SS:力の源
あれから、半年ほどが経ちました。
「ふう」
書類の半分まで目を通し終わり、マクシミリアンは大きく息をついた。
ここ数日かかりきりの案件が、いよいよ大詰めを迎えている。さる貿易会社との合併を進めているのだが、相手はなかなか曲者でこちらが提示する条件をのらりくらりとかわしてくるのだ。
おかげで、もう三日はクリスティーナとゆっくり過ごす時間を持てていない。朝は早いし夜は遅い。食事も相手との交渉を兼ねて外ですることしばしば。眠っている彼女を抱き締めるくらいしかできないが、今日はそれもまだもう少し先になりそうだ。
「あの狸。いい加減に諦めればいいものを」
若干黒い声でぼそりとぼやいた時だった。
コンコン、と控えめに書斎の扉が叩かれる。
時計に目をやれば、もう二十二時を回っている。メイドたちはとうに下がらせているし、アルマンにしてはためらいがちな叩き方だ。
「どうぞ」
いぶかしく思いながら許しを返すと、一呼吸置いてそっと扉が開かれた。
そこから顔を覗かせたのは。
「ティナ!?」
マクシミリアンはどっしりした椅子を蹴倒す勢いで立ち上がって、彼女を迎えに戸口まで走った。
「どうしたんだい?」
いつもなら、もうとうにベッドに入っている時間だ。それに、幼い頃から父親に『書斎は仕事場』かつ『仕事の邪魔をするな』と叩き込まれてきたせいか、クリスティーナがこの部屋を訪れることは滅多にない。マクシミリアンとしてはずっと入り浸ってくれてもいいくらいだし、いつでも顔を見せてくれと伝えてあるが、深く刻まれたものはなかなか修正が利かないようだ。
そんな彼女が本来眠っている時間にここに来たということは、何か問題が起きたに違いない。マクシミリアンの中に、ぶわりと不安が沸き上がった。
「具合でも悪い?」
薄暗い廊下から書斎の中へと引き入れながら、ナイトドレスにガウンを羽織っただけのクリスティーナの頭の天辺からつま先まで何度も検める。
今日は暑かったから、体調を崩したのかもしれない。
そう言えば、最近あまり食が進んでいないとモニクが言っていたような気がする。
もしもそうならほんの少しでも疲れさせてはいけないと、マクシミリアンは有無を言わさずクリスティーナを抱き上げ椅子へと運ぼうとした。
寛ぐための部屋ではないので実用一点張りの椅子しかないのが腹立たしい。
が。
「マクシミリアンさま、大丈夫ですから下ろしてください」
小さな手のひらでトントンと肩を叩かれ、マクシミリアンは足を止める。
「だけど、ティナ……」
「わたくしの身体は、問題ありません」
気持ち『わたくしの』に力が籠っているような気がするのは、マクシミリアンの気のせいではないと思う。
「ティナ?」
言われたようにクリスティーナを床に下して見つめると、彼女は微かに眉根を寄せて見返してきた。
「まだ、お休みにならないのですか?」
「え?」
「昨晩も、ずいぶんと遅かったでしょう?」
確か、深夜は過ぎていた。
「ああ、まあ……」
「でも、今朝はまだ暗いうちにお目ざめになりました」
てっきり、彼女はまだ眠っているものと思っていたのだが。
「お食事も、今日は途中で席を立ってしまわれて」
「ごめん」
思わず謝ると、クリスティーナは小さく唇を噛んだ。
「謝罪が欲しいのではありません」
そう言って、マクシミリアンの胸にその手を添える。
「もう少し、マクシミリアンさまご自身のお身体のことを気遣っていただきたいのです」
「私?」
目を丸くすると、彼女はこくりと頷いた。
「はい。最近、お仕事をなさり過ぎではありませんか? こんなふうにされていたら、マクシミリアンさまのことが心配です」
まじまじと、マクシミリアンは妻を見つめた。
台詞でも声でも眼差しでもクリスティーナの気持ちが伝わってきて、彼の胸が締め付けられる。以前、彼女を避けるためにがむしゃらに働いていた時も案じられていたが、二人の間に不可視の壁がそびえ立っていたあの頃は、彼女もまだこんなふうにはっきりと伝えてはこなかった。
マクシミリアンに注がれているクリスティーナの眼差しは、彼のことを咎めているようにすら見える。
何だろう、腹の奥底から込み上げてくるこの感じは。
考えるよりも先に身体が動いて、気付けばマクシミリアンはクリスティーナの唇を奪っていた。条件反射のように彼女は彼を受け入れかけたけれども、すぐに我に返ったらしい。
グイと胸が押される。
渋々顔を上げれば、睨まれた。
「ごまかさないでください」
「いや、そんなつもりは……貴女があまりに可愛らしいことを言うからいけないんだよ」
「マクシミリアンさまのことを心配するのが『可愛い』ことですか?」
いけない、もっと拗ねさせてしまったらしい。
「貴女が私のことを気遣ってくれるのが、嬉しくて可愛らしくて愛おしいんだ」
言いながらマクシミリアンはクリスティーナのことをヒョイと抱き上げて、とっさにしがみ付いてきた彼女の耳の下に口付けた。ヒクンと身をすくめるその仕草もまた、愛らしい。
マクシミリアンは彼女を抱き上げたまま机の向こうに回り、どしりとした肘掛椅子に腰を下ろす。彼の膝の上に乗せられたクリスティーナはそこから下りようとしたけれど、背中と腰をガッチリホールドして阻止した。
「マクシミリアンさま?」
困惑を帯びた声に力を緩めると、クリスティーナはマクシミリアンの肩に手を置いて少し身体を離した。見えるようになった彼女の瞳の中には、声と同じものがある。
そんなクリスティーナに微笑みかけてから、マクシミリアンはまた彼女を引き寄せた。
「目覚めている貴女をこうして抱き締めるのは、ずいぶんと久しぶりな気がするな」
クリスティーナの耳元に囁きかけながらそっと華奢な首筋を吸うと、また、彼女は身を震わせた。眠っているときに同じことをしても反応がないから、少し物足りないのだ。
マクシミリアンは触れれば応えてくれる身体を、しばし堪能する。
クリスティーナの方も抗うことなく彼の抱擁を受け入れてくれていたけれど、不意に、ポツリと呟いた。
「もう、そんなにお働きにならなくてもよろしいのではないですか?」
「え?」
クリスティーナの顔を覗き込むと、彼女はためらいがちに目を伏せた。
「もっと、ゆっくりなさったらよろしいのに。マクシミリアンさまはもう充分に裕福でいらっしゃるでしょう?」
「ああ……うん。財産は、私ももういらないね」
「だったら――」
「ここまでくると、私が働くのはもう私の為だけではなくなってしまうんだ。私が人を使うことで社会が安定するんだよ」
「社会?」
「そう。人は、仕事を持つことで、満足、安心、誇りを持てるんだ。個々人が安定すれば、社会も安定する。それに、使う金がない人ばかりだと誰も物を買ってくれないだろう? 私が物を売るには、買ってくれる人が必要なんだよ。そうすると人を雇うしかなくて、雇う私は彼らに責任を持たなければならない。そうやっていろいろなことがつながっているから、もう途中で降りることはできないんだよ」
まるで義務であるかのような言い方になってしまったが、マクシミリアンは今の自分に満足していた。この国を良くすることは、すなわち、クリスティーナの生活をより良いものにするということだ。それは金銭的に贅沢をさせるという意味ではない。クリスティーナが先ほど言ったように、彼女に金はもう必要ないだろう。たとえもっと貧しい生活をしていたとしても、彼女は満足できているに違いない。
クリスティーナの幸せは、きっと、富に左右されるものではないのだ。
彼女自身だけでなく、孤児院の子どもたちや、まだ知らぬ人々、彼女とは何の関係もないような人々も穏やかに豊かに暮らして行けるような日々が、彼女にとっての幸せなのだ。
クリスティーナの中に迷いがチラつく。
マクシミリアンの言葉を受け入れつつ、それでもどうしても彼のことを案じる気持ちは消せないのだろう。
そんな彼女が腕の中にいれば、潰さんばかりに抱き締めたくなってしまう。マクシミリアンは、彼女が結論を出すまではと理性で欲求を雁字搦めに縛りつけた。
しばらくクリスティーナは悩んでいたけれど。
「でも、やっぱり、マクシミリアンさまにはもっとご自分を労わっていただきたいです」
そんなことを言うから、マクシミリアンは我慢ができなくなった。
華奢な腰と丸い頭に手を回し、クリスティーナをきつく抱き締める。
そうして、彼女の耳元で囁いた。
「こうやって貴女を抱き締めさせてくれたら、それだけでこの身体中に力が満ちるよ」
途端、クリスティーナがマクシミリアンの胸に両手を当てて、グイと突っ張った。かなり本気の力に、彼は目を丸くする。
「ティナ?」
「わたくしに触れては駄目です」
「どうして」
「わたくしに触れただけで栄養にも休息になるはずがありません。そんなふうにごまかさないで、ちゃんと、お休みを取ってください」
そう言って、彼女はそそくさとマクシミリアンの膝から下りてしまう。彼女はまるでまた捉えられることを警戒しているように若干小走りで戸口まで行ってしまった。
「お食事と睡眠は、ちゃんと摂ってください」
最後にドアの陰から覗くようにしてマクシミリアンをたしなめると、クリスティーナはパタンと扉を閉じた。
呆気に取られて彼女を見送ってしまったマクシミリアンだったが、我に返ってクスクスと笑い出す。
「貴女が私にとって何よりの力の素になるのは、本当のことなのだけどな」
ここにはいない人に囁いて、彼は、読みかけだった書類を手に取った。
さっさと終わらせ、温かな彼女の隣に潜り込むために。
忘れたころにやってきたSSです。
誰だよお前って感じですね。
SS、もう一つか二つは、付け足したいです。