でも見ていたんだろう。
でも、確かに感じた。
視線が交わった瞬間の、奇妙な既視感。
まるで、どこか遠い昔に、彼女と目を合わせたことがあるような――。
そんなわけないだろう。
俺と白雪ここあに接点なんて、これっぽっちもない。
俺はページをめくる。
物語の主人公が、未知の惑星で新たな脅威に遭遇するシーンだ。
人工知能に支配された惑星で、本物の感情と偽物の感情の境界が曖昧になっていく話。
そっちの方が、よっぽど現実味がある。
「春野くん」
ふと名前を呼ばれて、俺は文庫本から顔を上げた。
教室の前方から、白雪ここあがこちらを見つめている。
は? なんで俺に話しかけてくるんだ?
教室内の時間が止まったかのような静寂。
全員の視線が、俺とここあの間を行き来している。
「あの、文庫本、いつも読んでるよね」
彼女の声は相変わらず鈴のように美しいが、なぜか少しだけ震えているような気がした。
「ま、まあ……」
俺は戸惑いながら答える。
こんな場面、想定していない。
クラスの全員が息を呑んで見守る中、白雪ここあはゆっくりと俺の席に近づいてくる。
近づくにつれて、彼女の美しさがより鮮明になる。
制服越しに感じられる、しなやかな身体のライン。
歩くたびに揺れる豊かな胸。
甘い香水の匂いが、俺の鼻腔をくすぐる。
「何の本を読んでるの?」
彼女が俺の机の横に立つ。
こんなに近くで見る白雪ここあは、想像以上に――。
「SF、です」
俺は喉の奥で答える。
声が掠れているのが自分でも分かった。
「SF……」
彼女がその言葉を反復する。
そして、微かに笑った。
でも、その笑顔は今までのものとは違っていた。
計算された完璧さではなく、どこか安堵したような、自然な表情。
「面白そう。今度、お勧めを教えて?」
俺に、本のお勧めを聞く? 白雪ここあが?
「あ、ああ……」
俺が答える間も、彼女はじっと俺の顔を見つめている。
その瞳の奥に、俺には理解できない何かが宿っているような気がした。
切ないような、寂しいような、それでいて安心したような――。
チャイムが鳴り響く。
一時間目の開始を告げる音。
「それじゃあ、また後で」
白雪ここあは微笑んで自分の席に戻っていく。
教室がざわめき始める。
「おい、春野、何だったんだよ今の!?」
「まじで羨ましいんだけど」
周囲の男子どもが騒ぎ立てるが、俺の頭は混乱している。
なんで話しかけてきたんだ?
そして、あの最後の表情は何だったんだ?
俺は再び文庫本に視線を落とすが、文字が頭に入ってこない。
ページの向こうから、白雪ここあの瞳が俺を見つめているような錯覚。
そんな俺の混乱をよそに、授業が始まった。
でも俺の頭の中では、たった今起きた出来事が何度もリプレイされている。
特に、彼女の最後の表情が。
あれは、演技じゃなかった。
確実に。
でも、だとしたら――白雪ここあの、本当の顔って何なんだ?