壁の崩壊⑥
クリスティーナはポカンとマクシミリアンを見つめる。
彼は今、自分が知らない言葉で話しているに違いない。
それ以外に、こんなにも訳が解からない思いになるはずがなかった。
そんなことを考えている彼女をよそに、マクシミリアンが続ける。
「もちろん、生活には困らないようにするよ。住む場所はラルスでもいいし、お義母さんと一緒にどこか静かな落ち着いたところに移ってもいい。今まで訪れた町や村で住んでみたいところがあればそこにするよ」
彼の口から出た一言一言は、まったく意味を成さないただの音としてしか彼女の耳に入ってこない。こんなにも理解できないのだから、そうなのだとしか思えない。
絶句したままのクリスティーナに、どうしてかマクシミリアンは微笑んだ。笑っているとは思えないほど陰鬱な眼差しで、微笑んだ。
「もしもこの先ティナに誰か良い人ができて、私の援助が邪魔なものになったら、やめるよ。でも、それまでは続けさせて欲しい。大丈夫、貴女が望まない限り、私は距離を置くから」
クリスティーナが望まない限り。
(つまり、マクシミリアンさまは、わたくしがお会いしたくないのだと思っていらっしゃるの? そんなふうに思うと思っていらっしゃるの?)
訳が解からない。
この一年間は、いったい何だったのだろう。
確かに、始まりは父の言いつけで、マクシミリアンのことなど何も知らず、何も思わず受け入れた。
けれども、この一年間は、決してただ意味なく流れていたわけではない。
マクシミリアンと過ごして、マクシミリアンのことを知って、クリスティーナの中にある気持ちは大きく変わって、かけがえのない何かに育った。それに、彼女の中にあるものだけでなく、彼女とマクシミリアンの間にだって、生まれたものがあるはずだ。
クリスティーナに注ぐ包み込むような眼差し、ふとした時に触れた指先の温もり、彼女の名を呼ぶときの声に含まれる、微かな甘さ。
たった今、過去の話をしてくれた時だって。
そこには、何かが、あったはず。
それを、彼は全て否定するのか。
それが何かをこれからゆっくりと探っていけばいいと思っていたけれど、彼は、クリスティーナに、その猶予も与えてくれないのか。好きなように言うだけ言って、彼女の言葉も聞かずに離れて行ってしまうのか。
思いを巡らせるうち戸惑いや疑問は引いていき、代わりに込み上げてきたのは、悲しみ――よりも怒りに近い。
「あの、待ってください。少し、お待ちになってください!」
まだ何か言おうとしているマクシミリアンを、クリスティーナは声を張り上げて遮った。それ以上、彼の口から出るものを何も聞きたくない。
クリスティーナはほとんど睨みつけるようにして彼を見る。
「あなたのおっしゃっていることが、わたくしには全く解かりません」
「どうして? 単純なことだろう」
「どこがですか? マクシミリアンさまがわたくしを育ちきった鳥の雛のように放り出そうとなさっていることは、解かりました」
「そういう、わけでは――」
「違いますか? では、お傍に置かれたくないほど、実はわたくしを疎んじておられましたか?」
勢いに任せてクリスティーナがマクシミリアンに詰め寄っても、彼はよほど狼狽しているのか、今度は彼女との距離を開こうとはしなかった。代わりに、目を見開いて声を荒らげる。
「そんなことは言っていない!」
「おっしゃったも同然です!」
ピシャリと言うと、マクシミリアンは怯んだように顎を引く。
彼の顔からはいつもの取り澄ました仮面は剥がれ落ちて、困惑と動揺と焦燥と混乱と、ありとあらゆる彼に似つかわしくない表情が浮かんでいた。
そんなマクシミリアンを見て、ようやく、クリスティーナは悟る。
彼は、本当に、本心から、クリスティーナを幸せにするために先ほどの台詞を吐いたのだ。
(なんて、独善的な人)
独善的で、愚かな人だ。
独善的で愚かで――愛おしい、人。
ふいに、ひらりと、雪の一片のように、クリスティーナの胸の中に一つの答えが降ってくる。
(わたくしは、この人が愛おしい)
この愚かで優しい人を、守りたい。
この世の何ものからも、そして何よりも、彼自身から。
自分自身を幸福から追いやろうとするマクシミリアンその人から守り、彼を幸せにしたい。
(わたくしは、この人を愛している)
一年という時をかけて降り積もってきた想いに、ようやく、名前を見つけた。けれど、この気持ちをどう呼ぶのかなんて、どうでもいいことだ。
為すべきことは、一つなのだから。
クリスティーナはまだ思考停止しているマクシミリアンの両手を取り、もう逃げられないようにしっかりと握り締める。この手を振りほどくにはよほどの力を入れないといけないだろうけれど、クリスティーナを傷つけられないマクシミリアンには、彼女を乱暴に振り払うなんてとてもできやしないのだ。
表情すらも固めたままのマクシミリアンを見上げて、クリスティーナは微笑む。
「貴方を愛しています、マクシミリアンさま」
びくりと握っている彼の手がはねた。そして即座に否定が返される。
「それは間違いだ」
「何故ですか?」
「さっき話しただろう」
「わたくしがうかがったのは、マクシミリアンさまがどんなふうにして、今のようになられたか、です」
それが何か? と首をかしげると、マクシミリアンが奥歯を食いしばった。
「それを知ったのなら、私が貴女のその言葉には相応しくない者だと、解かっただろう」
言うなり腕を引き抜こうとするのを、ギュッと指に力を込めて止める。そうして、にっこりと笑顔を向けた。
「解かりません」
マクシミリアンは喉の奥をグゥと鳴らす。
「ティナは、まだモノを知らないからだ。そのうち、私が言ったことを理解するようになれば、きっと貴女は私を嫌悪する。今なら、まだ、間に合うんだ。今なら、まだ、耐えられる――」
最後は掠れる声でそう言った彼は、真っ直ぐに見上げるクリスティーナから逃れようとするかのように視線を地面に落とす。
「マクシミリアンさま」
クリスティーナは、逃げを赦さない厳しさを込めて、彼の名を呼んだ。
すぐには、何も動かない。
けれど、ひたすら無言で見つめ続ければ、ようやくマクシミリアンの目が動き、何かを恐れるような光を宿したままクリスティーナに向けられた。
そんな弱さすら、愛おしく思える。
彼を抱き締めたいという衝動に駆られても、彼女はそれを押しとどめた。
クリスティーナはマクシミリアンとしっかり視線を結び合わせたまま、口を開く。
「確かに、わたくしにはマクシミリアンさまがおっしゃる行為がどのようなものか解かりません。ですから、貴方の苦しみが解かるとは申し上げられません。ですが、ただの『物』とみなされる寂しさは、知っています」
そう告げてから、微笑んだ。
「マクシミリアンさまは、その寂しさから、わたくしを救ってくださいました。わたくしは、マクシミリアンさまと出逢って、わたくしはクリスティーナという名を持つ一人の人間なのだと知りました。マクシミリアンさまは、わたくしは、わたくし自身で考え、感じて、行動する――そんなことができるのだと、しても良いのだと、教えてくださいました」
「それは、私が教えたわけではないよ。私以外の人間でも同じことが起きただろうし、あるいは、いつか、貴女自身で悟ったかもしれない」
かぶりを振ったマクシミリアンに、クリスティーナは笑う。
「もしもそうだったとしても、今、このわたくしがいるのは、マクシミリアンさまと出逢えたからです。先ほど、マクシミリアンさまはわたくしが強くなったとおっしゃってくださいましたが、それもマクシミリアンさまのお陰です。わたくしが持つ強さは、マクシミリアンさまが与えてくださったものです」
クリスティーナは眼差しに想いを込めて、もう一度、告げる。
「わたくしは、貴方を愛しています、マクシミリアンさま。でも、それは、貴方がわたくしを変えてくださったからではありません」
きっと、マクシミリアンは、それは雛の刷り込みのようなものだとか、恩を感じているからだとか、言おうとしたのだろう。
その機先を制され唇を引き結んだマクシミリアンに、クリスティーナは小さく笑った。そしてその笑みを消し、真剣な眼差しを彼に注ぐ。
「わたくしは、貴方自身は奪われるばかりだったのに人に与えることを知っている貴方の温かさを愛しています。誰の助けもなく深い淵から立ち上がった貴方の勤勉さを愛しています。過去に怯えわたくしに触れることを恐れる貴方の弱さを愛しています。わたくしに疎まれるのを恐れる貴方の繊細さを愛しています」
一つ息をついて、クリスティーナは握り続けていた彼の両手を持ち上げた。その指の節に、そっと唇で触れる。
「……それでも、わたくしを求めてくださった貴方の強さを、愛しています」
滔々と告げたクリスティーナに、マクシミリアンからの応えはない。
けれどもクリスティーナは、自分の言葉に何一つ間違いがないことを、知っていた。
彫像のように固まったままのマクシミリアンに、クリスティーナは微笑みかける。
「わたくしは、出逢ってから観て聴いて触れたマクシミリアンさまを愛しているのです。過去の貴方ではありません……いいえ、過去の貴方があってこその今の貴方であるなら、それはわたくしにとって厭わしいものではありません。今の貴方を愛しているということは、過去の貴方のことも愛しているのだということになりませんか?」
彼の答えは待たなかった。
クリスティーナは彼の手を自分の胸元に引き寄せる――何よりも大切な宝物であるかのように、それを抱く。
「マクシミリアンさま。わたくしは、貴方を幸せにしたい……貴方を幸せにするのは、わたくしで、わたくしただ一人でありたい」
言い切ってから、少し自信がぐらついた。
「……こんな欲深なわたくしは、嫌いになってしまわれますか?」
もしもマクシミリアンがか弱くてただ守ってあげたいだけの少女に心惹かれたのであれば、今のクリスティーナはもう彼の求めた彼女ではなくなってしまったのかもしれない。
恐る恐る見上げるマクシミリアンは、微動だにしない。
注がれている食い入るような眼差しからは、何も読み取れない。
けれども、次の瞬間。
強い力で引き寄せられて、気付いた時には痛いほどの力で彼の腕の中に閉じ込められていた。抱き締められて、クリスティーナのつま先が地面から浮き上がる。
マクシミリアンはクリスティーナの背中に回した細いようでいて力強い腕で、これでもか、というほどに彼女を自身に引き寄せた。淡い金色の髪に頬を埋めるようにして、彼女の肩口に顔を寄せる。
「ティナを嫌いになるなんて、たとえこの世が終わるようなことがあっても有り得ない。貴女は変わり続けていたけれど、私の想いは増すばかりで、もうこれ以上は耐えられなかったんだ。もうこれ以上、貴女に触れずにいるのは……」
きつく、きつく抱き締められて、クリスティーナは息もできない。けれども、その力を緩めて欲しいとは、頭の片隅をよぎることすらなかった。
彼に包まれていることが、ただただ、嬉しい。嬉しくて、気が遠くなりそう。
全身でマクシミリアンを感じていることで頭がいっぱいになっているクリスティーナの耳に、胸の奥から絞り出すような囁きが、届く。
「穢れた私を知られたくなかった。けれど、私の全てを知ったうえで、私を受け入れて欲しかった。私の全てを知って、私を愛して欲しかった」
一際、腕に力が籠り。
「ずっと、貴女の全てが、欲しかった」
ようやく吐露してくれたマクシミリアンに、クリスティーナの頬を安堵と喜びの涙が伝う。彼女はマクシミリアンとの間に挟まれた腕を引き抜き、彼の背に回す。そうして、クリスティーナにできる精一杯の力で、彼を抱き締めた。
「わたくしは、もう貴方のものです。わたくしのこの心は、もう、とうに貴方のものです」
クリスティーナの告白に、もう、返事はなかった。
ただ、彼が、ほう、と小さく息をこぼしたのが感じられただけで。
やがて短い春の陽が陰り始めるまで、二人は言葉もなく互いを抱き締め続けていた。