初めての夜
「あら、ティナ様。披露宴はもういいのですか?」
今日からクリスティーナと――マクシミリアンの寝室となった部屋に入ると、そこにいたモニクが声を上げた。クリスティーナのことを『ティナ』と呼ぶのは彼女だけだ。
モニクは枕をポンポンと叩いて膨らませてから、クリスティーナに向き直る。
どうやら、彼女たちの寝支度を整えてくれていたらしい。
「ええ――」
答えようとして、クリスティーナは、モニカと一緒に視界に入ってしまった五人は横になれそうな大きなベッドから、ちょっと目を逸らした。
それが置かれたこの部屋は、元々マクシミリアンの寝室だったと聞いている。
最初に彼の屋敷を案内されたとき、クリスティーナは他に彼女一人の寝室があるのかと思っていたら、当然のように夫婦は毎夜一緒に眠るものだと言われてしまった。
夜眠るときに誰かが隣にいるなんて、気まずい。けれど、夫婦とはそういうものだとマクシミリアンに断言されれば、我がままを言うわけにはいかない。
「マクシミリアン様はどちらに?」
モニクの目が、一人で戻ってきたクリスティーナの背後に向けられた。
「まだ大広間にいらっしゃるの。お仕事相手の方とお話があるのですって。わたくしには、今日はもう休むようにとおっしゃってくださって」
優しい方です、と笑顔で言うクリスティーナに、モニクは何故か微かに顔を曇らせた。
「モニク?」
首をかしげて呼びかけると、彼女の表情は一転してパッと明るくなる。
「ああ、いえ、少しぼんやりしてしまって」
「大丈夫? あなたも早く休んだほうが良いのではなくて? 疲れたでしょう?」
「いえ、平気です。さあ、まずはお風呂ですよ。すぐに用意します」
「ありがとう」
いつものように甲斐甲斐しく世話を焼こうとしてくれる侍女に、思わず笑みがこぼれた。
モニクがいると、クリスティーナには結婚したのが現実だとは思えなくなってくる。
確かに今立っているこの部屋は彼女が幼い頃から馴染んできたものとは違うけれど、モニクの存在は激変した生活からの緊張感を和らげてくれる気がした。
クリスティーナの母、エリーゼが幼い頃は彼女の乳母に、そして彼女が長じてからはその侍女になったモニクは、エリーゼが嫁ぐときに一緒にヴィヴィエ家についてきたのだと聞いている。出産のときにエリーゼが亡くなると、今度はそのままクリスティーナの乳母になった。
もうモニクは五十歳を超えているから、この結婚を機に十分な退職金を渡して暇を出すのが妥当だった。けれど彼女は、クリスティーナとともにストレイフ家に来ることを望んでくれたのだ。クリスティーナにとって一番『母親』に近い存在であるモニクが一緒に来てくれるのは、とても心強いことだった。
モニクが用意してくれた湯船に浸かると、その心地良さにクリスティーナの身体から強張りが取れていく。香り付けのために浮かべられているハーブの入った小袋を指先で突いて、彼女はホッと吐息を漏らした。
思った以上に、緊張していたらしい。
こうやって寛いでみて、クリスティーナは初めてそれを自覚した。
「お湯加減はいかがですか?」
衝立越しに、モニクが尋ねてくる。
「ちょうど良いわ。ありがとう」
クリスティーナがそう答えた後も、彼女の気配はそこに留まっていた。いつもなら、他の用を済ましに行くのに。
「モニク?」
声をかけても、返ってきたのは沈黙。
「……どうかした?」
もう一度呼びかけてから、ややして。
衝立の陰から、モニクが顔を覗かせる。
「ティナ様。今日、これからどのようなことがあるのかはお話ししましたね?」
少し強張った顔での確認に、クリスティーナは一瞬固まり、そして頷く。
「……ええ」
これから、どのようなことがあるのか。
それは、結婚が決まった日の夜にモニクから聞かされた。
正直、不安だ。けれども夫婦となった者たちには必要なことなのだと言われれば受け入れるしかないだろう。
うつむくクリスティーナに、モニクの顔がかすかに曇った。
「……今晩、マクシミリアン様には決して抗わないように。旦那様がなさることは、どんなことでも受け入れてください。嫌がったり、逃げようとしたりしてはいけません。大丈夫、妻となった女性は皆、経験することです。つらくても、自然なことなのですから」
クリスティーナに心構えをさせる為なのだと解かっていても、モニクが言葉を重ねるにつれ彼女の中にはどんどん不安が募っていく。お湯に浸かっているにもかかわらず心持ち色の褪めてしまったクリスティーナの頬に気が付いて、モニクが取り繕うような笑みを浮かべた。
「きっと、マクシミリアン様なら優しくしてくださるはずです――お父様とは全く違う方なのですから……」
モニクの言葉の内容は断言するものなのに、その声音はそうであることを祈っているように聞こえる。
「モニク?」
「――何でもありません。とにかく、旦那様のされることを全て受け入れてください。さあ、そろそろ上がってくださいな」
モニクはさっきと同じことをもう一度繰り返して、タオルを差し出した。それを受け取り湯船から出ながら、クリスティーナは目を伏せる。
(そんなに、つらいことなの……?)
モニクの言う通り、マクシミリアンは優しい。クリスティーナへの接し方もとても洗練されていて、穏やかだ。
さっきは廊下であんなことがあったけれども、それだって、あれほど謝ってくれたではないか。
そんな彼が、モニクがこれほど心配してしまうような乱暴や無体を働くとは到底思えない。
侍女の心配に思いを巡らせながら手を動かしていると、いつの間にか身体の水分は拭き切っていた。
「さあ、ティナ様。今晩はこれをお召しくださいな」
そう言ってモニクが差し出したのは、ずいぶんと薄手のナイトドレスだ。たくさんのレースがあしらわれていてとても綺麗だけれども、これでは、着ていても肌の色が透けてしまう。
「今日から、マクシミリアンさまも一緒にお休みになるのよ?」
「ええ、もちろん」
彼が一緒なのにこんなに薄手のものでは恥ずかしいのだと言ったつもりだったのに、クリスティーナが困惑しているうちにモニクはあれよあれよという間にそのドレスを着つけてしまう。
「さあ、ベッドにお入りになって。冷えたら風邪をひきます」
着替えを要求する間もなく、ベッドの中へと追いやられてしまった。
「では、私は下がりますので……お休みなさいませ」
広いベッドの上に置き去りにされたクリスティーナは、すごすごと上掛けの下に潜り込んだ。
布団もシーツもとても良いものらしく、柔らかく彼女を包み込んでくれる。けれど、その心地良さにも拘わらず、式の緊張と興奮のせいか、なかなか眠りが訪れてくれない。
ようやくうとうとと微睡の中に引き込まれ始めた頃、ふいにベッドが揺れた。
そして、どことなく漂う違和感。
――何か、いつもと違う気がする。
いつもとは違う、気配。
いつもとは違う、香り。
いつもとは違う――温もり。
(……何……?)
ぼんやりと目蓋を上げたクリスティーナは、薄明りの中、吐息を感じそうなほど間近から食い入るように彼女を見つめてくる暗い瞳と、視線を絡ませていた。
――どうして、この部屋に彼がいるのだろう。
半分眠りの中にあるクリスティーナの頭が目の前にあるのはマクシミリアンの顔だと認識したとき、最初に浮かんだのはそんな疑問だった。
だから、それをそのまま口にする。
「どうして、ここにいらっしゃるのですか?」
眠気でうまく回らない舌だと、ちゃんと言えなかったのだろうか。弱い明かりの中で、どこか面白がるように彼の唇が歪んだのが見て取れた。
マクシミリアンの反応に、クリスティーナは少しムッとする。
ここは、彼女の部屋のはず。
だから、自分の質問はおかしいものではないはずなのに。
女性の、それも未婚の女性の部屋に男性がいるのは、良くないことだ。
そう言おうとしたクリスティーナの唇が、塞がれる――近付いてきたマクシミリアンの唇に。
そっと重ねられたその感触はとても優しくて、クリスティーナは何の抵抗もなくそれを受け止めてしまう。けれどすぐにそれが不適切なことだと気付き、両手でマクシミリアンの胸を押した。彼女の力などたかが知れているから、彼女が押しやったというよりも彼が離れてくれたという方が正しいのだろう。
「クリスティーナ?」
少し距離を取ったマクシミリアンが、首をかしげて見下ろしてくる。
「こんなことはいけません」
「……何故?」
「いけないからです」
「いけなくなんてないだろう? 私と貴女は夫婦なのだから」
「――あ」
言われて、クリスティーナはその事実を思い出した。目を瞬かせた彼女の頬をマクシミリアンが両手で包み込み、またキスをする。
「貴女は、私の妻だ……私の、ものだ――やっと……」
彼は、クリスティーナと唇を触れ合わせたまま、囁いた。彼女に言い聞かせるように。
何度も触れてくる唇の柔らかさと、そのたびに耳に届くチュ、チュという小さな音。
ここに至ってついに完全に眼覚めたクリスティーナの頭が、今が深夜で、ここが寝台の上なのだということをはっきりと認識する。誰かがこんなに近くにいるのも初めてだということにも。
刹那脳裏をよぎったのは、モニクの教えてくれたことだ。
(何をされても、逆らわず――)
意識したとたんに、身体が強張った。
「……どうかした?」
クリスティーナの変化を感じたのか、顔を上げたマクシミリアンがそう問いかけてきた。彼女は何と答えたらいいのか判らず、顎を引く。
「なんでも、ないです」
「――そう?」
かろうじて、笑顔は作れたと思う。
クリスティーナのその懸命の努力に、マクシミリアンの目に、ほんの一瞬光が閃いた気がした。
どことなく、不穏な光が。
彼はクリスティーナに微笑み返すと、また頭を下げてきた。
クリスティーナは奥歯を食いしばって、キスに対して身構える。
が。
「ふひゃっ!?」
淑女らしさの欠片もない間の抜けた悲鳴と共に思わず跳ね起きた彼女の頭突きを、マクシミリアンが間一髪で回避した。
右の耳を片手で押さえてズリズリと枕の方へとにじり上がるクリスティーナを、マクシミリアンは明らかに笑いをこらえた眼差しで見守っている。
「クリスティーナ、どうして逃げるの?」
「あの、今、マクシミリアンさまが……」
「私が? 何か?」
彼は澄まして問い返してきた。
何、と言われても。
クリスティーナは確かに彼に噛まれた――いや、吸われた耳朶をギュッと握り締める。そうしても、そこから背筋に走った奇妙な感覚はなかなか消えてくれない。
これは、こういう時によく行われることなのだろうか。
仄かな灯りの中でマクシミリアンを見つめても、彼は笑顔を返してくるだけだ。
モニクからは、こんなことをするとは聞いていなかった。
けれど、彼女は、マクシミリアンのすることを全て受け入れるようにとは言っていた。
決して逆らわないように、と。
クリスティーナはグッと唇を引き結び、そろそろとまた横たわる。そうして目を閉じて、マクシミリアンの次の行動を待った。
ややして聞こえてきたのは、小さな忍び笑い。
彼女がパッと目を開けるのと彼が隣に横たわるのとは、ほぼ同時のことだった。
クリスティーナが向き直ろうとするより早く、マクシミリアンが彼女のお腹に腕を回して彼の胸元へと引き寄せた。後ろからすっぽりと抱きすくめられて、背中がピタリと温もりに寄り添う。
次に彼がどんな行動を取るのかと身構えたけれど――
「あ、の、マクシミリアン……さま……?」
いつまで待ってもクリスティーナを包み込んだまま何もしようとしないマクシミリアンに、彼女はおずおずと呼びかける。
それに対して彼から返ってきたのは、つむじの辺りに落とされた優しいキスだった。
そして、そのキスよりもさらに優しい声が続く。
「ゆっくりおやすみ、クリスティーナ。良い夢を」
クリスティーナの戸惑いをよそにそう囁いて、マクシミリアンは彼女を一層胸深くに抱き込んだ。
彼の緩やかな吐息がクリスティーナの髪を微かに揺らす。
包み込んでくるその腕も胸も、やっぱり優しくて。
それは、クリスティーナが初めて知る温かさ。
(人の温度って、心地良い……)
そんな場合ではないとは思うけれども、そんなことを考えてしまった。
クリスティーナの身体からは、いつしか自然と力が抜けていく。
彼女は自分のお腹の辺りに置かれた大きな手に自分の手を重ねてみた。マクシミリアンはもう眠ってしまったのか、そうしてもピクリともしない。規則正しく繰り返される呼吸がクリスティーナの背中を微かに揺らす。
大きな温もりとゆったりとした鼓動に誘われて、いつしかクリスティーナは深い眠りへと引き込まれていった。