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再会④

 寝室に入ってきたマクシミリアンは、ベッドに入ってはいるものの、身体を起こし、膝の上に本を広げているクリスティーナを目にして一瞬立ち止まった。


「ティナ……まだ起きていたんだ」

 呟くように、彼が言う。寝ていた方が良かったように聞こえるのは、クリスティーナの気の所為だろうか。

 夜もずいぶん更けていて、いつもなら、この時間の彼女はとうに深い眠りの中にいる。けれども今日は、どうしても今日のうちに、クリスティーナはマクシミリアンと話をしておきたかった。


 彼はわずかに迷うような素振りを見せた後、笑顔を浮かべて近付いてくる。そうして、ベッドの縁に腰かけた。


「今日は疲れただろう? 先に休んでいたら良かったのに」

 そう言ってから、首をかしげる。

「お……義母かあさんは落ち着いた?」

 若干口ごもったマクシミリアンに、クリスティーナはくすりと忍び笑いを漏らした。

 エリーゼをストレイフ家に連れてくることが決まって、『ヴィヴィエ夫人』では未だにコデルロスの所属物のような気がするから、できたら別の呼び方にして欲しいとクリスティーナはマクシミリアンにお願いした。では『エリーゼ様』ではどうかと言う彼に、今度は「それではよそよそしい」とかぶりを振った。マクシミリアンはしばし渋面になっていくつか候補を挙げ、クリスティーナが却下し、結果、『お義母さん』に落ち着いた。その呼称を口にするマクシミリアンには、まだ、ためらいが感じられる。


 クリスティーナは頬に笑みを残したまま彼の問いに頷きを返す。

「はい。すっかり。モニクはもうお母さまにべったりです」

 クリスティーナに対しても甲斐甲斐しいけれど、エリーゼに対するモニクは、まさに赤子の世話を焼く母親そのもの、という風情だ。

 その様を思い出して、彼女は思わずくすりと笑いを漏らしてしまった。と、マクシミリアンが眉を片方持ち上げて目で問いかけてくる。

「ああ、いえ。お母さまにモニクを取られてしまったのか、モニクにお母さまを取られてしまったのか、どちらなのだろうと思ってしまって」

「寂しい?」

 束の間考え、クリスティーナはうなずいた。

「少し。でも、やっぱり、嬉しさの方が大きいです」


 微笑んだクリスティーナに、マクシミリアンも柔らかな笑みを返してくれた。その笑顔に胸を温められながら、彼女はマクシミリアンを見つめる。

「マクシミリアンさま。今日はありがとうございました。ノルディまで行くことを許してくださったこと、お仕事の邪魔をしてしまったのに、一緒に行ってくださったこと、お母さまをここに連れてきてくださったこと――どれも、どんなに感謝の言葉を尽くしても足りません」

「礼なんていらないよ。ティナの喜びは私の喜びでもあるのだから。自分の為にしたようなものだよ」

「それでも――」

 更に言い募ろうとしたクリスティーナの唇に、そっと彼の指が押し当てられた。それはすぐに離れて行ってしまったけれど、その一瞬で、彼女の唇に炎で炙られたような疼きを残す。


 その指に声を奪われたクリスティーナは、ただ、彼を見つめた。そんな彼女から逃れるようにマクシミリアンは半ば目を伏せ、その瞳の色を隠して微笑む。

「本当に、いいんだ。貴女が笑ってくれるなら、それで」


 そんなふうにされると彼の心の内を読み取ることができなくなって、クリスティーナはすっきりとした頬に両手を添えて、無理やりにでも顔を上げさせたくなってしまう。「いいんだ」と言った彼が、本当に、喜びの色を浮かべているのか、それとも他の何かをその胸に抱いているのか、確かめたくて。


 そうしてしまわないように、クリスティーナは話を他に逸らす。

「お父さまのこと、何も存じ上げませんでした」


 何の脈絡もない話題に、マクシミリアンが問いかけるような眼差しを向けてくる。唐突過ぎたことは大いに自覚があるクリスティーナは、心持ち頬を染めた。

「その、親族がいないということは判っていましたけれど、小さなころにお祖母さまと……別れてしまわれていたなんて」

「別れて、というよりも、捨てられて、だね」

 口にしづらかったことをはっきりと言い直されて、クリスティーナは唇を噛んだ。


 そう、彼の言うとおりだ。

 言葉を取り繕ってみても、真実は変わらない。

 父は祖母に捨てられた。

 そして、クリスティーナとアランは、コデルロスに捨てられたようなものだった。


「……きっと、お父さまがわたくしたちにあまり構われないのは、ご自身がそうだったからなのですね」


(お父さまがご自身の心が冷たいのではなく、温かさを知らずにお育ちになったから、なのでは?)

 違う環境にあれば、今のような彼にならなかったのかもしれない。

 父の冷淡さに何か理由があるのならば、それは父のせいではない。


 キュッと上掛けを握ったクリスティーナに、ポツリと声が届く。


「ティナは、まだ彼のことを愛しているのだね」

 その言葉を発したマクシミリアンの目は、ポカリと暗い。クリスティーナは困惑に近い思いに眉をひそめ、彼を見た。

 彼女の視線には応じず、マクシミリアンは低く平坦な声で、続ける。

「貴女は、どこまで彼を赦すの? 彼は、間違いなく、貴女にひどい仕打ちをした。どうしようもない人間だ。それでも、ティナは、それは彼のせいではないのだからと、赦してしまうの?」


 そんなクリスティーナであることを、マクシミリアンは責めているのか、それとも、望んでいるのか。彼女に注がれている彼の眼差しはとても陰鬱でいて、突き刺さってくるように鋭い。

 たとえどんな人柄であっても、コデルロスはやっぱりクリスティーナの父だから、赦すのかと問われれば、赦す、としか答えようがない。人として好きにはなれないけれど、父として愛することは止められない。


(でも……)


 クリスティーナはマクシミリアンを見つめた。

 今は、マクシミリアンが望んでいる答えを、返したい。

 けれど、彼が望む答えが、判らない。


 口ごもるクリスティーナの頬に、マクシミリアンの手が伸びる。

「貴女の懐は、いったいどこまで広げられるのだろう? どこまで……どれほどの罪までなら、受け入れてくれるのだろう?」


(罪?)


「マクシミリアンさま?」

 不穏な言葉に思わず彼の名を呼ぶと、マクシミリアンの手がビクリと跳ねた。そして一つ二つ瞬きをすると、自分の手がどこに置かれているのかに立った今気付いたように――そこが焼けた石の上であったかのように、パッと腕を引いた。


「あ、の」

 今の言葉はどういう意味だったのかを確かめようとしたクリスティーナの機先を制するように、マクシミリアンが微笑んだ。きれいな、心の内をきれいに包み隠したその笑顔に、クリスティーナは何も言えなくなる。


「たとえ過去にどんなことがあろうと、自分の傷を理由にして人を傷つけるべきじゃない。どういう人間になるかを選ぶのは、その人自身だよ。コデルロス・ヴィヴィエは、自らの意思で人を踏みつける道を選んだんだ」

 淡々と言ったマクシミリアンの声の中には、突き放すような響きがあった。


 彼はクリスティーナが応えるのを待たず、立ち上がる。そうして身を屈め、彼女のこめかみのあたりにお休みのキスをした。

 それは、もう、いつも通りの彼の様子、彼の行動で。


「じゃあ、私はもう少し用があるから……今日はいろいろあったのだから、早く寝た方がいいよ」

 きっとそれは、マクシミリアンが戻ってくるまでに眠っておけと――ふりでもいいから眠っておけと、いうことなのだろう。


 戸口まで行ったマクシミリアンはそこで立ち止まり、何か言おうとするように、一瞬唇を結んだ。

 クリスティーナは、それが開かれるのを、待つ。


 結局出てきたのは。


「おやすみ」


 それだけ残し、マクシミリアンは寝室から姿を消す。


 取り残されたクリスティーナは、パタリと枕に仰向けに倒れた。


 マクシミリアンの言葉は、どういう意味だったのだろう。どういう意味が、あったのだろう。


「過去にどんなことがあったとしても、どういう人になるのかを選ぶのは、自分」

 空に向かって、呟いてみた。


(では、貴方は?)


 他者に手を差し伸べながら、他者から手を差し伸べられるのを拒むという矛盾を抱えるような人になるには、いったい、どんな生き方をしてきたというのだろう。


 罪。


 マクシミリアンは、そんな重い言葉を口にした。まるで、彼がそれを背負っているかのように。


「わたくしには、解からないことばかり、です」

 クリスティーナは真っ直ぐに手を伸ばし、ゆっくりと握り込む。


(この手で、貴方の心に触れることができたらいいのに)

 はっきりと形があるものにするように。


 クリスティーナは、マクシミリアンの傍にいるだけで幸せになる。

 では、マクシミリアンはどうだろう。彼は、今、幸せでいてくれるのだろうか。

 もしもそうでないならば、クリスティーナにいったい何ができるだろう。


「罪」


 クリスティーナはポツリと呟いた。

 マクシミリアンにそんなものがあるとは思えない。けれど、時折彼の暗緑色の瞳の中に底の見えない陰が差すのも、事実で。


 もしも、もしも彼が苦しみの種を抱えているのならば。


(わたくしにも、見せて欲しい)

 そして、それが生む苦しみをこの手の中に包み込んで、彼から遠ざけてしまいたい。


 彼女は、パタリと腕を落とす。


「わたくしは、貴方に触れたい――貴方に触れてほしいです……マクシミリアンさま」

 この場にはいないその人に、そっと囁きかけた。この場の空気に溶け込んだ想いが、いつか彼に届くことを祈りつつ。


 瞼を閉じれば押し寄せる濃い霧のように眠りが満ちてきて、ほんの数呼吸のうちに、クリスティーナは微睡の奥に落ちていった。


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