戸惑い②
(今、キス、とおっしゃった……?)
彼は、冗談を口にしたのだろうか。
クリスティーナはまじまじとマクシミリアンを見つめる。
が、軽く首をかしげて彼女を見下ろしてくる夫の心は、読めない。
「あ、の、わたくしをからかっていらっしゃいますか?」
多分、いえ、きっと、そう。
「もちろんだよ」という返事を期待して訊ねたクリスティーナに、しかしマクシミリアンはにっこりと笑みを深くする。
「本気だよ。私にとって、貴女からのキスはどんな宝石にも勝る価値があるからね」
真面目に答えているとは思えないような返事だけれど、本当に本気で彼がそう思っているのならば、応えなければいけない。
いけない。
が。
クリスティーナが誰かと唇を重ねたのは、結婚式での誓いのキスが初めてだった。
それまでは、異性とはダンスで触れ合うのがせいぜいで、彼女の方から手を伸ばしたことすらない。
おずおずと、クリスティーナはマクシミリアンとの距離を一歩だけ詰めた。それでは、まだ、手をいっぱいに伸ばしても指先すら届かない。
もう一歩、あと一歩。
ふわりと、マクシミリアンが身にまとう香りがクリスティーナの鼻腔をくすぐった。
まっすぐ前を向いていたら、彼の第二ボタンしか見えない。
自分の方からこれほど誰かに近寄ったのは、初めてだった。
クリスティーナは思い切って首を反らしてマクシミリアンを見上げる。顎の先でさえ彼女の額よりも高い位置にあるから、彼の望みを叶えるには目いっぱいつま先立ちをしなければ。
そう思ってその場でグッと足首を伸ばした。
けれど。
「!」
生まれてこの方、歩くか座るかくらいしかしたことがないクリスティーナは当然のことながらふら付いて、とっさに目の前にある『壁』に両手を突いてしまう。結構勢いよくもたれかかってしまったけれど、それはびくともしなかった。
ひとまず危機を逃れ、ほう、と安堵の息を漏らしたクリスティーナは、一瞬遅れて、ほのかな温もりを伝えてくるその『壁』がマクシミリアンの胸なのだと気が付いた。途端、彼女の頭に血が上る。
「も、申し訳――ッ!」
悲鳴まがいの謝罪とともにほとんど突き飛ばすようにして離れれば、今度は勢い余って後ろに倒れそうになる。
「ぁッ」
「危ない」
のけ反ったクリスティーナの腰を、さっと伸びてきたマクシミリアンの腕がすくい上げた。しっかりと掴まえてくれているけれども何となく不安定で、クリスティーナは腰の両側にある彼の腕に手を置いて自分の身体を支える。
「ありがとうございま、す……?」
その一言を終える間に放してもらえると思っていたクリスティーナは、一向に緩まない拘束に戸惑いを覚える。つま先はまだ宙に浮いていて、マクシミリアンの顔がすぐ近くにあった。
「あの、マクシミリアンさま?」
ためらいがちに呼びかけると、不意に彼との距離が一気に縮まった。腰に回された彼の腕に力がこもって、二人のお腹から下がピタリとくっついた。
小さく息をのんだクリスティーナの耳元で、マクシミリアンが囁く。
「ほら、これで届くようになった」
一瞬、なんのことか判らなかった。
そして気付き、彼女の頬がカッと火照る。
真っ赤になっているだろうとは思うけれども、顔を伏せたら、マクシミリアンの肩口に額が付いてしまう。見た目よりも力強い彼の腕は微動だにしなくて、放してくれそうにない。
クリスティーナは目の前にある彼の唇を見つめた。
そこにキスさえすれば、彼は解放してくれるだろう。
(ちょっと、唇で触れさえすれば)
そう思っても、クリスティーナは動けなかった。
「ティナ?」
耳に注がれる低く甘い声が、彼女の行動を促す。
(ほんの少し、頭を前に動かすだけ)
それだけで、マクシミリアンの望みを叶えることができるのだ。
クリスティーナは両手を彼の肩へと移動させ、目を閉じた。心臓が激しく打って、鼓膜にも鼓動が鳴り響いている。
心地良い彼の香りで頭がくらくらした。数枚の布を通して伝わってくる温もりが、火傷しそうなほどの熱さに感じられる。
(早く終わらせないと、頭がおかしくなってしまいそう)
息を詰めて、クリスティーナはそろそろと顔を彼の方へと近づけた。
唇に、温かくて柔らかな感触。
と同時に、肌を撫でるような囁き声。
「はずれ」
瞬間、クリスティーナはパッと目を開けると同時に身体を引いた。
できるだけ上体をマクシミリアンから離して、目をしばたたかせる。
「……はずれ……?」
マクシミリアンの言葉を繰り返したクリスティーナに、彼は屈託なくにっこりと笑う。
「貴女が触れたのはここだった」
そう言って、彼は左腕だけでクリスティーナを持ち上げたまま、右手で自分の頬を指差した。
そしてその指をもう少し横にずらす。
「私は、ここに欲しい」
彼が示しているのは、唇で。
「今度は間違えないように、ちゃんと目を開けてしようか?」
(今度は? 間違えないように? 目を開けて?)
つまり彼は、もう一度しろと言うのだ。
クリスティーナの頭と胸は、もう、今にも弾け飛んでしまいそうだというのに。
何となく、マクシミリアンの笑顔が『にこにこ』ではなく『にやにや』に見えるような気がするのは、気のせいだろうか。
しなければ――無理、でもしなければ。
凍り付いたまま、クリスティーナは、その間で行ったり来たりする。
(わたくしとこの方とは、夫婦なのですもの。夫婦というものは、神さまが結び付けてくださる、とても神聖で大事なつながりなのだもの。この世で、一番深いもののはず。キスなんて、して当たり前のことでしょう?)
そう、キスくらいあいさつ代わりにしても良いくらいなのだ。
(恥ずかしく思ったり、悩んだりするようなことではないのよ)
自分自身を納得させて、マクシミリアンの唇に視線を向ける。
――納得したつもりになっただけだったようだ。
(やっぱり、できない……)
気負った細い肩からがっくりと力が抜け落ちる。
そもそも、夫婦であるということ自体、クリスティーナはどういうものなのかよく解かっていないから、それが特別な関係なのだということにも実感なんて湧くものではない。
マクシミリアンのこんな簡単な望みにも応じられない自分が、情けなくてたまらなかった。
さぞかし彼を失望させただろうと思うと、目を合わせることもできない。
悄然と視線を落としたクリスティーナの耳に、クスリ、と小さな笑い声が届けられる。恐る恐る顔を上げると、苛立ちや失望の欠片も浮かべず微笑むマクシミリアンと、目が合った。
マクシミリアンはクリスティーナをそっと床に下ろすと、そのまま両手で彼女の頬を包み込んだ。
「貴女は、本当に自分の意思を口に出せない人だね」
唐突な彼の言葉に、クリスティーナは眉根を寄せた。
「……意思……?」
呟いた彼女の頬を、マクシミリアンの親指が優しく撫でる。
「そう。貴女は、もっと自分がどうしたいかを外に出さないといけない。したいことをしたい、したくないことはしたくない、できないことはできないと、言っていいんだよ――いや、言うべきなんだ。そうしないと、他の者には伝わらない」
彼は軽く首をかしげて部屋の中を示すような仕草をすると、少しおどけたような口調で付け加える。
「この部屋だって、貴女の好きにしたらいい。黒一色にしてもいいし、虹色にしてもいい。どうにしたって、貴女の自由だ」
クリスティーナは、困惑した。
今まで、指示に従え、口答えするなとは言われ続けてきた。その真逆のことを言われても全然ピンとこない。
多分、顔中に戸惑いの色を浮かべていたのだろう。
クリスティーナを見下ろすマクシミリアンの目の光が強くなる。
「ティナ。人は誰でも自分のことは自分で決めるべきなんだよ。好きなこと、したいこと、しなければならないこと――それは他の誰かに決めてもらうものではないんだ」
彼がとても真剣な気持ちでそう言っていることは、クリスティーナにひしひしと伝わってきた。とても真剣に、彼が彼女のことを考えてくれているのだということが。
何と答えたら、いいのだろう。
この『夫』が望むのは、どんな返事なのか。
クリスティーナは正しい答えを返したかった。けれど、告げられたことが思いも寄らないこと過ぎて、どんなものが正しい答えなのかなど、さっぱり判らない。
思い悩む彼女の前で、ふと、マクシミリアンの目が翳る。
「この結婚は、貴女の気持ちとは関係なく進めてしまった。それは、私も申し訳なく思っている」
その声に微かに滲むのは、後悔だろうか。
「マクシミリアンさま……」
思わず彼の名前を呼ぶと、わずかに苦みを含んだ微笑みが返された。
「私は、貴女にこの結婚を強いた。貴女の気持ちを無視し、生涯の伴侶という貴女にとってとても重要な存在を選択する自由を奪った」
マクシミリアンの顔も声も重く沈んで、いつもの自信に満ちた彼らしさがない。
そんな彼の姿に、クリスティーナは焦燥感にも似た思いに駆られる。
「そんなことはありません。わたくしは……わたくしは――」
何か言わなければいけないと思うけれど、何をどう伝えたらよいのか判らない。
うまく気持ちを紡ぎだせないクリスティーナの唇が、そっと塞がれた。それ以上の言葉を封じるように、もどかしい気持ちを宥めるように、彼の温かな唇で。
ほとんど反射的にクリスティーナは目を閉じ、彼の口づけを受け入れる。
自分がこの結婚のことをどう感じているか、マクシミリアンのことをどう思っているのかはまだよく解からないけれど、彼のキスは心地良いことだけは確かなことだった。
マクシミリアンは二、三度キスを繰り返してから唇を離す。そして、距離を取ることなくそのままクリスティーナの背中に腕を回し、彼女を大きな胸へと引き寄せた。
クリスティーナの頭に顎をのせ、彼は静かな、けれどもはっきりと彼女に届く声で言う。
「約束するよ。これからの貴女を幸せにする、と。貴女が他の誰を選んでも手に入れられなかったに違いない、これ以上はないというほどの幸せを得られるように、力を尽くそう」
そこから感じられるのは誓いとも言えそうなほどの強さで、その強さに、何故かクリスティーナの胸は痛みを覚えた。
(何故?)
自問しても、当然、答えは出てこない。
クリスティーナは無意識のうちにギュッとマクシミリアンのシャツを握り締めていて、彼女のその小さな動きに気付いたように、彼の腕が緩む。
クリスティーナが苦しさからそうしたと思ったのか、マクシミリアンは謝罪するように彼女の背中を優しく撫でてから、その手を放した。
抱擁を解いたマクシミリアンは、一歩下がってから穏やかに彼女に微笑みかける。
そこにいるのは、もう、いつもの彼で。
「私を夫にしたことを、決して後悔させないよ。私には他のどんな男よりも夫の責任を果たせる自信がある」
『責任』
ありふれた言葉が、また、チクンとクリスティーナの胸を刺す。
その痛みの理由も解らず、彼女は責任感のある夫を見上げた。
見つめ返してくるマクシミリアンが手を伸ばし、クリスティーナの頬に指先で触れる。それは、壊れやすい陶器の人形にでもしているかのように、繊細な触れ方だった。
(もっと、しっかりと触れて欲しい)
ふとそんなはしたない考えが頭の中をよぎってしまい、まだマクシミリアンの指があるクリスティーナの頬がカッと熱くなる。途端、彼は手を下ろしてしまった。
クリスティーナに向けられたマクシミリアンの目が微かに細められ、彼女はその眼差しに全てを見透かされてしまいそうな気がしてドギマギする。それから逃れるように、クリスティーナは面を伏せた。
部屋に染み渡る、静寂。
やがてクリスティーナの耳に小さな吐息が届いて、彼女はそっと目だけを上げる。
視線が絡んで、微笑まれて。
「貴女には圧倒的に経験が足りていないから、私はこれから貴女にたくさんのことを見聞きさせていこう。そうして、そこから貴女自身が選び取っていくんだよ」
その言葉をクリスティーナに残して、マクシミリアンは部屋を出ていった。