鯛も一人はうまからず 1
ミリシャの生まれ故郷を後にして二月ほど経つ。随分遠くまでやってきた。
シエナとミリシャがたどり着いた国は、遠くからでも賑やかさが伝わる場所だった。街の入り口に立つと、まず鼻をくすぐるのは濃厚な肉の香ばしさ、甘く煮詰められた果実の匂い、そして焼きたてのパンの芳醇な薫りだった。まるで空気そのものが、美味なる料理でできているかのようだ。
街の中心へ向かう石畳の道は、黄金色の陽光を受けて輝いていた。両脇に並ぶ建物はどれも独特の装飾が施され、赤やオレンジの温かみのある瓦屋根が目に優しい。家々の窓辺には色とりどりのハーブが植えられ、風が吹くたびに爽やかな香りを運んでくる。
通りを進むにつれ、人々の活気が肌に伝わる。市場には新鮮な食材が所狭しと並び、職人たちが巧みにナイフを動かして肉を切り分ける音が響いていた。屋台からはジュージューと肉が焼ける音がし、通りかかる客の手には大きな串に刺さった焼き鳥や、パンが握られている。
店先ではシェフたちが腕を競い合うように鍋を振り、スパイスを散らし、食欲をそそる香ばしい香りを辺りに漂わせていた。開け放たれたレストランの窓からは、白いテーブルクロスの上で煌めくワイングラスと、幸せそうに頬をほころばせる客たちの姿が見える。
「すごい!すごいですシエナ先生!見たことない料理がいっぱい!」
ミリシャが目を輝かせながら、シエナの袖を引いた。シエナは静かに微笑み、目の前に広がる美食の都を見渡した。どこから味わうべきか――それが唯一の贅沢な悩みになりそうだった。
この国コクトゥーラには以前から訪れてみたいと思っていた。シエナは次の目的地を決める際基本的にその国から1番最寄りの国を目指す。が、そんな旅をしてるうちに何度も噂に聞く国が何個か存在する。そのうちの一つがここ料理大国コクトゥーラ。美味しい食事が売りの国と言えば?と質問すればコクトゥーラかアンテラ、その2つの国の名前で競い合う。それほどまでに有名な国。
もちろん訪れたいと思っていたのは本心であったがこの国までの道のりは随分と遠いものだった。なぜ今回この国に長い距離を移動してまで来たのか。シエナはちらりとミリシャを横目で見る。彼女は今すぐにでも店に向かって走り出してしまいそうなぐらいうずうずとしていた。
話は少し前に遡る。
「それ、美味しいですか?」
ちょうど夕食時、シエナとミリシャは2人で近くのレストランで少し早めの夕食をとっていた。シエナはミリシャが食べていた料理の味が気になり1口掬う。ミリシャがあまりにも美味しそうに、幸せそうに料理を口へと運ぶのを見たからである。
「ああ!」
彼女はシエナの口へと消えていったスプーン1杯分のブラウンシチューに手を伸ばす。
「そんなあ…。」
「そんな落ち込むことないでしょう…。たったひと口じゃないですか。」
「されどひと口ですよ…。私のシチューがぁ…。」
あまりに大袈裟に悲しみの声をあげる彼女にシエナは少しムッとしてこたえる。
「別にいいじゃないですか。そもそもあなたの料理だって私が支払ってるんですし。」
が、これを言ってしまったのは失敗だった。彼女は申し訳なさそうな顔で
「まあ…そうですね。」
と小さく声にする。ミリシャ自身、自分がシエナの旅にとって迷惑になっていることは重々承知していた。その主となるのはやはり金銭面。単純に2人分の食費、宿代、必要経費を払って貰っていることに負い目を感じずにはいられなかった。シエナもまた、自身にかかる負担が以前よりも重くなることは承知の上で彼女と旅をしている。だからといって彼女に負い目や罪悪感を感じさせる気は毛頭なかった。シエナは口を開く。
「ミリシャさん。どーせ自分が負担になってるんだとか考えてるんでしょう?」
彼女は何も言わずに俯く。
「んなもん当たり前に決まってんじゃないですか。今に始まったことでもないでしょう。わたしがそんなことも思慮しないであなたを弟子にしたとでも思ってるんですか?」
「…でも、」
「でも、じゃないです。わたしはそんなこと承知の上であなたを弟子にすると申し出て、あなたもまたそれを了承した。そうでしょう?迷惑上等ですよ。好きなもん食べて好きなもん欲しがればいいんですよ。なんてったって食事は旅の醍醐味ですから。」
シエナの言葉に納得してくれたのだろう。ミリシャは優しく微笑む。
「ありがとうございます。シエナ先生。先生としても私が変にグズグズしてる方がやりにくそうですもんね。」
「ほんとですよ…。旅が始まってすぐの時はまともにコミュニケーションとるのも難しかったんですから。あんなミリシャさんはもうごめんです。」
あはは、と目を細めて笑う彼女。彼女は手元のブラウンシチューに再びスプーンを入れる。
「それに、わたしはいっぱい食べてるミリシャさんを見るの結構好きなんですよ。」
ミリシャの頬が微かに朱に染まる。
「ほ、ほんとですか?なんかちょっと恥ずかしいです。」
「だってすごく美味しそうに、幸せそうに食べるじゃないですか。」
「遠回しにいやしいやつだって言ってませんよね、それ。」
ミリシャは恥じらう様子を悟られぬよう悪態をつく。
「言ってませんよ。あなたの中でわたし、どんな評価されてるんですか…?」
「だったらいいんですけど。……私、あんな暮らししてたから毎日食べるものはこんなに豪華なものじゃありませんでした。だからこの旅が始まって、口にするものは本当に全部が全部魅力的で美味しくて。ああ、幸せだなって泣いちゃいそうになります。
えっと、だから、つまり何が言いたいかって言うと、そのありがとうございます。私を連れ出してくれて。」
ミリシャは頬を指でかきながら礼を告げる。シエナはそんな彼女に手を伸ばし頭を撫でる。透き通った白い髪はひんやりとしており、触れるだけで心地良さを感じる。指を通してもするりと抜けていく感触に、何度も髪を撫でてしまう。ミリシャもまた、気持ちよさそうに目を細めながらシエナを受け入れていた。そんな彼女を見て辞め時を見失ったシエナはごほんと咳払いをひとつ。
「そういえば以前から行ってみたいなって思ってた国があるんですよ。名をコクトゥーラ。ここからだと少し遠いんですが行けない距離でもありません。」
ミリシャの話を聞き、シエナは俄然彼女を連れていきたいとそう感じた。
「料理大国。そう呼ばれている国なんですけど。」
そう言い終わるやいなや、ミリシャの瞳は輝きを帯び、その顔はみるみるうちに喜びに溢れていく。
「行きましょう!行きたいです!今すぐにでも!」
「お、落ち着いてください。わたし、まだこの国見て回りたいんですけど。」
そんなシエナの言葉もミリシャの耳には入らない様子で彼女は既にすっかり惚けていた。その頭の中にはきっとまだ見ぬ美味な料理の数々が並んでいるのだろう。
シエナは頬杖をつきながら、ふぅ、と大きくため息をついた。