壁の崩壊①
厳しい冬が終わり、春の息吹が香り始める。
ストレイフ家の庭の根雪もすっかり融けて、庭木の枝には緑が目立った。
数日前までは固かった蕾もここしばらくの温かさで綻んでいて、気の早い花のいくつかはもう鮮やかな色を見せ始めている。
寒さが和らいできたころから、クリスティーナは午後のひと時を母と一緒に庭の四阿で過ごすようになっていた。
ノルディにいた頃にはほとんど歩くことがなかったらしくエリーゼの足はだいぶ弱っていて、その訓練も兼ねて庭を散歩し、仕上げに四阿でお茶とお菓子をいただく。それが、母がストレイフ家に来てからの、クリスティーナの新しい日課となっていた。
それは、微睡のような優しい時間で。
「お母さま、このお菓子はマクシミリアンさまが南の方から取り寄せてくださったものです。甘酸っぱくて、ちょっとジャムみたいですね。お茶によく合います」
言いながら、モニクが用意してくれたその菓子を、更に小さく切り分ける。固めたジャムのようで、エリーゼにはフォークよりもスプーンの方が食べ易いだろう。モニクがスプーンを渡すと、エリーゼは黙々とそれを口に運び始めた。
モニクは微笑みながら給仕をしていたけれど、ふと、その手を止めた。
「そういえば、エリーゼ様、今朝は起きた時にお部屋の中を見回されたんです」
クリスティーナはパッと振り返り、モニクに向けて目を丸くする。
「部屋の中を?」
クリスティーナの問いに、モニクは嬉し気に頷く。
「ええ。まるで、ここはどこかしら、と思われたかのように」
「まあ……」
クリスティーナはエリーゼに目を向けた。彼女は娘の驚きなどどこ吹く風というそぶりで、お菓子を口に運んでいる。
別に、意図して部屋の中を見たわけではなく、たまたま、そんな動きになっただけかもしれない。けれど、クリスティーナは母の小さな変化を嬉しく思う。
四阿に置かれた華奢な白い椅子に座るエリーゼの腕の中に、もう人形の姿はない。
ストレイフの屋敷に連れてきてからも、エリーゼはしばらくの間はそれを手放せなかったけれども、日を追うごとに持たない日が増え、いつの間にか部屋を飾るだけになっていた。
まだ、微笑むことも言葉を発することもない。
でも、時たま、本当に時たま、エリーゼのクリスティーナと同じ空色の瞳の中に光が走る。クリスティーナの欲目かもしれないけれど、それでも、それは小さな変化のうちの一つだ。
だから、クリスティーナは、たとえ応えがなくても母に語りかけ続ける。
「ここは、ヴィヴィエの家ではないんですよ、お母さま。お庭の様子も、どこか優しげだと思いませんか?」
これは、去年嫁いだばかりの頃に、クリスティーナがこの庭を見て真っ先に感じたことだった。
ヴィヴィエ家の屋敷は庭の刈込も四角四面で、整っているという意味で美しかった。
ストレイフ家の庭は、ヴィヴィエ家と同じくらいちゃんと手入れをされているというのに、どこか植木や花々がのびのびしているように感じられる。
エリーゼも、この庭を観ることができれば、きっと気に入るはず。
いつか、花々の名前を尋ね合い、笑顔を交わすこともできるようになるだろう。
――その時が、待ち遠しい。
そして、その頃には、この三人の中に、マクシミリアンの姿が加わっていて欲しい。
「マクシミリアンさまも、いつかお茶をご一緒したいとおっしゃっていました。お母さまからのお誘いを待っておられるのです」
今のところ、基本的にエリーゼに接するのはモニクとクリスティーナだけだ。エリーゼは、促せば多少の身の回りのことを自分でするので、彼女の世話にモニク以外の手が必要になることは滅多になかった。
しばらくの間、エリーゼの傍に寄るのはクリスティーナとモニクの二人だけの方が良いだろうと言ったのは、マクシミリアンだ。ノルディからストレイフの屋敷に移ることで環境が大きく変わってしまうのだから、それ以外はできるだけ刺激が少ない方がいいだろうと。
モニクからコデルロスとエリーゼとの間にあったことを聞いてもいたマクシミリアンは、また、特に男性の使用人をエリーゼに近付けさせないように指示を出した。そして、彼自身も、エリーゼに近づくときには礼儀正しく声を掛けるだけだ――五歩以上離れたところから。
ふと父のことが頭をよぎり、クリスティーナの胸がチクリと疼く。
(お父さまは、結局来られませんでしたね)
予想はしていたけれどもやはり少し悲しく、彼女は胸の中で呟いた。
コデルロスには母をストレイフの屋敷に連れ帰ったことを伝えたけれど、短く、「好きにしろ」と書かれた便箋が届けられただけだ。
エリーゼがストレイフ家に身を置いてからもう三ヶ月近く経つけれど、コデルロスは一度も姿を見せにもエリーゼの様子を見にもきていなかった。これだけ待っても来ないのだから、来るつもりが全くないに違いない。
(もしかしたら、お父さまの中にはもうお母さまの存在そのものがないのかもしれない)
そう思いたくはないけれど、きっと、それが真実。
父と母はもう会うことがないだろうし、多分、会わない方がいいのだろう。マクシミリアンは、いずれ母が自分で考えられるようになったら、離婚も検討してみてはどうかと言っている。
確かに、エリーゼはまだ四十歳にもなっておらず、父との縁が切れればまた温かな家庭を持つ機会を得られるかもしれない。できたら、クリスティーナはそうして欲しかった。彼女がマクシミリアンといて幸せなように、エリーゼにも、一緒にいて幸せになれるような人を、見つけて欲しかった。
(きっといつか、そういう日も来ます、よね……?)
黙々とお菓子を口に運ぶ母を見つめ、クリスティーナがそう胸の中で囁いた時だった。
「あら」
不意にモニクが小さな声を上げた。
「どうかして?」
「ああ、いえ、お湯が終わってしまって。まだ、お部屋には戻られませんよね?」
菓子が口に合ったのか、今日はいつもよりもお茶が進んでしまったらしい。
「そうね……まだ温かいし」
「では、取ってまいります。少しお待ちください」
「ありがとう」
クリスティーナが声をかけると、モニクはニコリと笑みを残して足早に去っていった。
二人きりになって、穏やかな時間が一層ゆったりと流れる。
クリスティーナはエリーゼの隣に腰を移し、膝に置かれた母の手をそっと包み込んだ。そうして彼女の顔を覗き込み、焦点が合わないその視線を捉える。
「マクシミリアンさまはとてもお優しい人なのです。お怒りになることなんて――いえ、それはありますが、ちゃんと理由があるので……でも、普段はとても穏やかで温かな方なのです。お母さまも、あっという間に好きになってしまわれますよ、きっと」
――クリスティーナがそうであったように。
でも、クリスティーナでなくとも、マクシミリアンのことを知れば、皆、彼に対して敬愛の念を抱くに違いない。
「本当に、マクシミリアンさまは素敵な方なのです。早く、お母さまにもマクシミリアンさまと仲良くなっていただきたいです」
そう告げて、母の手をギュッと握り締めた。
再会してから、もう何度も口にしている言葉をクリスティーナは繰り返す。
「今、わたくしはとても幸せです。お母さまに生んでいただいて、本当に良かったと思っています」
微笑みながら、クリスティーナが心の底からの、欠片の偽りもない気持ちでそう言ったとき、ほんの少しエリーゼの表情が柔らかくなった気がした。
「きっと、お母さまにはわたくしの声がちゃんと届いているのですよね」
ただ、内にあるものを表に出せないだけで。
一日の終わりに、クリスティーナはマクシミリアンに今日は母と何をしたか、母がどうだったかを、毎日話している。そうすると、彼は、クリスティーナが意識していなかったほんの少しの変化に気付き、それを彼女に教えてくれる。今日も微笑んでもらえなかったと落ち込む気持ちも、マクシミリアンのそんな指摘が引き上げてくれる。
さっきモニクが話してくれたような小さなことも、エリーゼを連れ帰った当初は、クリスティーナはただの偶然だろうと聞き流していたと思う。「いや違う、それは変化なのだ」と気付けるようにさせてくれたのは、マクシミリアンだった。
彼が気付かせてくれたから、根気強く諦めずにいれば、母はいつか堅い繭から抜け出して外の世界に出てきてくれると、クリスティーナは思うことができる。
もしかしたら、ほんの小さなきっかけさえあれば、明日にでもエリーゼは微笑みを浮かべるようになるかもしれない、そんなふうにすら、思える。
きっと、これからは全てがうまくいく。マクシミリアンとエリーゼとモニクと、他の皆と――いつか、彼との間に生まれる赤ちゃんと。
かつては『未来』のことなど考えたこともなかったけれど、今はどんどんこうなったらいい、ああなったらいいと、希望が溢れてくる。
「わたくしは、本当に、幸せです。こんなふうに感じることができるようになるなんて、夢にも思っていませんでした」
柔らかな表情をしている母に笑いかけた。
その時。
「じゃあ、オレにも少しそれを分けてくれよ」
「!」
予期せず響いたその声に、クリスティーナの肩がビクンと跳ね上がった。
パッと振り向き、声の主を探す。
「お兄さま……」
散策の為の小道ではなく庭木の間から、茂る枝を掻き分けて異母兄が姿を現した。