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壁の崩壊④

 どれほどの時が過ぎた頃だろう。


 ふ、と、マクシミリアンの手から力が抜けるのが判った。


 クリスティーナは彼の手の中からそっと銃を引き抜く。目配せをするとアルマンが数歩近寄り、彼女が差し出したそれを黙って受け取った。次いで彼は呆けた顔で佇んでいるアランを促し、クリスティーナに小さく頭を下げて、すっかりいつもの落ち着きを取り戻したように見えるエリーゼを抱えたモニクとともに去っていく。


 二人きりになって、クリスティーナとマクシミリアンはどちらも口を開かないまま向き合った。


 時々小鳥のさえずりが行き過ぎ、忘れた頃にさやさやと枝が風にそよぐ。


 不意に、前触れもなく。


「私が何をしてきたか、貴女は何も知らない。私のこの身体が何をしてきたか――私が、どんなに穢れた存在か。私の手は、とうに汚泥にまみれている」

 目を逸らしたまま吐き出された、苦みの漂う声。


 クリスティーナはだらりと垂れたマクシミリアンの手を取り、両手でそれを握り締める。

 彼が離れていかないように。

 そして、彼から離れたくないという自分の想いを伝えるために。


 マクシミリアンを見つめて、クリスティーナは口を開く。


「では、教えてください」


 そう乞うたとき、彼女の手の中で、マクシミリアンの指先がピクリとはねた。振り払われるのかと、クリスティーナは咄嗟に手に力を籠める。

 けれどマクシミリアンに動きがあったのはそれだけで、相変わらず、彼の目は逸らされ、口は閉ざされたままだ。


 しばらく待って、クリスティーナは再び彼の名を呼ぶ。


「マクシミリアンさま?」


 その促しにも、彼はなかなか応えようとしなかった。

 それほどまでに、語りたくないことなのだろうか。

 マクシミリアンがそれほど拒むのならば、触れるべきではない傷なのだろうか。


(何もなかったように過ごしていく方が、いいのでしょうか?)


 先ほどの、マクシミリアンの瞳の絶望的なまでの暗さには気付かなかった振りをして。

 そんなものは見なかったと、自分をごまかす方がいいのだろうか。


 クリスティーナは睫毛を伏せ、唇を噛み締めた。

(でも、それでは、マクシミリアンさまと出逢うまでの十九年間と同じことになるでしょう?)


 今、マクシミリアンから逃げ出して安易な道を選んだら、きっと、もう一生、そのまま逃げ続けることになる。

 それは、駄目だ。

 それは、嫌だ。

 クリスティーナはキッと顔を上げる。


「マクシミリアンさま」


 名前を呼んでも視線を寄越してくれないから、握っている手を力いっぱい引っ張った。

 クリスティーナがそんなことをするとは思ってもみなかったのだろう。

 マクシミリアンはぐらりと姿勢を崩し、反射的に彼女に目を走らせる。

 その瞬間を、クリスティーナは逃さなかった。

 束の間彼女に向けられた視線を逃さず捉える。

 目と目が合って、マクシミリアンは固まった。すかさず、クリスティーナは彼の目を真っ直ぐに覗き込んで、言葉を紡ぐ。


「わたくしは、貴方のことを知りたいです、マクシミリアンさま」


 グッと、彼が何かを呑み込んだ。また、視線を逸らそうと――クリスティーナの目から逃れようとする彼を、執拗にその名を呼んで引き留める。

「マクシミリアンさま」

 凛と響いた声に射すくめられたように、彼は動きを止めた。

 眼差しと声とでマクシミリアンを捉え、クリスティーナは続ける。

「わたくしは十九年間、ただ父の命に従って、何も見ず、何も聞かずに生きてきました。その結果、母との時を失い、母を苦しめました」

 ギュッと、彼の手を握り締める。

「わたくしは、同じことをしたくありません。貴方との時を失いたくないのです」

 決然と告げ、クリスティーナはマクシミリアンの手を持ち上げる。彼から目を逸らさずに、きれいな指の節に口付けた。

 そうして、食い入るように彼女を見つめるマクシミリアンの暗緑色の目を、覗き込む。

「わたくしは、マクシミリアンさまの『特別』になりたいのです。貴方にとってなくてはならない存在に、貴方を支える存在になりたいのです」

 一瞬たりとも彼を放さず、クリスティーナは言った。


 マクシミリアンは無言のまま貫き通さんばかりの眼差しをクリスティーナに注ぎ、そして、不意に目を閉じた。


 固く。

 何かを、振り切ろうとするように。


 閉ざされたその目の奥で、葛藤が、迷いが逆巻いているのが見て取れる。


 もう何も言わずに、クリスティーナはその目蓋が再び開かれるのを待った。


 やがて。


 ゆっくりと、マクシミリアンの黒とも緑ともつかないその目が現れ、クリスティーナに向けられる。

 マクシミリアンは彼の手を取るクリスティーナの手を握り返し、先ほど彼女がそうしたように持ち上げた。彼は右の、次いで左のたなごころに唇を押し当てる。そうして彼女の両手を一まとめにして、指の背に口付けた。


 愛おしむように、敬うように。


 彼は目を閉じ、じっとそのまま動かない。

 かけがえのないものにするようなその触れ方に、クリスティーナの手がジワリと熱を帯びる。


 マクシミリアンはクリスティーナの両手を口元にあてたまま、囁く。

「私にとって、貴女はとっくの昔から『特別』な存在なんだ――貴女が私のことを知る、遥か前から」


 胸の奥の奥から吐き出しているような、引き絞るような、声だった。

 けれど、一度口火を切ってしまえば、あとは枷から解かれたようにマクシミリアンは続ける。


「初めてティナが私の心に残ったのは、貴女の十五歳の誕生日を祝う会だった。貴女は小さな女の子にピアノを教えていて、不意に、微笑んだんだ。とても――温かくて、柔らかくて――そんなふうに微笑む女性を、それまで見たことがなかった。貴女のその笑顔をまた見たくて、ヴィヴィエが開く会に何度も足を運んだんだ」

「お仕事のことで、父と関わりがあったわけではなかったのですか?」

「彼と手を組むようなことはなかったよ。彼のやり方は――私とは相容れないから」

 言い方を探るように少し間を置いて浅く笑ったマクシミリアンの中には、きっと、コデルロスに対してかなり思うところがあるのだろう。


 それも当然だとクリスティーナは胸の中で頷く。

 普段の、他者に対しての接し方の違いを見ていれば、一目瞭然だった。


 マクシミリアンは納得顔のクリスティーナを見つめていたけれど、ふとその口元から微笑みを消す。

「私は、あの時の貴女の笑顔を見たかった。けれど、それきり、見ることができなかった。あれ以来、ティナはいつもただ笑いを顔に貼り付けているだけで、二度と、私が求めるあの笑顔を見せてくれることがなかったんだ」


 マクシミリアンがそんなことを考えていたなんて、いや、そもそも、彼が自分を見ていたなんて、クリスティーナは想像したこともなかった。

 大きく目を見開いたクリスティーナに、マクシミリアンは握り合っていた手を解いた。ほんの一瞬指を丸めてためらって、それからふわりと彼女の頬を包み込む。ただ添えられただけのその触れ方は泡沫を捉えようとするかのように繊細で、どこか、そうすることを恐れているようにすら感じられた。

 マクシミリアンは深みを増した眼差しを、クリスティーナに注ぐ。


 そうして、ポツリとこぼした。


「ヴィヴィエの隣で上辺だけの笑顔を浮かべる貴女を、どれだけ連れ去ってしまいたかったか」

 うっすらと開いたクリスティーナの唇を、マクシミリアンの親指がそっと辿る。それは彼女の言葉を封じるように、真ん中の膨らみで止まった。

 マクシミリアンは小さな吐息をこぼしてからまた言葉を継ぐ。

「じりじりしながら、人形の笑いを浮かべるティナを見ていたよ。でも……そうやって見ているうちに、ティナを私の子ども時代と重ねるようになっていったのだと思う。閉じ込められ、微笑むことすらままならなかった自分に」

 彼は、目を伏せる。


「ティナを救えれば、自分も救えると思った」


 クリスティーナの耳にかろうじて届いたその呟きには、紛れもない自嘲の響きが含まれていた。


 何故マクシミリアンがそんなふうに思うのか判らないクリスティーナには、彼にかける言葉が見つけられない。だから、黙ったまま、自分の頬に置かれた彼の手に、手を重ねた。

 そうすると、暗い彼の笑みに、微かな光が射す。

「多分ね、最初のうちは、ティナのことを助けてやろうという自己満足とか驕りとか、貴女を助ければ自分も救われるという利己的な考えがほとんどだったんだ。でも、ティナのことを深く知るうちに、その想いはだんだん変わっていった。生身の貴女を知るうちに、守り、眺めているだけでは満足できない、触れたいと思う、愛おしくてたまらない存在になっていったんだ」


 マクシミリアンのその言葉は、クリスティーナに喜びをもたらすはずだった。けれど、それを吐き出した彼の表情が、そうさせてくれない。

 愛おしいと口にする彼の目は暗く翳り、その視線はクリスティーナに向けられながらも彼女を素通りする。

 自分の中に生まれたその感情を、彼は受け入れがたく思っているのだ。


 クリスティーナの推察を、続くマクシミリアンの言葉が裏打ちする。

「そういう想いが増せば増すほど、ティナに触れるのが怖くなっていった」


「……怖い?」


 戸惑い、眉根を寄せて繰り返したクリスティーナの手の中から、マクシミリアンがそっと手を引き抜いた。

 腕を下ろし、一歩、そしてもう一歩と後ずさったマクシミリアンが、囁く。


「そう――触れれば、私の穢れがティナを侵してしまう気がして」


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