SS:あなたに逢えて良かった【前編】
四月半ばのその日は、クリスティーナがクリスティーナ・ストレイフとして迎える初めての誕生日だった。
一ヶ月前から着々と準備は重ねていたが、マクシミリアンは当日まで祝いのパーティーを開くことを当人には教えずにいた。
パーティーに招いたのはギョームの孤児院の子どもたちとそこでつながりを持ち始めたクリスティーナの友人たちだ。
正面扉を開くなり押し寄せてきた子どもたちに揉みくちゃにされ、驚きからすぐに満面の笑みに変わった妻の顔を、マクシミリアンは少し離れたところから堪能した。
上気した頬に次々と子どもたちのキスを受ける彼女は、実に可愛らしい。
パーティーと言っても形式ばったものではなく、普段着のままで、広間に用意したのはお茶とケーキに音楽隊。マクシミリアンがクリスティーナの気を引いているうちに、午前中いっぱいかけて屋敷の者が総出で部屋中に花を飾った。
アデールを筆頭にした子どもたちにまとわりつかれながら広間に足を踏み入れたクリスティーナは、そこでまた、嬉しい驚きに顔を輝かせた。彼女はパッと振り返り、マクシミリアンと目が合うと少しはにかみを滲ませた笑みを浮かべる。
子どもの一人に袖を引かれて彼女の意識はすぐにそちらへ向いてしまったけれども、束の間見せてくれた彼女のこの上なく嬉しそうな笑顔に、マクシミリアンは丸一日分に匹敵する満足感を得た。
当然のようにアデールにせがまれてピアノに向かったクリスティーナが、少女と連弾で明るく楽し気な曲を弾き始める。
弾むように周りで踊り始めた子どもたちに、クリスティーナの微笑みが深まった。隣に座るアデールと視線を交わし、声を上げて笑う。鈴が転がるようなその音色は、喧騒など打ち消してマクシミリアンの耳に届いた。
それを受けて込み上げてくるのは、胸が詰まるほどの幸福感だ。
クリスティーナの笑顔も、その声も、一年前とは全く違う。
この一年間で彼女に起きた大きな変化が、マクシミリアンは嬉しくてならない。
壁に背を預けて楽しそうな妻の姿を視界に納め、紅茶を口に運びながら、彼は過去に思いを馳せる。
かつてのクリスティーナの笑顔は、一つだった。
精巧でも魂を持たない作り物の人形が浮かべる、整った、けれども虚ろな笑顔。
誰に対しても、たとえ反吐を吐きかけたくなるような相手でも、父の益になる者には変わらずその笑顔を向けていた。幾度か顔を合わせていたはずだったが、どれほど美しくても、それはマクシミリアンの心をかすりもしなかったのだ。
彼女が彼を捉えたのは、五年前。
十六歳の誕生日に垣間見た、あの微笑み。
今のクリスティーナとアデールのように招待客の娘と並んで座った彼女が浮かべた温かく柔らかな笑みに、マクシミリアンは一瞬で魅了され、囚われてしまった。
あの時彼女が浮かべた微笑みが、彼が焦がれて求めてやまなかったあの微笑みが、今は惜しげもなく振り撒かれている。
アデールとともに鍵盤に指を走らせながら、時折、クリスティーナは目でマクシミリアンを探す。視線が合うと、彼女は微笑む。
子どもたち、いや、他の誰に向けるものとも違っているその微笑みは、マクシミリアンが一番好きな彼女の笑顔だった。
少し前までなら、クリスティーナが子どもたちにあんなふうに笑顔を与えることに、胸が焼け焦げていたかもしれない。だが、想いが通じ合った今では、わずかばかりじれったいような思いを抱くくらいで済む程度には落ち着いている。
まあ、それでも狭量に過ぎることは自覚しているが、まだマシにはなったのだからとマクシミリアンは自分をごまかした。そうする我が身の弱さ醜さに、うんざりする。
(まったく、私はどうしようもないな)
は、と自嘲の失笑を落としたその時。
「マクシミリアンさま」
柔らかな声が彼を呼ぶ。
目を上げるとすぐ前にクリスティーナが立っていた。
「ティナ……どうしたの?」
何か足りないものでもあったのかと首をかしげると、クリスティーナは一つ二つ目をしばたたかせた。そうしてから、ふわりと微笑んだ。
「何もありませんわ。ただ、マクシミリアンさまのお傍に参りたかっただけです」
「私の? でも、子どもたちは?」
問いかけながら視線を流すと、皆、音楽隊が奏で始めた曲に合わせてウサギのようにピョンピョンと跳ねていた。一応、踊っているつもりなのだろう。
「可愛らしいですね」
そう笑ったクリスティーナの頬はほんのりと火照っていて、子どもたちに負けず劣らず愛らしい。
しばらく彼女はマクシミリアンの隣で子どもたちが楽しむさまを眺めていたけれど、不意にまた彼を見上げてきた。
「マクシミリアンさま、わたくしと踊っていただけますか?」
「え?」
見れば、期待に満ち満ちた眼差しがマクシミリアンに注がれている。
二人は、まだ、踊ったことがない。
いくつか出席した仕事の付き合い上のパーティーは顔出し程度で帰っていたし、以前に屋敷で開いた雇人たちを労う会では――あの通りだったから。
「ダンス……」
「お嫌、ですか?」
クリスティーナの笑顔が微かに陰った。彼は慌てて笑顔で取り繕う。
「別に、嫌な訳ではないよ。ぜひ、踊って欲しい」
確かに、嫌ではない。
それは、間違いではない。
ただ、一瞬、頭の中をよぎったのだ。
『仕事』として女を腕に抱き、鼻を衝く香水の臭いに息を詰めながらステップを踏んでいた頃のことが。
胸の内で頭を振るってその記憶を打ち払い、マクシミリアンはクリスティーナに手を差し出した。彼女はそこに繊手を重ね、どこか窺うような色をにじませた眼差しで微笑む。
マクシミリアンは彼女の手を持ち上げ、指先にそっと口付けた。
「本当に、私も踊って欲しいんだよ」
笑顔を返してそう繰り返せば、ようやくクリスティーナの顔に明るい輝きが戻る。
内心ホッと胸を撫で下ろしてマクシミリアンは彼女を導き、子どもたちの中で彼らを避けながらステップを踏んだ。
腕の中のクリスティーナは温かく柔らかで、ともすれば、ここが人の中だということを忘れてきつく引き寄せそうになってしまう。鼻先をくすぐる彼女の香りも甘やかで、誘われたときに引き出された記憶の中のものとは、全く違った。
踊ることは、楽しく心地良いものだったのだ。
触れ合う場所全てでクリスティーナを感じながら、マクシミリアンは、ほう、と吐息をこぼした。
と、それを感じ取ったのか、伏せ気味だったクリスティーナの顔が上がる。
ため息の理由を訊かれるのかと微かに身構えたマクシミリアンだったが、彼女から発せられたのは全く別の台詞だった。
「……え?」
思わず訊き返した彼に、クリスティーナがもう一度繰り返す。
「マクシミリアンさまのお誕生日を、教えていただけませんか?」
「たんじょうび……」
漫然と呟くと、彼女はこくりと頷いた。
「はい。まだ存じ上げないのです。実は……アルマンに尋ねたのですが、彼も知らないのだと」
空色の目を輝かせながらマクシミリアンの返事を待つクリスティーナに、彼は口ごもった。
「私も、知らないんだ」
「え」
「私も、自分が生まれたのがいつなのか知らないんだよ。物心つく前にそれを知っている人がいなくなってしまったから」
「……ごめんなさい」
囁くようにこぼしたクリスティーナは足を止め、うつむいた。マクシミリアンはそんな彼女の顎に手を添え、持ち上げる。
「私は別に気にしていないから。それを知らなくても別に困ることはなかったのだし。貴女に問われて、初めて自分がそれを知らないことに気が付いたくらいだ」
そう告げても、まだクリスティーナの瞳に差した翳りは消えない。
束の間思案し、マクシミリアンは頭を下げてヒョイと彼女の唇に自分のそれを重ねた。
「マクシミリアンさま!」
子どもたちのただ中で為されたその行為に、パッとクリスティーナの頬が赤くなる。
両手を彼の胸に突っ張って身体を離した彼女に、マクシミリアンはクスクスと笑った。
「今日は貴女の誕生日を祝っているんだからね? 少しでも暗い顔をさせたらモニクやアルマンたちに怒られてしまうよ。頼むから、笑っていて欲しいな」
軽い口調でそう言ってニコリと笑いかけると、釣られたように彼女も頬を緩ませた。