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舞台は令和の世から天正の戦国の世へ、明智血族ガラシャ璃子と信長の愛馬鬼葦毛の物語






上賀茂本山と上賀茂ケシ山の間に拡がる空一面を覆う飛行機雲にしばし目を奪われる。

ひとしきり降ったにわか雨の後、その雲の隙間から覗く異常なほど大きく鮮やかな虹がまるで天上へと続く階段のように見えた。


何かが起こる前触れなのか、そんな心のざわつきが取れるまもなく

その天馬は私の前に現れた。







イメージはできていた。

どんな大きな馬であろうとやることは同じ。


左足をあぶみにかけて、右手を目一杯伸ばし、鞍に体を預け、おもいっきり右足で地面を蹴る。

左足を支点にちょうど走り高跳びのベリーロールのような体勢で体を馬の背中へと滑り込ませる。


でもそんな、男子では何気ない一連の動作も背も低く、筋力もない女子には結構ハードルが高い。乗馬を習い始めた頃は大抵の場合、補助はついてくれて重いおしりをよっこらしょっと持ち上げてもらえる。

でもそこそこ小馴れてくると誰も助けてくれない。

馬と向き合うというのはそういうもの。一対一、己の身一つで馬と相対することが人馬一体を成らしめる、そんな暗黙の了解がこの、人と馬の間にはあるようだ。


「璃子、どうした?相手に嫌われたか」


「だって・・」



父はもう既に馬上の人。

一汗かいて意地の悪い余裕の笑みをこちらに投げかけてくる。

いつもの私の相棒"スピードマンボ"は日曜の恒例の良い子の乗馬教室に出勤中。


従順で気性も穏やかで挙動もおとなしく、乗馬の馬としての経験も豊かな彼は初心者や子どもたちにはうってつけの人気者だ。


だから蜜月の最良のパートナーを取られた私は今日はもうクラブハウスでランチでも食べてお茶を濁して帰る、そんなつもりでいた。


このクラブのオーナーの一言がなければ・・


「芦毛の珍しい子が入ったんやけど、良かったら乗ってみる?璃子ちゃん」




「あの子なんだけど、」広げられた手のひらの先にその子はいた。



「なんなのチミは?・・」


一目見るなり、そんな言葉が思わず口をついた。ブルルっと低く嘶く声は回りの人間を威嚇しているようにも聴こえた。

芦毛というよりも、もうほとんど白馬に近い。550kg超はあろうかとも思えるような圧倒的な馬体。たてがみは栗色。陽射しを浴びると金色にキラキラと光った。

そのぎらつく瞳には誰をも後退りさせるような迫力があった。


「深泥池の淵に一人でポツンとおったんえ、この子」


三枝木薫子女史。明治時代から続く京都岩倉乗馬クラブの創設者の末裔で現在のこのクラブのオーナー。

私の父とは中学高校を通じての同級生で京大の同窓生でもあり、

それに何より彼女は亡くなった母の妹でもある。


「見てくれは厳ついけど乗り手によっては素性をコロリと変えはるんやで、この子は。」



女史が言うには警察には一応届けたらしい。ただ物が物だけに当局はもて甘し取り敢えず持ち主が見つかるまで預かってほしいということで話は落ち着いたらしい。


「おそらくここの子たちの嘶きにつられて近くまでやって来たんやろうけど」


「ということは落とし物扱いっていうことなん?」


「どうやろか?どっかから逃げ出して来たとしてもこんだけ大きいもんやから分かるはずやねんけどなぁ」


「馬運車から転げ落ちたとか?」


「もう一週間やで。これだけの馬、失くして届けへんそんな奇特な御仁はおらへんやろ」


確かに彼女の言う通り、伝わってくる迫力以上にこれだけ綺麗で気品に満ちた馬は見たことがない。毛並み毛づやもちゃんと手入れされていて、見つかった時もその馬体には何かしらの香料のような匂いさえ漂っていたという。


乗馬経験は中学から始めてキャリアは三年ほどしかない私でも

この馬が特別なものであることは容易に理解できた。


「乗ってみたい・・」


「一もニもなく、璃子ならそう言う思たわ」


思わず漏れた私の声に女史が笑う。


彼女は私については父より詳しいかもしれない。物心がついたときには彼女はもう私の傍らにいた。生まれてまもなくなくなった母は私のなかでは面影すらなく、何処へも向けられない燻ったその母への思慕は彼女に向けられたのは至極当然のなかことだったのかもしれない。

と言っても三枝木女史がパパの恋人というわけでも私の母親代わりを彼女が務めてくれている訳でもなかった。



小学校に入学した頃だろうか、私はパパに聞いたことがある。

ママって呼んでもいい?

別にママになって欲しいわけでもそう呼びたい訳でもなかった。



(あの人はどこまでいっても三枝木女史、お前のママには成れないんだよ)



それからだった、私が彼女を面と向かっても普通に”三枝木女史”と呼ぶようになったのは。


それは私の願いをひとごとで片付けたパパに対する幼いながらもささやかな抵抗だったのかもしれない。

もしかしたらもうそんな頃から私の変に尖った性格が顔を出し始めていたのかもしれない。


ただ女史はすぐにそんな私を見透かしたように驚きもせずいつもと変わらない笑顔を幼い私に向けてくれた。

(薫子おばさんよりは良いかもしれない)

そう言って。



京大史に残る才女、在学中は数々の賞に輝き、席次もとうとう在籍中の三年間は誰にもトップを譲ることはなかった。

普通に研究に励み大学に残っていたらその歴史を変えたかもしれない。


パパがいつもそう言って憚らない、三枝木女史。


だけど突然の彼女の父親、つまりは私たちの母方の祖父の不幸に

彼女はあっさりと大学生活を捨てる。

幼い頃から周りにあったその景色。それは彼女にとって何より大切なものだった。

明治天皇の御代から続く京都平安乗馬クラブ。

その系譜を遡ると戦国大名細川家にたどり着くと言う。



「うん?」


空からの冷たい物に我に帰る。見上げると小雨の滴が一粒二粒と鼻先を濡らす。


「降ってきたようやね。もう今日はここらで、やめとく?」


女史がそう言って小さく笑った。


「そうやね、なんか今日は御機嫌がよろしゅうないみたいやし」


そんな私の言葉が分かっているのか分かっていないのか、その子は黄金色の鬣を大きく揺らしブルルンと嘶いてみせた。


人間には馴れている、野生馬じゃない、この子の事を女史はそう言う。人間の声にはちゃんと反応する。それは人に対して集中しているからできる事であって、野生の馬ならまずは仲間の嘶きに反応する。

それは人間社会で生きてきた最たる証拠らしい。

飼い葉もちゃんと食べる。でも無闇には食べない。食べる量を守ってきちんと食べている。

それも人との関りが深いせい。食欲を抑制させるのは馬を飼いならす基本中の基本。

これがきちんと守れている馬はオーナーや管理されている人間との結びつきが深いと言える。

つまりはこの馬は人を選んでる、私を乗せるに値しない輩とこの子は値踏みしている

そういう事らしい。


「来週また来るから・・」


夕陽を浴びてキラキラと輝く黄金色の鬣にそっと触れると

彼はまたブルルンと嘶いて大きく首を振り上げてその大きな黒い瞳をギロリとこちらに向けた。

前足で地面を叩く蹄の音がまるで地響きのように大きく木霊して聞こえたのは

私の錯覚なのだろうか。






               

               ── ☆☆☆ ── 









天正十年、六月二日




──── たれか、たれか、馬引けぇーーー!


見上げれば火の粉が天高く空を舞い、行く手は炎の渦が地面をオレンジ色に染めあげていく。

辺りには一寸先も見通せないほどに白煙が立ち込めていた。



「弥助!蘭丸!」


「蘭丸様は、もう既に・・!」

無数に襲いかかる鏑矢を双刀で払い除けながら弥助が叫ぶ。


「事切れたと申すか!」


「ははっ」


是非にも及ばず、

今にも吐き出しそうなその言葉を魔王は胸の奥へと押し戻す。

己なくしてなんの日の本か。

織田信長なくしてなんの天下か。


生きねばならない。

むざむざとこの身を天に捧げるのは愚の骨頂。

自ら火を放ったは死中に活を求めんが為。


「馬屋は無事か?」



「はっ、今のところはまだ」



「よし、火焔のなかに押し通る!弥助、早う、馬引けぃ!」


壁や廊下には無数の鏑矢が突き刺さり、猛攻とした火柱があちこちに上がり、

その行く手を阻んでいた。


そんな状況でもこの魔王は自らが生きんがための策を模索していた。

奥座敷にひとり篭り辺りに火を放ち自らの命を絶とうとしたという

そんな織田信長の姿は何処にもない。




──── 信長がいたぞー!


火炎の渦巻くなかにこだまする声。煙の向こうに水色桔梗の旗が無数に揺れていた。


その時だった。


「親方様!あれを!」


弥助の大きな黒い手が指し示す先には軍勢に追われながら、翼をばたつかせ今にも飛び上がらんばかりの信長の愛馬がいた。


ブルルン!ブルルルーーン!

信長に気づくと彼は蹄を鳴らし喉を震わせ、まるで何かを訴えるように膝まずく。四方から飛んでくる矢を避けようともせずその大きな黒い瞳を信長へと向けた。


「鬼葦毛・・・」

そして大きく首を振り被り、その黄金色の鬣を震わせたかと思うと一瞬の間を置き真白き翼を拡げ、軍勢を掻き分け漆黒の空へと駆けた。



「一人して、逃げるか鬼葦毛!」

そんな弥助の叫びを手を上げ無言で制する信長。




信長が天馬と呼んで憚らない鬼葦毛。

思えばあの時からだった。その大きな白き翼を初めて信長が目にしたのは桶狭間山に陣取る今川勢の大軍に相対した時だった。

蹄を打ち鳴らし前足を大きく振りかぶり低く垂れ込めた雲に雄々しく嘶いた。

その背にはあるはずのない両翼が見えた。

それは信長だけに見えた翼だったのかもしれない

雄々しく拡げた真白き翼を羽ばたかせるその姿に己を重ねたのかもしれない。

そのあとに起きた奇跡は信長にして鬼葦毛を天馬、新馬と言わしめた。


あの日と同じ。

いや同じではないかもしれぬ。

もはやこれまで、我が天命を伝えたのかもしれぬ


いやいや違う。

あの真っ直ぐにこちらを射通すようなその眼は、引導を渡すようなものでは決してない。


─── 諦めてはなりませぬ


天馬鬼葦毛は我に確かにそう告げたのだ。




    

    


    「ええーい、まだだ!まだまだじゃ!弥助!

      ありったけの矢を持てぇ~~!!」








          


             

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