SS:あなたに逢えて良かった【後編】
「もう一年か」
卓上の暦にふと目を留め、マクシミリアンはつぶやいた。
五月も半ばを過ぎた今日のこの日は、一年前、彼が人生最大の賭けに出て、そして何ものにも代えられない勝利を収めた日だ。もっとも、勝利したとは言え、今手にしているような幸福を得られるとは微塵も思っていなかったのだが。
あの時は、ただ、彼女を最悪の不幸から救うこと――ただそれだけが、マクシミリアンの望んだことだった。
コデルロス・ヴィヴィエがまるで売りに出すように娘を結婚市場へと放り出した時、彼が介入する直前まで、彼女を手に入れることになっていた男は齢六十七の富豪だった。その富は、マクシミリアンを遥かに上回る。これまでに五人の妻を迎えたことがあり、その全員が嫁いでから五年以内に亡くなっていた。
誰か、この上なく素晴らしい男が相手であれば、マクシミリアンも動かなかったかもしれない。
だが、あの男が彼女を幸せにしてくれるとは、到底思えなかったのだ。
だから、誰もが彼の正気を疑うような法外な値を投げ出し、彼女を『落札』した。
もしもあの時彼女が彼を拒んでいたら、どうなっていただろう。あるいは、あの男がマクシミリアン以上の金を出していたら。
もしかしたら、彼女はもっと幸せになっていたかもしれない。何しろ七十間近な男なのだから、もしかしたら数年のうちに死んで、彼女は裕福な未亡人として穏やかに暮らすことになっていたのかもしれない。
今でも、ふとした拍子にそんな不安が込み上げる。
マクシミリアン自身はこれ以上はないというほどの幸せを手に入れられたが、彼女の方もそうだとは、限らないから。
しかし、そんなふうに気持ちは揺れても、あの時の選択を悔やむ思いは皆無だった。
過去に戻ってやり直すことができるとしても、マクシミリアンには他の道を選ぶことができない。
(仕方がない)
彼は椅子の背に身体を預けてため息をこぼした。
と、その時。
控えめに扉を叩く音が。
そろそろお茶の時間ではあるが、アルマンではない。彼はこんなふうには叩かない。
誰だろうと思いながら、入室を促した。そして覗いた顔に、微かに目を見開く。
「ティナ? どうしたの?」
クリスティーナは開いた扉から足を踏み入れず、ためらいがちに書斎の中に目を向けていた。
昼間、マクシミリアンが仕事をしているときに彼女がやってくることは滅多にない。この一年の間で数えるほどだろう。
「何かあった――お義母さんに、何か?」
問題が起きるとしたら、マクシミリアンにはそのぐらいしか思い当たらない。
アランに襲われたあの日から、徐々にエリーゼは回復し始めた。最近では、言葉も交わせるようになってきている。だが、まだまだ不安定な状態ではある。
ぐるりと机を回ったマクシミリアンに、クリスティーナはキョトンと目をしばたたかせた。
「いえ、違います。お母さまはお元気です」
かぶりを振ってから、可憐な小鳥のように小さく首を傾げる。
「今、よろしいですか?」
「ああ、それは構わないけれど……ちょうどお茶の時間だし、アルマンに貴女の分も用意させるよ」
「あ、それは良いのです」
「そう?」
ほんの少しがっかりした声になってしまったのは、許して欲しい。が、次いで向けられた彼女の笑顔にマクシミリアンは一気に浮上した。
「あの、わたくしにお茶のお世話をさせていただきたいのです。よろしいですか?」
「ティナが? それは、よろしいというよりむしろ嬉しいよ」
現金なもので、勝手に顔が笑ってしまう。
「良かった。では、すぐに」
そう言うとクリスティーナは扉をしっかり開けて、ワゴンを押して入ってくる。それを目にして、マクシミリアンは、おや、と思った。
その上に載っているのは、いつもとは違う内容だ。
普段もお茶請けはあるが、頭の回転を保つのが目的で、数枚のクッキー程度しか口にしない。基本的には手で摘まめるものだ。
今日はそうではなくて、ふわりと膨らんだケーキにクリームが添えてある。記憶に残る限り、クッキーとサンドイッチ以外のものが出たのは、初めてではないだろうか。
もしかしたら、クリスティーナが一緒というので急遽焼いたのかもしれない。
内心で首をかしげるマクシミリアンの前で、クリスティーナは若干心許ない手つきでお茶の準備を進めていく。世話を焼くという点ではモニクはやや過保護気味だから、クリスティーナは給仕など滅多にしたことがないに違いない。
手間取りながらも形は整い、机に戻ったマクシミリアンの前にクリスティーナがお茶とケーキを置いてくれる。と、あるのはマクシミリアンの分だけで、彼女は両手を身体の前で組んで机の傍に佇んでいる。
なんとなく、その目の輝きがいつもよりも眩いような気がするのは、気のせいだろうか。
「その……ティナの分はないの?」
尋ねると、彼女はこくりと頷いた。
「はい。わたくしは良いのです。どうぞ召し上がってください」
なんだか、やけに期待に満ち満ちているような気が。
せっかくクリスティーナが用意してくれたのだから、と、彼女が一緒に楽しまないことを少しばかり物足りなく思いながらもお茶を口に運び、ケーキに手を伸ばす。
予想以上にふわりとしたそれを一口食べると、パッとクリスティーナの顔が輝いた。
「いかがですか?」
「ああ、美味しいよ。とてもふわりとして、口の中で溶けるみたいだ。こんなケーキは初めて食べたな」
元々、マクシミリアンは甘いものはあまり口にしたことがない。そもそも彼は食に対して興味がなく、食後のデザートもクリスティーナが来てから、彼女の為に始まったものだ。
マクシミリアンの返事に、クリスティーナがこの上なく嬉しそうに顔を綻ばせる。
そして続いた告白は。
「良かった。そのケーキはわたくしが作ったのです」
「え!?」
思わず声を上げたマクシミリアンに、クリスティーナは得意げに微笑んだ。
「お料理をしたのは、初めてです。料理長に教えていただきました。とても、楽しかった……ああ、お母さまも手伝ってくださいました。でも、モニクがもう心配でたまらないらしくて、すぐに手を出してきてしまうのです」
彼女は本当に嬉しそうだが、何故突然そんなことを。
胸の中でのマクシミリアンの呟きは、無意識のうちに口から外へとこぼれていたらしい。
クリスティーナが小首をかしげて問うてくる。
「覚えていらっしゃいますか? 一年前の今日、マクシミリアンさまはわたくしに結婚を申し込んでくださいました」
「もちろん」
忘れるはずがない。
つい先ほども、思い返していたところだったのだから。
即座に返されたマクシミリアンの肯定に、クリスティーナがニコリと笑う。
「わたくしにとっては、マクシミリアンさまとお会いした、初めての日です」
そうして彼女は、組んだ両手を胸の前に持ち上げた。
「あの、この日を、マクシミリアンさまのお誕生日にしたいのですが……お許しいただけますか?」
「たん、じょうび……?」
ぼんやりとその言葉を呟くと、彼女は深々と頷いた。
「はい。お誕生日というのは、あなたが生まれてきてくださったことが嬉しい――あなたにお逢いできて良かった、という気持ちでお祝いするものなのでしょう?」
クリスティーナは生真面目な顔でマクシミリアンを見つめている。
「マクシミリアンさまがお生まれになったその日がなければ、わたくしは貴方にお逢いすることができませんでした。こうやって、貴方の傍で幸せになれていなかったのです。マクシミリアンさまがお生まれになった日は、わたくしにとっては充分にお祝いする価値がある日です」
彼女はふわりと微笑んだ。
「マクシミリアンさまが求婚してくださったあの日から、全てが始まりました。とても……とても、大事な日です。わたくしにとっても、あの日の方が誕生日よりも『始まりの日』なのです」
クリスティーナの言葉は、真っ直ぐにマクシミリアンの心に突き刺さる。
今、彼女が語ったことは、そのまま、マクシミリアンから彼女に返したいものだった。
彼はふらりと立ち上がり、クリスティーナの前に立つ。そうして、彼女の両手を取り、そっと口付けた。唇に触れさせたまま、告げる。
「私も、同じだ。あの日まで、私は生きていても死んでいた」
この世界に色を、匂いを、音を――全ての感覚を実感できるようになったのは、彼女が傍にいてくれるようになってからだ。
まさに、あの日に、この世に生まれ出でたようなもの。
喉の奥から引き絞るようなマクシミリアンの囁きに、クリスティーナがニコリと笑う。そして包み込まれている手を広げ、彼の頬に触れた。
「あの時、わたくしを求めてくださって、ありがとうございます。貴方がそうしてくださらなければ、わたくしも、生きることなく過ごしていたでしょう」
彼女の笑顔に、その言葉に、マクシミリアンの胸が詰まる。
思わず奪うように唇を重ね、華奢な身体が折れんばかりにきつく抱き締めた。そうして、月の光にも似た柔らかな髪に頬を埋めて、囁く。
「貴女に逢えて、良かった」
一呼吸置いて、マクシミリアンの耳を忍び笑いがくすぐった。その声は、さながら天上の音楽のように心地良い。
そうして、笑いを含んだまま。
「それは、わたくしの台詞です」
背中に回った細い腕に抱き返されて、マクシミリアンは、至上の幸福に包まれた。