万色の魔都と薄幸な彼女 9
夜空を翔けるほうきの音は、ひどく静かだった。
月は満ちていた。
まるで彼女を導くかのように、冷たく光っている。
少女は、風を切りながら高度を上げた。どれくらい来たのだろうか。
そう思い見下ろすと、街並みが徐々に遠ざかっていく。
家々の灯りが、地面に散らばる星のように瞬いていた。
けれど、その光にはもう何の未練もない。
不思議と笑みがこぼれた。どこか空っぽな乾いた笑みだった。
少女はほうきを止めたあとしばらく宙に浮いたまま佇んでいた。真下には以前家があった場所。ここなら母と同じところに行けるかもしれない。それぐらいの願いは叶えて欲しい。夜の冷たい風が優しく頬を撫でる。地上は既に遠く小さく、絵画のように静まり返っていた。
十分だ。
そう思った瞬間、彼女はそっと指先の力を抜いた。
次の瞬間、ふわりと体が宙に投げ出される。
風が唸りを上げ、髪を荒々しくかき乱した。
重力が彼女を地上へと引きずり込む。
落ちていく。
音が、消えた。
視界には、広がる夜空と、仄かに光る街並み。
何もかもが遠ざかっていく。
一体自分の人生はなんだったのか。眼下に迫る死とは裏腹に不思議と心は落ち着いてそんなことを考える余裕さえあった。
少女は目を閉じた。
考えるのをやめた。
せめて最後は、静かに。
そう思ったそのとき──────
ふわり、と。
落下していたはずの体が、ベッドに身を投げ出したかのようにふわりと受け止められる感触。
ゆっくりと目を開ける。
そこには、彼女をしっかりと抱きとめた魔術師の姿があった。
漆黒の三角帽子はつばが広く、先端が少し曲がっている。その縁には、細い青いリボンと白金の鎖がぐるりと巻かれており、雲の切れ間から刺す月光を反射する。ローブも同じく黒だが、裾や袖口には夜空のような深い青の刺繍が施され、まるで星が瞬いているかのようだ。
夜の闇の中、彼女のローブが風で大きく翻る。
その腕は温かく、確かに彼女を支えていた。
「間に合った。」
息を切らしながらかすかに微笑む彼女。
シエナの腕の中で、少女はただ、じっとしていた。
「……なんで」
掠れた声が、夜の静寂に溶ける。
「なんで……死なせてもくれないんですか……?」
声が
震えていた。
助けられたことへの驚きでも、安堵でもない。
ただ、深い絶望の色を滲ませた、涙をこらえるような声だった。
「……シエナさんのために。シエナさんが気持ちよく次の国に行くために死ぬなってことですか。あなたの自己満のために私の覚悟さえなかったことにするんですか。」
こらえきれなくなったのか、少女の肩が震える。
「もういや…。」
彼女の口から絞り出されたかすかな声は、夜風に吹かれて消えてしまいそうなくらい弱々しかった。
込み上げる感情が、涙となって溢れた。
彼女は拳を握りしめ、シエナの胸を弱々しく叩く。
「なんで……なんで……!」
その涙を受け止めるように静かに抱きしめた。
夜空の下、少女の嗚咽だけが響く。
気づけば、空には雲ひとつなかった。
ついさっきまで厚く広がっていたはずの雲は、知らぬ間にどこかへ消え去り、夜空は驚くほど澄み渡っていた。
ひどく冷たく、けれど残酷なほどに美しく光る満月。
その周りには、無数の星が散りばめられ、嘲笑うかのようにまるで凍てついた宝石のように瞬いている。
シエナはゆっくりと口を開く。
「…そうです。私の自己満です。わたしは次の国に苦悩も葛藤も憂いも持って行きたくない。晴れやかな気持ちで前に進みたい。だから私の自己満であなたを助けました。私が気持ちよくまた旅に出るために。」
ミリシャは何も言わなかった。ただ虚ろな目でこちらを見ていた。目と目が合っているのに、その目線はまるで交差していないように感じた。
「だからわたしはあなたを助けた。そして明日にでもこの国を後にします。」
そこまで言うとシエナは目を瞑りゆっくりと息を吐いた。
「……あなたと一緒に。」
シエナは静かに言った。
風が吹く。夜の冷たい空気が流れていく。
目の前の少女は、まだ涙の跡を残したまま、かすかに肩を震わせていた。
その瞳には、迷いと絶望が絡み合い、未だに出口を見つけられずにいる。
胸の奥が妙にざわつく。
それが正しいのかどうかは分からない。
でもそんなことはどうでもよかった。
「…わたしの弟子に…なりませんか?」
思い切って言葉を口にした瞬間、心臓が強く跳ねた。
夜の静寂が、より際立つ。
彼女は驚いたように目を見開き、シエナを見つめた。
「わたしがこのくそったれの国からあなたを連れ出してあげます。あなたは、あなたには、こんな小さい世界だけで絶望して欲しくない。人生を諦めて欲しくないんです。」
「……世界は広いんです。」
シエナはもう視線を逸らさなかった。
腕の中、彼女の藤色の瞳がゆれる。
そのたびに、シエナの指先はかすかに震えた。
魔術師は、ただじっと待っていた。ミリシャがその薄い唇を開くまで。
長い沈黙が、夜の静けさとともに降りる。
「…シエナさんは、いなくなったりしませんか?」
ゆっくりとミリシャは顔を上げた。シエナはただ静かに彼女を見つめていた。その瞳には迷いも、嘘も、なかった。
震える声で、掠れた声で絞り出した問いにシエナは優しく微笑んだ。
「当たり前です。わたしは白金の鎖を持つ魔術師、シエナ・レナードですよ。」
シエナは今は亡き彼女の母親の面影を思い、手を差し伸べる。
彼女はひとつ息を飲んで
そして、その小さくて柔らかな手をゆっくりと伸ばしシエナの手をそっと握りしめた。
その手の温かさに少女の指は微かにふるえた。
魔術師は泣き出しそうな笑顔で彼女の手をそっと握り返した。
残酷なまでに煌いていた夜空の下、
長い夜が明ける、その少し前の話であった。




