記念日を集める街
霧は重く、街道を覆い尽くしていた。見えるのは足元のわずかな石畳だけ。まるで世界が終わり、残されたのは自分たち二人だけなのではないかと錯覚するほどだった。シエナは顔をしかめた。魔術を使えば、霧を払うことは可能だった。しかし、それをしようとは思わなかった。理由は分からない。ただ、この霧には、無理に逆らってはいけないような気がした。
「先生、進むんですか……?」
ミリシャの声は心なしか震えている。
「ええ。立ち止まったところで霧が晴れるわけではありませんからね」
シエナは淡々と答えた。自分たちがどこに向かっているのか、もはや分からない。
石畳に沿うようにして足を進めるとやがて霧の向こうに影が見えた。簡素な作りの門だった。どうやら街までたどり着くことが出来たらしい。
「誰かいますね。」
ミリシャの声に頷き、シエナは門へと歩み寄る。そこには二人の門兵が立っていた。どちらも青白い顔をしているが、穏やかな笑みを浮かべている。
「旅の方ですか?」
「ええ。霧が晴れるまでの間、滞在させていただきたいのですが。…ここらはいつもこんな感じなんです?」
「職業を聞いても?」
その問いに、シエナは一瞬だけ眉をひそめる。まるでこちらの質問など意にも介さないようであった。
しかし、気にするそぶりも見せずに答えた。
「わたしは魔術師、彼女はわたしの弟子です。」
門兵のひとりが手帳を開き、しばらく何かを確認する。その時間が妙に長い。
「……魔術師、ですね。分かりました。歓迎します」
彼は、嬉しそうに微笑んだ。
街は至って普通。その一言につきた。市場には果物やパンが並び、子供たちが駆け回る。ただ人々は誰もが笑顔で、温かく、優しげだった。
「なんだかみんな嬉しそう……」
ミリシャはつぶやく。
「そうですね。ええ、本当に……」
シエナは周囲を見回すとある1点に目が止まる。そこには大きな時計台。昼時を指す短針の下には大きな幕。
『門ができた記念日』
そこには今日の日付とともに、こう書かれていた。
「……。」
「なんか別に記念日にするまでもないようなことにも思えますけど…。」
シエナの視線の先を追ったミリシャが言う。
「あら?見ない顔ね?」
そんな二人を見て1人の女性が声をかけてくる。
彼女は、袖口に刺繍の入ったシンプルなリネンのブラウスを着ている。その上に丈夫なウールのエプロンを結び、腰には細かい家事道具を入れるための小さな革のポーチがぶら下がっている。見るからに主婦であろうことが見て取れる。彼女は柔らかに微笑む。
「私たちと一緒にお祝いしましょう。今日はこの街に門ができた記念日なのだから。」
「は、はあ…。そうですね。ところで宿屋を探しているのですが…。」
「宿屋…?ああ!あなた達が噂の旅の魔術師ね!宿屋ならあっちよ。良い1日を!」
親切な彼女に教えてもらった宿屋はこじんまりとしたものだった。そもそも観光客などあまり来ないのだろう。部屋に入ったシエナは少し埃を被った窓の縁を指でなぞり、そう感じた。
「先生、この街記念日をいっぱい作ってるみたいですね。」
振り返るとミリシャは部屋に取り付けてあるカレンダーを指さす。
そこには今月の日付とその下に赤い文字で
『門ができた記念日』、『特産品ができた記念日』、『初代町長の誕生記念日』、『初めて観光客が来た記念日』と書いてある。どうやらほぼ毎日を記念日にして祝い合っているようだった。
「…バカバカしい。特別な一日だから記念日なのに。毎日がそうなら記念もくそもないでしょうに。」
「あはは。でもやっぱり毎日分考えるのは大変みたいですね。ほら、ところどころ空きがありますもん。」
確かに今月にもところどころ何も書いていない日付が存在していた。記念日を増やそうにも何の変哲もない日には記念することなど生まれない。『門ができた記念日』である今日も割と頑張って考えたのであろうことが伺える。ベッドに身を投げたミリシャと入れ違うようにシエナもカレンダーをめくる。
次の月にもそこには、毎日のように「記念日」の文字が並んでいた。
『農民が生まれた記念日』
『橋が架かった記念日』
『羊毛が初めて刈られた記念日』
それだけならば、よかった。が、シエナは捲られたページのある1点を見て、固まる。
『医者が死んだ記念日』
心臓が酷く嫌な音をたてた気がした。妙な汗が背筋を流れた。
「先生?」
ミリシャの声が遠く感じる。シエナは無言で日付を見つめる。嫌な予感がする。無意識にカレンダーをめくる。
『結婚式を挙げた記念日』
『大収穫祭記念日』
『レストランの看板メニューができた記念日』
一見、何の変哲もない記念日ばかり。だが、月が進むにつれ、内容が変わっていく。
『農民が死んだ記念日』
『音楽家が死んだ記念日』
『料理人が死んだ記念日』
指先が冷たくなっていく。妙な吐き気がする。
その瞬間、広場から何気ない会話が聞こえてくる。
「旅の魔術師が来るのは初めてですね」
「ええ。素晴らしいことです。明日には新しい記念日が増えますね」
耳鳴りがした。
「新しい、記念日…?」
カレンダーの日付、門兵の質問、人々の妙な親切さ。すべてが繋がる。
────彼らは、「記念日を作っている」
誰かが生まれた日、誰かが死んだ日。全てがこの街にとって意味を持つ。全てがカレンダーに刻まれていく。そして、今この街には明日の記念日がない。「魔術師が死んだ記念日」が、ない。
だから、作るのだ。
街の人々の笑顔が、みえる。悪意がない。そこにあるのは、ただ「喜び」だった。新しい記念日を迎えることへの、純粋な歓喜。それが、たまらなく、怖かった。
───ここにいてはいけない。
足が震えそうになるのを必死に抑えながら、シエナはミリシャの元へと駆けた。
「先生?」
「すぐに出ます。支度を」
声が冷たくなるのを感じた。
「え……でも、こんなに霧が―」
「出るんです」
困惑するミリシャの腕を掴み、街の外へ向かう。
誰にも気づかれないように。誰の目にも触れないように。
門には、あの門兵たちがいた。杖を取りだし身構えるシエナ。だが、彼らはシエナたちが出ていくのを止めようとはしなかった。ただ、優しく微笑んでいた。
「おや、もう行ってしまわれるのですか?残念です。
……また、いつでもお越しください」
その声が、背中に突き刺さる。
この街に来ることはもう二度とないだろう。絶対に。
走り去る2人の旅人を街の人達はにこやかな笑みを浮かべて見つめていた。
翌朝、街にはひとりの男が迷い込んだ。
「職業を聞いても?」
門兵が、変わらぬ優しい声で尋ねる。
「私は吟遊詩人です。この霧で迷ってしまいまして。」
門兵は手帳を開く。
しばらくして、微笑んだ。
「そうですか。それは……素晴らしい。」