Twitterのツイートについて、その真意を書きました。
拙作の感想をいただいた。文章からは誠実なお人柄がうかがえた。
その彼がこのように書いた。
“だが、ライトノベルを下に見ている割にそれが許される程度の腕はなさそうに見受けられる。”
「酷い誤読だ」と愕然とした。もちろん腕の話ではない。
一連のツイートを「ライトノベルを下に見ている」と読まれてしまったのである。
こんな読解、予想だにしていない。
ライトノベルへのリスペクト、それが根底にあっての一連のツイートだ。
ライトノベルは『ロードス島戦記』から、というのが私の史観である。
『ロードス島戦記』がベストセラーになったとき、既存のエンタメ小説の読者から猛反発を食らったという。
作品内容が理解されなかったというわけではない。内容は理解されただろう。ファンタジーやSFのファンは大勢いたからだ。
アマチュアの書いた未熟な作品、彼らにはそう見えたのだろう。なぜ売れるのか理解できなった。
後の世になって、やっと理解される。
『ロードス島戦記』とは、すなわちファンタジーでもSFでもない「ライトノベル」なのだと。
アマチュアリズムによるカルチャーの更新。
『ロードス島戦記』が「ライトノベルの祖」のシンボルである、と明言できるのはそこだ。
たとえば『スレイヤーズ』だったら後の世にいう「ライトノベル」という概念は必要としなかっただろう。プロフェッショナルな作品だからである。『クラッシャージョウ』との断絶はない。
『ロードス島戦記』は違う。
新しい評価軸が必要だった。カルチャーの更新が必要だった。
ライトノベルが「次のステージ」に立ったのは、シンボリックにいえば1997年だ。阿智太郎、橋本紡、そして上遠野浩平が登場した。
彼らの登場が何を意味したか?
「アマチュアリズムによるカルチャーの更新」が終わり、「新しいカルチャー」として完成をみたということだ。
阿智太郎の作品はライトノベル以前のジュブナイル小説まで遡行できる。断絶はない。
橋本紡の作品は言うまでもなく文学に接続されている。
上遠野浩平は、両者の中間のようであるが、私は彼こそがライトノベルを「次のステージ」に引き上げた作家だと思っている。
上遠野浩平以後、少なくとも私の周囲では、ライトノベルが舐められることはなくなった。
時は流れ、今もう一度、「アマチュアリズムによるカルチャーの更新」が可能になっている。
WEB小説の登場だ。
『ソードアート・オンライン』を想起するかもしれない。だが違う。川原礫は同作を電撃小説大賞に応募するつもりで書いていたという。
起承転結あるいは序破急といったドラマツルギーとしてはオーソドックスな作品である。文章も構成も達者なものでアマチュアリズムという言葉からは遠い。
ところが「小説家になろう」というサイトが登場し、初期は今と違っていたとかいろいろと変遷はあるのだが、俗にいう「なろう小説」が大量に書かれることになった。
「なろう小説」がかつての「二次創作小説」と違うのは、大量のオリジナル作品で構成されていることだ。オリジナルといっても流行り廃りのなかで自然発生的にサブジャンル(たとえば追放や異世界恋愛)が形成されるのも見逃せない特徴だろう。
なによりドラマツルギーに特徴がある。ストーリーの起伏が少ないのだ。淡いカタルシスが続いていく。毎回ごとの「気持ちよさ」が保証されている。
稲田豊史は配信コンテンツ時代に適応したドラマツルギーを以下のようにとらえた。
“CMのない配信ドラマで、1話の中であまりにも緩急をつけてしまうと、「緩」の部分で「なんか、かったるいな」と思われて10秒飛ばしされてしまうかもしれない。その意味でも、トップギアで物語を走らせ続けるような構成が求められているのかもしれませんね。”
トップギアというところを除けば、まるで「なろう小説」のことである。
ギアチェンジをしないで同じ調子で走り続ける……その点で「なろう小説」は配信コンテンツ時代に適応した新しいエンターテインメントだと言えるだろう。
「カルチャーの更新」が可能になっている、というのは、これらことを踏まえてのことだ。
話は変わる。
私がライトノベルを「底辺」扱いした件だ。
あれは迂闊だった。言葉としてよくなかった。深く謝罪したい。
だが私にも言い分がある。
ライトノベルを「下」に見ていないのに、なぜ「底辺」と言ったのか、それには理由がある。
アニメーターがその仕事に見合うだけの報酬を得ていないという話はご存知だろうか。
これには産業構造の問題がある。
手塚治虫が低予算で仕事を引き受けてしまったのが原因である。(もちろんそれだけで説明がつくわけではない。アニメーターの報酬は番組制作費と比例していない。製作費が上がった分を貰っていないのだ)
アニメーターの報酬の少なさに問題があるのは、「上の人たち」の方ではない。「下の人たち」の方だ。
せめて最低でも原画になれさえすれば生活はできるという。しかし下積みとでもいえる動画では生活ができない。動画で生活できるだけの量を書ける腕があればさっさと原画になっている。
「下の人たち」の方とは、この動画の人たちのことである。アニメが好きで仕事にしたい、しかし「即戦力の腕」がないばかりに脱落していく。
酷いと思うだろうか? 当然と思うだろうか?
私は酷いと思う。愚かしいことだと思う。何事にも冗長性が必要だ。その冗長性がなければどうなるか。たとえば萌えアニメの時代が続いていた結果、メカを描けるアニメーターが極端に減ってしまったという話がある。メカは得意だが人間を描くのは苦手という絵描きが脱落していったからだ。
「下の人たち」が脱落していく世界。
私は否定するし、愚かだと思う。
「下の人たち」が脱落していく世界、それがライトノベルで起きている現象だ。
一冊二冊しか売れずに消えていった作家をたくさん見てきた。
そのなかには可能性を感じさせる新人作家もいたし、お気に入りの中堅作家もいた。
出版不況のなか、厳しいのはわかる。
だがここまで極端な世界を私は知らない。
かつて売れていない時代の村上春樹が憤慨しながらこう言ったことがある。
「せめて一年に一冊出すだけで生活できるようにして欲しい」
年に何冊も出すベストセラー作家は昔からいる。だがかれらはスペシャルな存在だ。普通はできない。
だが、それを普通のこととして要求される世界がある。ライトノベルだ。
売れ始めて、生活に余裕ができて、やっと自分のペースで書ける環境が整った、という作家たちの世界ではない。
売れているうちにシリーズの続編を次々と書いていく。
代表作は一、二作。長いシリーズなので作家の死後読み継がれる可能性も低い。
アニメ業界にある意味通じた労働環境、それが私から見たライトノベル業界だ。
私がライトノベルを「底辺」と言った理由はこれだ。
「作品」のことでもないし、「作家」のことでもない。私はちゃんとリスペクトしている。
ライトノベル作家になれて嬉しい、と言う人を否定するつもりはない。当たり前に祝福する。
問題は産業構造である。
「アマチュアリズムによるカルチャーの更新」が可能になっていると書いた。
それは新しい市場の開拓と新しい産業構造の構築ができるフェーズに入っているということだ。
ここでもう一度、アニメやライトノベルのような産業構造を作ってしまうのか、それとももう少しクリエーターの冗長性が残る余裕のある産業構造を構築できるのか、そういう分岐点があると思ったので一連のツイートを書いた。
私が書いた連載から文庫に至るまでの作家生活は筒井康隆がモデルだ。
ちょっと例が特殊すぎた。そこも反省点だ。
筒井康隆は極端だとしても、「上の人たち」を目指して欲しいというのは、そういうことだ。
ここまで書いて果たして伝わっただろうか?
私は歴史、産業、希望の三つの話をした。
歴史はこう仮説した。
「ライトノベル」は「従来のヤングアダルト小説」と“断絶”した「新しいエンタメ小説」である。
この“断絶”はアマチュアリズムの未熟さによって引き起こされる。それが“更新”だ。
産業の仮説はこうだ。
極端な適者生存の業界は、産業構造に問題があるのではないか。
希望はこうである。
WEB小説によって“断絶”があるのではないか。
だとしたら、“更新”の可能性もあるだろう。
だとしたら、新しく手に入れる業界の産業構造は問題のないものにして欲しい。
一連のツイートの真意、これで分からなければ、もういいや。
ご縁がなかった、お疲れさん。
Twitter、どうすればいいのかな。親切な方たちと交流したいけど、面倒くさいことになるしなあ。