壁の崩壊⑤
『穢れ』。
マクシミリアンは、また、その言葉を口にした。
クリスティーナは彼女から五歩分ほど離れて立つ彼がとても孤独に見えて、無意識のうちに一歩を進める。けれど、マクシミリアンは、彼女が縮めた距離の分だけ、遠ざかった。
もう一度クリスティーナが足を踏み出せば、彼も同じことを繰り返す。
二度あれば、それがたまたま取られた行動ではないことが否でも判った――判ってしまった。
途方に暮れて立ちすくむクリスティーナに、静かに、マクシミリアンが告げる。
「近寄らないで」
声は淡々としているけれども明らかな拒絶の台詞に、クリスティーナの足はその場に凍り付いた。態度だけではなく言葉でもはっきりと拒まれて、クリスティーナの胸は物理的な痛みを覚えるほどにギュウと締め付けられる。彼女のその表情を目にしたマクシミリアンは、苦しげに目じりを歪めた。
「すまない。でも、貴女に、全て話すから。だから……私に近寄らないで欲しい」
そう言った彼は、まるでそうすることで自分の動きを封じようとしているかのように、身体の両脇に下した手を硬く握りしめている。
押し黙ったまま身じろぎ一つしないマクシミリアンを、その場に立ちすくんだクリスティーナはただただ見つめた。
固唾を呑んでクリスティーナが見守る中、マクシミリアンの手が緩み、そしてまた、きつく固められる。
彼は顔を上げ、クリスティーナを見た。その眼差しは、まるで深い夜の闇の底のよう。
そして。
「私は、この身体を売り物にしていたんだよ」
ゆっくりと、低い声での、告白。
けれど、その意味するところが、クリスティーナには解からなかった。
「身体、を?」
マクシミリアンの身体は、見るからに五体満足だ。どこも欠けてはいない。
困惑の眼差しを向けるクリスティーナに、彼は小さく嗤った。
「何も、腕や足を売ったっていう意味じゃないよ。この身体を、道具として客に提供したんだ。薄汚い欲望を満たすための道具として。本来、夫婦や――特別に親密な間柄の者とでしか為さない行為を、金と引き換えに行っていたんだ」
汚物を吐き出すような声でそう言ったマクシミリアンに、クリスティーナは束の間ためらい、そして問う。
「それは、いけないことなのですか?」
まだクリスティーナがマクシミリアンの言うことに理解が及ばないでいると、彼は小さく肩をすくめた。
「神の教えによれば、その行為は神聖なものらしい。それを単なる欲の為にするということはとても罪深いことだと言うね。そしてその罪を犯すことに――皆、後ろめたさを覚えるらしいよ」
小さな、嗤い。
彼が言うところの『神の教え』に彼自身は何の価値も見出していないということは、その声、その表情、そしてその嗤いから、明らかだった。
マクシミリアンはその嗤いを消して、ポツリとこぼす。
「きっと、だから、それを与える者を蔑むのではないかな」
(蔑む?)
つまり、それを為していたマクシミリアンは、蔑まれていたということなのだろうか。
そう言われても、マクシミリアンが蔑まれるところなんて、クリスティーナには想像もできない。
だから、彼とはつなげず、彼女は問いを投げかける。
「……与える側だけがいけないのですか? 受け取る側には、何も非がないのですか?」
「そのようだね。まあ、金を払うことで自らを正当化しているのかもしれないね。売っている物を買って何が悪い、売り物にする方が悪いのだ、と言えるだろう?」
そういうものだろうか。
そんなに簡単に、他者に責任を負わせ、罪を肩代わりさせられるものだろうか。
「…………――――よく解かりません」
マクシミリアンが言っていることを理解したくて考えに考えても、やっぱり、クリスティーナにはそうとしか答えられない。
肩を落としたクリスティーナをマクシミリアンは小さく笑って、すぐにその笑みを消した。
「彼らにとって、私は、そんな下卑た欲望を吐き出すための道具に過ぎなかった。でも、客の一人が、ある日ふと、私にもモノを考えられる頭が付いているらしいということに気付いたんだ。彼は子どもがいない老いた商人でね。私を、――養子にした」
それでマクシミリアンは救われたはずなのに、どうしてか、彼の眼差しはそう思わせるようなものではなかった。それは暗く打ち沈んだままだ。
裕福な商人の息子となってからも、マクシミリアンの日々はあまり幸福なものにはならなかったのだろうか。
お金があれば満ち足りた生活を送れるというわけではないということは、クリスティーナもよく解かっている。彼女自身、そうだった。
貧困を経験したことのない彼女には口にする権利はないのかもしれないけれども、それでも、物に恵まれるということは必ずしも幸福と直結しないのではないかと、クリスティーナは思う。
今も昔も、彼女の生活は貧しさとは縁遠い。
けれど、今、クリスティーナが幸せを感じていられるのは、物が溢れているからではない。それは、マクシミリアンがいるからだ。たとえ今よりももっと裕福になっても、彼がいなければ幸せとは程遠い日々を送ることになるに違いない。
クリスティーナは、マクシミリアンにそう伝えたかった。
でも、どう言葉にしたらいいのかが判らない。
この胸の中にある温かな気持ちを、彼が与えてくれた、彼といることで溢れてくるこの気持ちを、どう伝えたらいいのかが、判らない。
あともう少しで、何かが喉の奥からこぼれだしてきそうな気がするのに、そのあともう少しがなかなか届かず、もどかしい。
彼女のそんな葛藤には気付いたふうもなく、マクシミリアンはしばらく口をつぐみ、そしてまた開いた。
「その商人は私が十八の時に――事故で亡くなって、私が彼の事業を引き継いだ。子どものころのことを思えば信じられないほどのものを手に入れたけれども、私は満たされなかった。私には、常に何かが足りなかった。何かが欠けていた。何か――」
彼は言い淀み、ややしてクリスティーナに目を向けた。
「貴女のあの微笑みを目にしたとき、私の中の欠けた部分に、何かがはめ込まれたような気がしたんだ。あの瞬間、私は、『これだ』と思った。私が求めたのは、これなのだ、と」
「マクシミリアンさま……」
そう思ったのなら、どうして、彼はあんな顔をしているのだろう。
満ち足りた、とは程遠い顔を。諦めを含んだ、疲れ切ったような、顔を。
クリスティーナはマクシミリアンの顔に浮かんだその表情に気を取られていたから、次に彼が発した言葉を、すぐには理解することができなかった。
目をしばたたかせて、彼女はマクシミリアンに問い返す。
「――今、なんて?」
彼は、多分、一言一句違わず、まるきり同じ台詞を口にする。
「私は、貴女を自由にすべきなのだと思う」
「……じゆう?」
それは、どういう意味を持つ言葉だっただろう。
その直前まで彼が語っていた話と、つながるような意味を持つものだっただろうか。
困惑しかないクリスティーナに、マクシミリアンは告げる。
「この結婚は、貴女を救うためのものだった。けれど、貴女はどんどん強く、綺麗になっていく――私の手など、もう必要としないほどに」
何も読み取らせてくれないマクシミリアンの眼差しはクリスティーナにひたと据えられ、ほんの少しも揺らがない。
そのまま、彼は続ける。
「ティナと私の婚姻は、正式にはまだ成立していない。まだ、解消することができるんだ。私と貴女の関係は、きれいに消し去ることができるんだよ」
まるでそれがクリスティーナにとってこの上ない恩恵であるかのように、マクシミリアンは静かにそう言った。