一夜が明けて②
初めて夫と一晩を過ごした妻というものは、どういう顔をしているものなのだろう。
少し急ぎ足で食堂へと向かうクリスティーナの頭の中は、そんなことでいっぱいになっていた。
マクシミリアンは、いつも朝の七時には起きているのだという。
眠りに入るときにはしっかりとクリスティーナを包み込んでいたマクシミリアンの腕は寝ている間に解かれたのだろうけれども、彼が起き上がって寝台を出ていったことには全く気が付かなかった。その時の彼女はよほどぐっすりと眠り込んでいたに違いない。
彼は礼儀正しい人だから、できるだけクリスティーナを視界に入れないようにしてくれたはず。
――そのはずだけれども、ちらりとでも無防備な寝姿を見られたのかと思うと、とても気まずくて気恥ずかしかった。
(取り敢えず、朝の挨拶をして、椅子に座って……)
それから先を考え付くことができないままマクシミリアンが待つ食堂にどんどん近付いて、そして辿り着いてしまう。
嫁ぐ前、ヴィヴィエ家で父が待つ場に入るときは、いつもちょっとした心構えが必要だった。
特に朝食の席は前夜のパーティーでのクリスティーナの振る舞いに対しての評価が下されるから、一日のうちでも一番緊張する瞬間だった。
叱責と共に冷たい一瞥が与えられるのか、それとも完全に空気のような存在となるのか。
どちらの方が良いかと問われたら、まだ前者の方が耐えられるかもしれない。
クリスティーナは扉に手を触れ、こっそりと深呼吸をする。
(大丈夫、この先にいらっしゃるのはマクシミリアンさまだもの)
自分自身に言い聞かせた。
彼は父とは違うのだから、と。
求婚されたその日から、マクシミリアンはクリスティーナのことをとても大事にしてくれている。
それは折に触れ、態度でも言葉でもはっきりと伝わってきた。
マクシミリアンはクリスティーナの父以上に多くの事業を手掛けているのだから、本当なら、ちょっと食事に来る時間も惜しいに違いない。けれど、特に逢う『必要』もないのに、彼は足しげくヴィヴィエ家を訪問してクリスティーナに付き合ってくれた。
そんなとき、彼女に向けられるのはいつも穏やかな笑顔で。
マクシミリアンの笑顔は、完璧だ。微笑むと、元々整っている顔がとても人当たりが良いものになる。それを向けられれば、誰もが心地良さを覚えるだろう。
そう、誰もが。
クリスティーナは、ふと視線を落とした。
マクシミリアンは穏やかで優しい。クリスティーナに対しても――誰に対しても。
その優しさが時々寂しくなるなんて、自分でもおかしいことだと判っている。
けれど、接する人全てに対して平等な彼のその物腰が、不意に父と被るときがあった。
(……何故?)
父と違って、クリスティーナと言葉を交わすとき、マクシミリアンはいつも彼女としっかり目を合わせてくれる。
あまり社交的な会話が得意ではない彼女の拙い話に耳を傾けてくれて、言葉に詰まればさりげなく話の接ぎ穂を見つけてくれる。
『婚約者』として触れてくるけれどけっして馴れ馴れしくはせず、あくまでも礼儀正しく紳士的に接してくれた。
どこから見ても非の打ち所がない、人。
非の打ち所がなくて、同時に、掴み所がない、人。
掴み所がなくて、心の内を見せない、人。
コデルロスの方が、まだ、その胸中を読み取ることができたのに。
マクシミリアンと一緒にいると、その笑顔の裏でクリスティーナのことを本当はどう思っているのかが判らなくて、不安になる。
(もう、行かないと)
クリスティーナは大きく深呼吸をした。
そして、思い切ってノブを回して扉を押し開ける。
それと同時に中からカタリと音がして、そちらへ目をやるとテーブルの脇に立つマクシミリアンが視界に入った。
スラリとした長身を真っ直ぐに伸ばして、彼は身じろぎ一つできずにいるクリスティーナを見つめている。
目と目が合って、クリスティーナは固まった。
そんな彼女に、マクシミリアンが微笑みかける。
それはいつもと変わらない笑顔。
夫となっても、一夜を同じ寝台で過ごしても、変わらない笑顔。
他人として初めて出会った時から、何も、何一つとして変わっていない。
チクンと、クリスティーナの胸に小さな痛みが走って、思わず彼女は両手でそこを押さえた。
「クリスティーナ?」
離れた場所から、マクシミリアンが首をかしげて呼びかけてきた。その笑顔が少し曇っている。
(いけない)
このままでは、おかしく思われる。
我に返ったクリスティーナは、彼の許へと歩み寄った。
微妙に手が届くか届かないかというところで足を止めると、マクシミリアンの方から残りの距離が詰められた。
すぐ傍に立つ彼から、ふわりと心地良い香りが漂う。
温もりまで感じ取れそうで、クリスティーナは後ずさりしたくなるのをこらえてそこにとどまった。
「おはよう、クリスティーナ」
その言葉と共に、フッと目の前が暗くなる。
両の頬が大きな手に包み込まれて、一瞬遅れて唇に柔らかな感触。
気付いた時には、それはもう離れていた。
何が起きたか理解できないクリスティーナを、マクシミリアンが覗き込んでくる。
「おはよう、クリスティーナ」
もう一度言われて、彼女は目をしばたたかせた。
「おはよう、ございます」
ぎこちなく腰を屈めてそう返す。
「どうかした?」
「あ、いえ……何でも……」
口ごもるクリスティーナに、マクシミリアンの目がからかうように煌めいた。
「そんなに恥ずかしがらなくても、おはようのキスはもう今日は二度目なのだけどね」
「え?」
全然心当たりがないクリスティーナは、きょとんと彼を見上げる。
「ああ、やっぱり気付いていなかったんだね。痕を残すほど熱が入ってしまったから、起こしてしまわなかったかと少し心配したのだけれど」
「痕?」
何のことだろうと眉をひそめたクリスティーナに返されたのは、朗らかな笑顔だ。
「さあ、座りなさい」
「はい……」
抗っても仕方がないので、頭の中を疑問符でいっぱいにしながらもマクシミリアンが引いてくれた椅子に腰を下ろす。
離れていくときに彼の吐息が頬をくすぐって、そこが奇妙な熱を帯びたような気がした。手を上げてこすりたいけれども、彼に何事かと思われてしまうだろう。
ぐるりとテーブルを回ってマクシミリアンが彼女の前の席に座るのを待って、クリスティーナは頭を下げる。
「遅くなって申し訳ありません」
「よく眠れた? 私の腕の中では仔猫のようにピクリともしなかったね」
にっこりと笑ってそう言われ、グッとクリスティーナは喉に何かが詰まったように目を白黒させた。
優し気な彼の微笑みがどこか意地悪そうに見えるのは、彼女の気持ちの問題に違いない。
今の台詞の後半は耳に入らなかったことにして、クリスティーナは小さく咳払いをして答える。
「はい、よく眠れました」
「私もとても心地良く眠れたよ。とても、温かかった。貴女は私よりも体温が高いようだ」
また、笑顔。
「そ、う、ですか……それは、良かったです……」
(早く食事が来てくれたらいいのに)
クリスティーナは切実にそう思った。そうすれば何かすることができるから気が紛れる。
彼女のその願いが通じたのか、まさにその時食堂の扉が開いて、ワゴンを押した男性が入ってきた。
赤茶色の髪に真っ青な目をしたその青年はアルマンという名で、マクシミリアンの秘書だと紹介された。仕事のことだけでなく、マクシミリアンの身の回りのこと全般を任されているらしい。
テーブルの傍までワゴンを進めてきたアルマンは、クリスティーナの顔に目をやるなり眉をひそめた。
「クリスティーナ様、大丈夫ですか?」
「え?」
唐突な問いかけに、クリスティーナはポカンと彼を見つめた。アルマンは心配そうに続ける。
「お顔が赤いですよ? お熱でもあるのでは?」
とっさにパッと両手で頬を包み込むと、確かに熱い。
熱を確かめようとしたのか、アルマンの手がクリスティーナの額に向かって伸びてくる。が、届く前に声が割り込んだ。
「アルマン、彼女は大丈夫だから食事の準備をしてくれないか?」
朗らかに響いたそれに、何故かアルマンは鞭打たれたようにビシリと固まった。
「あ、マクシミリアン様、はい、すぐに」
あたふたとワゴンに向かったアルマンをどうしたのだろうかと見つめるクリスティーナを、マクシミリアンの呼びかけが引き戻した。
「クリスティーナ」
テーブルの向かいに目を向けたクリスティーナは、思わず背筋を正した。
そこにいるのは、確かにマクシミリアンだ。
マクシミリアンだ、けれど。
(怒って、いらっしゃる……?)
何だろう。何が違うと言えるわけではないのだけれど、どことなく、冷ややかな空気がそこにあった。でも、クリスティーナと目が合った瞬間にそれは掻き消えてしまったから、もしかしたら彼女の気の所為だったのかもしれない。
今の流れでマクシミリアンを不快にさせたとするなら、思い当たることと言えば、彼女がアルマンの邪魔をしてしまったことくらいだ。
もともと遅くなっていた食事が、クリスティーナのせいでいっそう遅れてしまったことが怒りを買ってしまったのだろうか。
「も、申し訳ありません」
条件反射のように謝ると、マクシミリアンの滑らかな眉間にしわが寄った。
「その謝罪は、何の為?」
「わたくしのせいでアルマンさまが……」
「貴女の所為、ではないだろう。これは――ああ、そうか、気付いていないのか」
「何が、ですか?」
呟くようなマクシミリアンの言葉の意味が読み取れず、クリスティーナは恐る恐る尋ねた。彼はしげしげと彼女を見つめて、言う。
「夫というものは、他の男が妻に触れることを嫌がるものだよ」
「え?」
「ましてや顔に触れるなんてね、もっての外だ」
「あの?」
いつもと変わらない様子でそう言われも、真意が読めない。
戸惑うクリスティーナの前に、トーストやオムレツなどが手際よく置かれていく。
そうしながら、アルマンが。
「マクシミリアン様はやきもち妬いたんですよねぇ」
と。
なんて失礼なことをと、クリスティーナは慌ててマクシミリアンに目をやったけれども、彼は否定も肯定もせずに平然としている。主への礼を欠いたアルマンの態度にも全く気分を害していないようだ。
思えば、この主従は、初めて紹介された時からこんなふうだった。
使用人はコデルロスの視界に入っただけでも叱責されるヴィヴィエ家では、到底考えられない事態だった。主人に対してこんな口をきくなんて、父なら即刻馘にしているだろう。
驚きと困惑が半々のクリスティーナに、アルマンが紅茶を差し出す。
「さあ、召し上がれ。クリスティーナ様に肉を付けるんだって、料理人が手ぐすね引いて待ってますからね」
「そうだな、クリスティーナは少し華奢過ぎるからね。壊してしまいそうであまりきつく抱き締められない」
さらりと言ったマクシミリアンが、率先してパンに手を伸ばした。
父からは再三食べ過ぎるな、体型を保てと言われ続けていたクリスティーナは、彼のその台詞にもまた面食らう。
でも、確かに、跡継ぎを生むことを考えたら、しっかりした体型の方がいいのかもしれない。マクシミリアンも、きっとそのことを考えての発言なのだろう。そうであれば、あまり食欲はないけれど、食べるのも彼女の義務の一つになる。
クリスティーナはナイフとフォークを取り、卵料理に手を付けた。
しばらく互いに無言で食事を進める。
卵料理も、パンも、紅茶も美味しくて、クリスティーナはいつもよりもだいぶ多い量をお腹に収めてしまう。
とても丁寧に手を動かしていたのに彼女よりも遥かに食べるのが早かったマクシミリアンは、もうお茶しか残っていない。
ゆっくりとカップを口に運びながら、彼は片時も目を逸らすことなく食事を進めるクリスティーナを見守っている。
孔が開いてしまいそうなほどに凝視され、クリスティーナはついに耐えられなくなった。
「あの、マクシミリアンさま?」
「なんだい?」
「その……あまり見られていると、食べづらいです」
「ああ、すまないね。貴女の食べ方が小鳥のようで可愛らしいから、つい目を離せなくなった」
冗談だと判っていても、クリスティーナは気の利いた言葉を返すことができなかった。
そんな不器用な自分が嫌になる。
口も手も固めて、彼女はうつむいた。
と。
「クリスティーナ」
マクシミリアンの声で自分の名前を耳にして、彼女は顔を上げる。
目が合って、彼は珍しく口ごもった。
「……何でしょう?」
「その、貴女の侍女は貴女を『ティナ』と呼ぶのだね」
クリスティーナはぱちりと瞬きをした。
どんな流れでの、彼のその台詞なのだろう。
マクシミリアンの意図が読めずに戸惑いながら、クリスティーナはうなずいた。
「はい。わたくしが幼い頃から世話をしてくれているので……そう呼ぶのは彼女だけです」
マクシミリアンはまた何かを考え込んでいるように押し黙った。
(モニクにそう呼ばせるのが、お気に召さないのかしら……)
以前、モニクがうっかりコデルロスの前でクリスティーナのことをそう呼んでしまった時、ずいぶんと叱られてしまった。使用人に愛称で呼ばせるのは、マクシミリアンも良い気がしないのかもしれない。
「あの、これからは――」
「私もそう呼んでいい?」
「……え?」
きょとんと見返したクリスティーナに、マクシミリアンがもう一度繰り返す。
「私も、貴女のことを『ティナ』と呼んでも構わないかな?」
すぐには、返事ができなかった。
クリスティーナが黙ってマクシミリアンを見つめていると、彼は困ったように――どことなく寂しげに、微笑んだ。
「貴女が嫌なら――」
前言を撤回しようとしている彼に、クリスティーナは慌てて首を振った。
「いえ、嬉しいです。マクシミリアンさまにそう呼んでいただけたら、とても、嬉しいです」
一気にそう言ったクリスティーナは、その喜びの気持ちのまま満面の笑みを浮かべた。
本当に嬉しかったから、淑女としてはあからさまに気持ちを表し過ぎたかもしれない。
マクシミリアンはクリスティーナの顔を見つめて固まっている。
「あ、ご無礼を……申し訳ありません……」
即座に笑顔を消し去って顔を伏せると、どこか苦みを帯びたマクシミリアンの声が響いた。
「貴女は、少し謝罪の言葉が多すぎるな」
「申し――」
「ほら、また。謝る必要のないことまで謝ったらいけないよ」
「も――、……」
口を突いて出かけた一言を、かろうじて喉の奥に押し込んだ。
代わりに何か言おうとしても、言葉が見つからない。
黙りこくったクリスティーナの耳に、静かな溜息が届く。顔を上げると、マクシミリアンの暗緑色の目が真っ直ぐに彼女へと向けられていた。何か、底知れない光を宿して。
あまりにその目が強いから、クリスティーナはほんの少しだけ怖くなる。
「あ、の……」
言いかけて、また口ごもる。
マクシミリアンはその先を待つようにジッとクリスティーナを見つめていたけれど、彼女がそれ以上何も言えないのを見て取ったのかふとその目を和らげた。
「まあ、おいおい何とかしていこうか。貴女の声が全然聴かれなくなるのは、それはそれで嫌だからね」
そう言って、マクシミリアンは微笑んだ。
その微笑みがいつものものとは何かが違うような気がして、クリスティーナは彼を見つめる。作りは同じなのに、どこか、温かい。
彼女の視線を受け止めて、マクシミリアンは笑みを深くした。
「とにかく、呼び方の件はありがとう――ティナ」
彼が柔らかな声でそう呼んだ瞬間、だった。クリスティーナの胸の中に大輪の花が開いたようにポッと温もりが灯る。
(これは、何?)
吸い込む空気が、熱を持っているような気がする。
クリスティーナは無意識のうちに胸元に手を添えた。そんな彼女の仕草に、またマクシミリアンがそっと微笑む。
「さあ、クリスティーナ。もっと食べて。食事が終わったら、屋敷の中を案内しよう」
マクシミリアンに言われたようにクリスティーナはまた食事に戻ろうとしたけれど、何だか温かくて柔らかな綿が胸いっぱいに詰め込まれているようで、手はあまり進まなかった。