一夜が明けて①
肩がそっと揺さぶられる。そして、クリスティーナに呼びかける声。
「――ナ様、ティナ様。そろそろお目覚めになってくださいな」
物心ついた頃から毎朝耳にしてきたその声は、やんわりとしていてもクリスティーナを眠りの淵から引き上げてくれる。
ウトウトしながら身じろぎをした彼女は、温かな上掛けにしっかりと包まっているのに、何となく空虚な、何か物足りないような気がした。
(昨夜は、もっと温かかったのに……)
何が、足りないのだろう。
そんなふうに思いつつ目蓋を開けると、窓から射し込む光はとても眩しかった。それが早朝のものではないということに気付いたとたんにパッと彼女の頭が覚める。
「おはようございます、ティナ様」
覗き込んでいるのは、モニクだ。
「おはよう、モニク」
応えながら、横目で自分の隣を窺った。枕は凹んでいて、そこに誰かがいたのだという証拠がしっかりと残っている。それが誰かと言われたら――クリスティーナは頬が熱くなった。
一晩、男の人に包まれたまま眠るなんて。
ヴィヴィエの家にいた時よりもぐっすりと眠れていた自分が、信じられない。
「今、何時かしら?」
戸惑いながら、クリスティーナはモニクに問いかけた。
火照った頬に気付かれないようにと祈ったけれど、きっとこの年長の侍女には全てお見通しに違いない。
「もうじきお昼です。旦那様がご一緒にお昼ご飯を、とお待ちですよ」
「お昼……そんな時間……」
クリスティーナは目を丸くして呟いた。
結婚初日からそんなに寝坊するなんて、何ということだろう。大失態だ。
情けなくて涙ぐみそうになったクリスティーナの肩を、モニクがそっと叩いた。
「大丈夫ですよ、一度お起こししようとしたのをお止めになったのは旦那様ですから」
「マクシミリアンさまが?」
「はい、不慣れな場所でよく眠れなかったでしょうから、ゆっくりと休ませて差し上げるように、と」
「そう……」
マクシミリアンの気遣いに、クリスティーナの胸がふわりと温かくなった。と、そこで、彼女は昨晩のことを思い出した。
クリスティーナと彼は、一晩を共に過ごした。
けれど、それは、モニクから聞かされていたものとは全く違う一晩だった。
彼女は、夫婦として為すべきことをきちんと終わらせて初めて夫婦になるのだと言っていた。だから、どれほどつらくても女性はそれに耐えなければいけないのだ、と。
(でも、昨日の夜、マクシミリアンさまは……)
ただ、クリスティーナを抱き締めていただけ。
それでは、まだ二人は夫婦と言えないのだろうか。
「ねえ、モニク」
「はい?」
クローゼットから今日のドレスを取り出そうとしていたモニクがクリスティーナの呼びかけで振り返る。
「え、と……その……」
年長の侍女と目が合ったものの、クリスティーナは続ける言葉を失った。昨夜のことについて彼女の意見を求めたいけれど、何となくあのことは口にしにくい。
目を伏せ口ごもったクリスティーナの元に、モニクがドレスを抱えて戻ってくる。彼女がベッドの脇に立っても、顔を上げることができなかった。
クリスティーナが何か言うのを待っているのか、モニクは黙ったまま佇んでいる。
気まずい沈黙。
(マクシミリアンさまを待たせているのだから、早く支度をしないと)
すでに寝坊をしているのだから、これ以上遅くなってはいけない。
クリスティーナは覚悟を決めて顔を上げる。と、ジッと彼女を見つめているモニクと目が合った。
見られていたのはともかくとして、モニクのその目の中にあるものにクリスティーナは首をかしげる。
「モニク?」
モニクの眼差しに色濃くあるのは、明らかに何かを暗く案じる色だ。そしてここで彼女がそんなふうに気遣う相手は、クリスティーナしかいない。
けれど、何をそんなに心配しているのだろう。
首をかしげるクリスティーナに、モニクはどこか沈んだ眼差しで問うてくる。
「ティナ様……その、どこか痛む場所など、ありませんか?」
思わず、きょとんとモニクを見返してしまった。
「え?」
「お身体で、お辛いところとか……」
「いいえ、全然」
寝て起きただけだというのに、何も異常などあるはずもない。
真面目に答えたのに、モニクには訝しげな顔をされてしまった。訝しげにしながらも、暗く、まるで何かを恐れているような表情は変わらない。
「ティナ様、昨晩のマクシミリアン様は優しくしてくださいましたか? ティナ様のお身体を、労わってくださいましたか?」
「ええ、とても」
頷きながら、クリスティーナはマクシミリアンにずっと優しく抱き締められていたことを思い出す。
二人の間にあったのは互いが身に着けていたものだけだった。
クリスティーナはこの通り透けて見えそうなナイトドレスだし、マクシミリアンの方も薄手の寝具だけで。
間近で感じた彼の温もり、鼓動、吐息。
背中にピタリと押し付けられていた彼の胸も、ずっとクリスティーナのことを捉えていた腕も、自分のものとは全く違う、力強さがあって。
思い出すにつれ、また頬に熱が溜まっていく。
クリスティーナの中に、枕に顔を押し付けて思い切り暴れてしまいたいような、そんな淑女失格極まりない衝動がこみ上げた。
これから毎朝、こんな気持ちになるのだろうか。
それとも、いつか慣れるのだろうか。
両手で火照った頬を覆って目を閉じたクリスティーナの耳に、振り絞るような吐息が届く。パッと目蓋を上げて、眉をひそめてそれを漏らした者を見た。
「モニク?」
呼びかけに応えてクリスティーナに向けられた彼女の眼差しにあるのは、さっきまで見せていたものとは裏腹な、深い深い安堵の色。まるで、絶望の淵から引き戻されたような。
「どうしたの?」
「旦那様がお優しい方で、本当に、よう、ございました」
心の底からそう思っているのだということがひしひしと伝わってくる声だった。
この忠実な侍女は、いったい何をそんなに案じていたのだろう。
(マクシミリアンさまがわたくしに乱暴なことをするとでも思っていたのかしら)
長年、威圧的で激昂し易いコデルロスを見てきたから、必要以上に心配してしまったのかもしれない。
クリスティーナは胸元で上掛けを掴んだまま、もう片方の手をモニクに伸ばす。彼女の手にそっと触れ、俯きがちの顔を覗き込んだ。
「モニク、マクシミリアンさまはとてもお優しい方よ? いつでもお優しくて、穏やかなの」
(それは、わたくしに対してだけでなく、接する者みなに対してのものではあるけれど)
誰かにとって――夫にとってほんの少しでも特別な存在になれればいいのに、という憧れじみた思いはある。
でも、それをマクシミリアンに向かって求めてはいけない。それは、求め過ぎだ。
「……マクシミリアンさまは、お父さまとは全然違うわ」
クリスティーナは微かに胸の奥にわだかまる寂しさのようなものをより深くへと押し込んで、モニクに向けて微笑んだ。
隠したいものはちゃんと隠しきれていたようで、モニクもホッとしたように肩を下げる。
「さようでございますね。みっともないところをお見せしました」
モニクは目じりを指先で拭うと、パッと明るい笑顔になった。
「さあさあ、旦那様がお待ちですからね。早く行って差し上げないと」
「大変、そうね」
笑顔で頷いて、クリスティーナは慌ただしくベッドから出る。
モニクに手伝われながら彼女は下着やドレスを手早く身に着けていった。
「よくお似合いです、ティナ様。旦那様はティナ様のことをよくご存じなのですね、きっと」
身支度を整え終えたクリスティーナにそう言って、モニクが微笑む。
彼女が用意してくれたのは、スカート部に幾重もの薄い布が重ねられた淡い水色の可憐なドレスだ。今まで父に与えられていたものとは、趣が違う。
マクシミリアンは彼女が嫁いだらドレスは全部新調すると言い張ったので、ヴィヴィエの家で着ていたものは皆あちらに置いてきた。結婚式は昨日だったというのにクローゼットにはもう様々な衣類、靴、装飾品が詰め込まれていて、それらはどれも彼が見立てたものなのだと聞いている。
姿見を覗き込んだクリスティーナも、確かにそのドレスは自分に良く似合っていると思った。
と。
彼女は姿見にもう一歩近づき、そこに映る我が身をまじまじと見つめる。
「ねえ、モニク」
「何でしょう?」
「これ、この赤いの……何かしら?」
胸元に、爪ほどの大きさの赤みがいくつか散っている。髪を持ち上げてみると、首筋から鎖骨の辺りにも、二、三個見つかった。
「何か、悪いものでも食べたのかしら」
それにしては、他に身体の不調はない。
そう言えば、朝方、その辺りがくすぐったかったような気がする。もしかして、虫にでも刺されたのだろうか。
(でも、こんなにきれいにされているお屋敷なのに……?)
眉をひそめたクリスティーナの耳に、微かな忍び笑いが届く。
「モニク?」
心配しているのに笑われて、クリスティーナは小さく唇を尖らせた。そんな主に、モニクはにっこりと笑う。
「大丈夫ですよ、ティナ様。それは、旦那様がティナ様を慈しんでくださったという証ですから。数日できれいに消えます」
そう言って、モニクはクリスティーナの後ろに立ち、彼女が持ち上げたせいで少し乱れてしまった髪をサッと整えた。
そうしながら、ようやくクリスティーナに届くか届かないかという小さな声で、呟く。
「ティナ様はこのお屋敷で幸せになるんです……お嬢様の分まで」
(お嬢様?)
それは、耳慣れない呼び方だった。
もしかしたら、早くして亡くなってしまった母、エリーゼのことを言っているのだろうか。
振り返って確かめようとするより先に、扉の方へと背中を押されてしまう。
「さあ、お早く。旦那様がきれいなティナ様のお姿を今か今かとお待ちになっていらっしゃいますよ」
そう言われ、朗らかに促す侍女の先ほどの台詞が頭に引っかかりながらも、廊下を歩き出した瞬間から、クリスティーナの心の大部分は夫となった人の下へとすでに向かいかけていた。