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あなたの心に触れたくて  作者: トウリン


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43/55

壁の崩壊③

 パッと目を開けたクリスティーナの顔から、アランの手が離れていく。上体を捻って後ろを振り返った彼は、掴みかかってくる繊手を避けようと両腕を振り回していた。

 お腹の上にアランが乗っているから、クリスティーナは身体を起こせない。

 けれど、彼女が動けないのは、その為だけではなかった。


「いや! やめて! コデルロス様! わたくしの赤ちゃんを返して! クリスティーナを返して!」


 淡い金髪を振り乱し、悲痛な声を張り上げているのは、いったい誰だろう。

 その姿が目に入っていても、クリスティーナには、その人がそんなふうにしていることが、信じられなかった。


 がむしゃらに掴みかかってくる相手に閉口して、アランがついに立ち上がる。

「この、うるさい、黙れ!」

「いやです! その子は渡しません!」


 そう叫んでいるのは――


「お母さま……」


 ようやく、クリスティーナは呆然と呟いた。

 そう、確かに、それはエリーゼだった。再会して以来、ただただ人形のようにいた彼女が、声を嗄らし、目を光らせて、クリスティーナを守ろうとアランに挑んでいる。

 けれど、彼女が言っていることは支離滅裂だ。


「コデルロス様には渡しません! クリスティーナはわたくしの大事な――大事な――!」

 この場にいないコデルロスの名を呼び、多分クリスティーナのことを、『赤ちゃん』と言う。

 今のエリーゼは、まるで二十年の時を遡って夫と戦っているかのようだった。


「くそ、やめろ――放せ!」

 クリスティーナから引きはがそうとアランの腰にしがみつくエリーゼの腕を、アランは手の甲に筋が浮いて見えるほどの力で掴んで捻り上げる。

「ぁあッ」

 母が上げる苦痛の悲鳴に、クリスティーナは我に返った。


「お母さまに乱暴しないで!」

 叫びながらアランの腕に飛びつくと、力いっぱい振られたそれになぎ倒された。

 クリスティーナを振り払った拍子にエリーゼは解放されて、彼女はその場にへたり込む。クリスティーナはドレスの裾を踏みつけそうになりながら、母の下へ駆け寄った。抱き締めた彼女の身体は、怒りからか恐怖からか、激しく震えている。


「クリスティーナ……クリスティーナ……わたくしの赤ちゃん……」

 エリーゼに、己を抱き締めている者がその『赤ちゃん』であることに、気付いている様子はない。ただ、まるでクリスティーナの腕が命綱であるかのように、指先が食い込まんばかりにしがみ付いていた。


(きっと、お母さまはわたくしのことがお判りになるようになる)

 エリーゼが言葉を発したのも、自ら動いたのも再会してから初めてで、クリスティーナはこんな事態であるにもかかわらず微かな喜びを覚えてしまう。

 そこへ、低い罵りの声が水を注した。


「この、いかれ女が」

 視界に靴の先が入る。

 エリーゼに回した腕に力を込めて、クリスティーナは両足を開き二人に圧し掛かるようにして立つ異母兄を見上げた。


「お母さまに近寄らないで」

 アランを見据えて抑えた声でそう告げると、その眼差しと声に気圧されたように彼が一歩後ずさる。けれど、すぐに無意識下での自らの動きに気付いて眉を逆立てた。

「お前ら、生意気な――」

 怒りを露わにしたアランを、クリスティーナは低い位置から真っ直ぐに見返す。かつては、少し声を荒らげられれば身が竦んだ。けれど今は、身体の奥から次から次へと力が湧いてくるような気がする。


 無言で制するクリスティーナに、次第にアランの目の中からぎらつく光が褪せていく。

「オレは、オレは――……」

 固めていた拳からも力が抜けて、両手がだらりと垂れ下がった。


 目に見えんばかりだったアランの激昂が、スゥッと引いていくのが目に見えるようだ。


 ホッと、クリスティーナが安堵の息をこぼした時だった。


 ふいに、その場の空気を切り裂くように冷ややかな声が入り込む。


「ティナから離れろ」


 ゾッとするほど、静かな声だった。穏やかなのに、背筋にゾクリと震えが走るほど。

 覆い被さるようにしていたアランが後ずさると、クリスティーナにも、彼の背後に立つ人物が見えてきた。


 それは、確かに彼女の夫である男性だ。

 けれど、本当に、その人だろうか。

 

 表情のない顔。

 いつもクリスティーナに向けられるときには常にその眼差しに宿っている温かな光も、今はない。


 息を詰めて見つめていると、その人は――マクシミリアンは、顔と同じくらい平坦な声で、問うてくる。


「怪我は?」

「え?」

「二人とも、怪我はないね?」


 クリスティーナに向けられる声も眼差しも、一見、穏やかなものだ。暗緑色の目を一心に見つめても、何も見えない。怒りすらそこには見つけられないのだ。ポカリと空いた目は、底を見通すことのできない深淵のように、暗かった。

 すぐ傍にいるのに、そう感じられない。まるで、到底渡ることのできない大河を隔てているような心持ちになる。


 こんな彼は、前にも見たことがある。

 大男が子どもを殴る場面に遭遇した時だ。

 ――あの時よりも、ひどい。


 唇を噛みながら、クリスティーナは自分とエリーゼの身体を検めた。


「大丈夫、です。怪我はありません」

 小さな声で答えると、マクシミリアンは顎を引くようにして頷いた。そして、その目がまたアランに向けられる。


 カチリ、と小さな音が聞こえた。


(何の音?)

 見れば、アランは真っ青な顔でガタガタと震えている。別に、マクシミリアンが脅しつけたわけでもないのに。

 眉をひそめて、クリスティーナは冷静この上ない顔をしている男性と、恐怖に引き攣った顔をしている男性を見比べた。


 と、そこに。


「おやめください、マクシミリアン様。いい結果にはなりませんよ」


 静かな、声。


 クリスティーナは声に引かれてそちらに目を動かし、呟くように名をこぼす。

「アルマン……」

 彼にも、いつもの笑顔はない。


「クリスティーナ様、お二人とも、大丈夫ですか?」

 名前を口走ったクリスティーナにチラリと目を送ってにっこりと微笑んだアルマンだったけれども、その視線はすぐにマクシミリアン戻り、油断なく彼の動きを見守っている――まるで、アランではなく、マクシミリアンの方が何かしでかすとでも思っているかのように。


 クリスティーナはエリーゼを抱き締めたままマクシミリアンを見つめた。彼の目は、ひたとアランの背中に据えられていて、ピクリとも動かない。


 ――もしも動いたら、その時は何か良くないことが起きる。


 彼のその眼差しは、クリスティーナの中にそんな嫌な予感を掻き立てた。


「クリスティーナ様、お立ちになれますか?」

 マクシミリアンとアランに目を奪われていたクリスティーナは、不意に声を掛けられてびくりと肩を跳ねさせた。


「アルマン」

 彼女は大きく瞬きをして彼を見る。

 アルマンはクリスティーナの前にひざまずいた。それが彼女の視界を遮るように為されたのは、わざとだろうか。

「マクシミリアンさま、が――」

 アルマンの背後に目を遣りながら呟いたクリスティーナの声に被せるように、彼が言う。

「お屋敷の中に入りましょう」

 淡く微笑みながらのその言葉に、けれど、クリスティーナは従えなかった。


 自分が立ち去った後、何が起きるのか。

 マクシミリアンが何をしてアランの動きを止めているのか、彼女には判らなかったけれども、何かとても良くないことが起きようとしているのだということだけは、判る。


「わたくしは、行きません」

「クリスティーナ様」

 眉を下げて困ったような顔をするアルマンに、命じる。

「モニクは……モニクを呼んできてください。お母さまを中に連れて行って欲しいのです」

 腕の中で震えているエリーゼは、すぐに安らげる場所に連れて行きたい。でも、クリスティーナはここを離れるわけにはいかない。となると、母を任せられるのは彼女だけだ。


 きっぱりと命じたクリスティーナに、アルマンは一瞬目を丸くして、それから微かに笑った。どこか、ホッとしたように。

「大丈夫、大丈夫。もうすぐ来ますよ。ああ、ほら」

 釣られてアルマンが見る方向へと目を遣ると、スカートの裾をからげ、息を切らして駆けてくるモニクが見えた。彼女は佇むマクシミリアンたちに気付くと、何故かぎょっとしたような顔になった。けれどすぐにクリスティーナたちの方へと走り寄る。


「ティナ様、エリーゼ様!」

 転がらんばかりに駆け寄ってきたモニクは、崩れ落ちるようにクリスティーナたちの前に膝を突いた。

「大丈夫でしたか? お怪我は? 申し訳ありません、お傍を離れなければ……」

 涙を浮かべた彼女を、クリスティーナは優しく、けれど毅然と遮った。

「平気、大丈夫。お母さまをお願い」

「え? ティナ様?」

 エリーゼを引き渡すと同時に立ち上がったクリスティーナに、モニクが当惑の声を上げた。そんな彼女に、微笑む。

「お母さまを連れてお部屋に戻って。暖かくして差し上げてね?」

 そうして顔を上げて、マクシミリアンたちを見た。二人は、氷の中にでも閉じ込められてしまったかのように、先ほどとまるきり同じ形のままだった。


 二人の間が見える場所に立った時、そこにあるものを目にしてクリスティーナは思わず息を呑んだ。


 マクシミリアンの右手は腰よりも少し上の辺りに上げられている。上腕はピタリと身体の脇に付けられ、肘から先だけ地面と水平になっていた。


 そして、その手に握られているもの。ごつごつとした金属の塊。


 同じようなものを父が持っていて、護身の為に外出するときには必ず携帯していた。

 クリスティーナは、それが『銃』という名であることを知っている。

 それが、ほんの一瞬で、人の命を奪えるものだということを。


 どういうふうに動いたらそれが作動するのかは判らない。けれど、一触即発の状態だということは、判った。


「マクシミリアンさま」

 そっと、名前を呼んでみた。

 彼は、身じろぎ一つしない。


「マクシミリアンさま、わたくしも、お母さまも、大丈夫です」

 静かに語りかけながら、手を上げ、彼の右手に――銃を持つ手に、やんわりと重ねた。

 そうすることで、アランが傷付くかもしれない。その場面が頭をよぎってガタガタと身体が震えそうになる自分を、胸の中で叱咤した。


 クリスティーナが動揺すれば、きっと、マクシミリアンのタガが外れてしまう。

 ギリギリのところでとどまっているその一線を、越えてしまう。


「マクシミリアンさま、手を下げて下さい」


 くどいほどに名前を呼んで、クリスティーナはいざなう。

 クリスティーナは両手で、銃を固く握りしめたままの彼のその手を包み込んだ。

 強張るほどの力が、ほんの少しだけ、緩んだのが感じられる。


「貴方のその手は、こんなことをなさるような手ではありません」

 そう囁いて、頭を下げて、彼の手にそっとキスを落とした。


 彼女の唇が触れた瞬間、一切動きのなかったマクシミリアンの手が、ピクリと振れる。


「お願いです」


 そう、マクシミリアンのこの手は、人を助けるためのものだ。人を、救うもの。

 決して、誰かを傷付けることはしない。

 もしも誰かを傷付けるようなことがあれば、きっと、その傷以上に、マクシミリアンの心が傷んでしまう。


「どうか、マクシミリアンさま」

 彼の名前に想いを込めて、クリスティーナは彼女に向けられていない暗緑色の目をひたすらに見つめた。


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