夫になった人
結婚式は、とても豪勢なものだった。
クリスティーナが身にまとっているのは都で一番の仕立て屋に作らせたウェディングドレス。
長く裾を引く繊細なレースのベールははるばる東方から取り寄せたものだ。
ティアラ、ネックレス、イヤリングには、透明度の高い大粒の宝石をふんだんにあしらっている。
どれもコデルロスの指示で用意されたものだけれど、その費用は全てマクシミリアンが出したのだということを、クリスティーナは知っている。父が得意げに話していたから。
衣装だけでなく、式そのものもかなり散財させたに違いない。
式場となった都一格式のある大聖堂の中は、これでもかと飾り付けられた純白の薔薇の香りで満たされていた。
式には大勢の人が出席していたけれど、クリスティーナに見覚えがあったのは父の仕事関係の人たちだけだった。彼女に自由な外出は許されておらず、人に会うのは父の監視下のみだったから、個人的な友人はいない。
見知らぬ顔ばかりの中、父とともに中央の通路を歩き、神父の前で待つマクシミリアンに引き渡されたとき、彼はクリスティーナに優しく微笑みかけてくれた。
――まるで彼女の胸に潜む不安を読み取りそれを宥めようとするかのように。
(だいじょうぶ。マクシミリアンさまはお優しい方ですもの)
クリスティーナはそう自分自身に言い聞かせる。
けれど、滔々と流れる神父の言葉を耳から耳へと流しながらベール越しに彫像のような横顔をちらりと見上げても、彼女にはそれが『夫』なのだという実感がなかなか湧いてこなかった。
クリスティーナは、マクシミリアンのことを良く知らない。彼が自分のことをどう思っているのかも。
ひと月前に求婚されて、その場で受け入れて、それから彼は三日と空けずにヴィヴィエ家を訪れてくれた。その都度花やお菓子を贈ってくれて、いつも柔らかな笑顔で語りかけてくれて。
父と同じようにとても忙しい人のはずなのに、マクシミリアンはクリスティーナにその貴重な時間を割いてくれた。
でも、何故だろう。
そんなふうに大事にされているにもかかわらず、いつもどこか距離を感じてしまうのは。
コデルロスとは正反対なようでいて、どうしてか、父とマクシミリアンが重なった。
父からは冷たい一瞥で、マクシミリアンからは優しい微笑みで、同じように壁を感じてしまう。
(ほんの少しも似たところなんてないのに……)
そろそろ帰る者も出始めた披露宴の席で壁際にぽつりと独りで佇み、クリスティーナはたくさんの人に囲まれている『夫』に不安の混じる眼差しを向けた。
彼はやっぱり人当たりの良い笑顔を均等に振り撒いている――クリスティーナに向けるものと、同じ微笑みを。
その光景に、彼女の胸がチクリと痛んだ。
クリスティーナはそこを押さえて小さなため息をこぼす。
(笑顔を向けてもらえて寂しいだなんて、わがままが過ぎるわ)
彼の優しい態度に思い違いをしてはいけない。
クリスティーナはマクシミリアンにとって、別に特別な存在ではないのだから。
この結婚は、あくまでもコデルロスとマクシミリアンの事業の為のものだ。
そこに感情が伴っていないのは、仕方がない。
マクシミリアンのように成熟して魅力的な男性が、クリスティーナのような幼く貧相な娘を妻にしても、彼個人としては喜べるところなどないだろう。
彼なら、もっと素敵な女性を娶ることができたはずだ。
にも拘らず彼がクリスティーナを選んだのは、ヴィヴィエ家とストレイフ家が結びつくこの婚姻で、よほどの利益が生まれるからに違いない。
その厳然たる現実は重々承知しているけれど。
(今は取引のおまけに過ぎなくても、妻として心を込めてお仕えしたら、幾何かはお気持ちを向けてくださるかしら?)
持てる限りの力を尽くしても父には届かなかったけれど、マクシミリアンなら応えてくれるだろうか。
ほんの少しでも、『特別な』笑顔を向けてもらえるようになるだろうか。
彼にとっての唯一無二になることまでは望まない。
けれども、ほんの少しだけでいいから、他の人に注ぐものとは違う眼差しを向けてもらえたら。
クリスティーナはその空色の目に憧憬をにじませる。
ホ、と彼女がまた小さく息をついた時だった。
「よう、クリスティーナ」
陽気で、そして少し呂律が怪しい声がクリスティーナを呼んだ。
向き直った先にいた相手に、彼女は少し身構える。
異母兄のアランだ。
「お兄さま」
露骨に品定めしようとする眼差しで、彼はクリスティーナをジロジロと見る。その不躾な視線に彼女は肩を強張らせた。年の離れたこの異母兄が、クリスティーナは苦手だった。
コデルロスによく似て外見は決して悪くないはずなのに、荒んだ生活のためかどこか精彩を欠いている。父が持つような威厳を、この異母兄は持っていなかった。
クリスティーナは詳しく聞かされていないけれど、賭け事にものめりこんでいるようで、そのことについて父が上げた怒鳴り声を耳にしたことがあった。
アランが彼女の耳元で揺れるイヤリングを指先で弾く。
「えらく豪勢な花嫁衣裳だな。いくらかかったんだか」
その資金の出所がマクシミリアンだということを知っている彼女は、小さく肩を縮めた。
そんな異母妹に、アランは揶揄に満ちた薄笑いを浮かべる。
「まったく、お前にしちゃ上出来だ。たかってきたハエの中じゃ、一番の上物だろ、あいつは」
「そんな失礼な言い方……」
「事実だろうが。お前に値を付けた輩の中にゃ、六十過ぎた爺さんもいたんだぜ?」
「値……?」
クリスティーナは眉をひそめた。
事業の資金提供のことだろうか。
彼女を妻とすることでヴィヴィエ家とつながろうとした者が、マクシミリアンの他にもいたのだろうか。でも、求婚は彼からしか為されていない。
「お兄さま、それはどういう――」
問いを重ねようとしたクリスティーナの肩が、不意に温かくなった。
「クリスティーナ。こんな隅で何をしているのかな?」
頭の上から響いてきた、甘い声。次いで、むき出しの彼女の小さな肩を大きな手がしっかりと包み込む。
「マクシミリアンさま」
突然現れた夫に、クリスティーナは目を瞬かせた。さっきまであれほど離れた場所にいたマクシミリアンが、いつの間にここへ来たのか、彼女の肩を抱き寄せ硬い胸に引き寄せている。
その仕草は、まるで、アランから守ろうとしているかのようにも見えた。
「やあ、義弟よ。今回は助かったよ」
軽薄な笑いを浮かべ続けるアランの台詞で、クリスティーナの肩に置かれたマクシミリアンの手に力がこもった――少し、きついくらいに。眉をひそめて見上げても、彼の口元にはいつもと変わらない笑みが浮かんでいる。
「あちらに、貴女に会わせたい人がいるんだ。すまないね、アラン。私の可愛い花嫁をもらっていっても構わないかな?」
「そりゃもう、ご勝手に。あんたが買ったものだ。オレがどうこう言えるもんじゃないだろう?」
「そうだね、彼女はもう私の妻だ。兄といえども二人きりで会われると嫉妬してしまう。今後は控えてもらえると嬉しいよ」
冗談めかしたマクシミリアンの台詞の内容は少々剣呑で、驚いたクリスティーナは彼を振り返る。
彼の表情は変わらず笑顔になっていたけれど、アランにひたと据えられたままの視線はこの上なく冷ややかだった。そんなマクシミリアンは見たことがなかったクリスティーナは、小さく息を呑む。
その気配に気付いたのか、クリスティーナの肩を包む手にグッと力がこもった。まるで、彼女が逃げ出そうとでもしたかのように――そして、それを引き留めようとしているかのように。
「では、失礼」
アランの声も姿も認めていないような素振りでそう言うと、彼はらしくない強引さでクリスティーナの向きを変えさせ、彼女の肩に手を置いたまま歩き出した。
そうして、「会わせたい人がいる」と言ったのにも拘わらず、ホールの人波を通り抜け、更にどんどん歩き、廊下へと出てしまう。
大股に歩くマクシミリアンに付いていこうとクリスティーナも必死で足を動かすけれど、背丈が全然違うのだから追い付くわけがない。
「あの、マクシミリアンさま……」
息を切らしながら呼びかけると、マクシミリアンが唐突に足を止める。
「ああ、すまない。大丈夫かい?」
窺うような、心配そうな声。
胸に手を置き何とか息を整えようとするクリスティーナを、彼はジッと見つめてきた。
これだけ息が切れているのだから、きっとクリスティーナの頬はみっともなく赤らんでしまっているに違いない。洗練された女性ばかりを相手にしてきたマクシミリアンには、信じられないような醜態だろう。
こんな乱れた姿を見せたら、コデルロスであれば睨み付けてくるだけでは済まされない。クリスティーナが粗相をすれば、客がいなくなった後に躾と称して鞭が振るわれた。
マクシミリアンが同じことをするとは思えないけれど、彼女にがっかりしているのは間違いない。
恥ずかしさのあまりに思わずクリスティーナが顔を伏せると、マクシミリアンの両手が彼女の頬を包み込んできた。決して乱暴ではないけれども有無を言わさぬ力がそこに籠もり、俯けていた顔を仰向けられてしまう。
ドレスの裾がマクシミリアンのつま先を覆ってしまうほどの距離でそんなことをされると、思い切り上を向くことになった。
首を大きく反らせているから、目を合わせないでいようとするとクリスティーナはどうやっても目蓋を伏せた形になる。
マクシミリアンの前で目を閉じていることが恥ずかしく思えて視線を上げると、真っ直ぐに注がれる彼の眼差しと行き合ってしまった。その強さに貫かれて、クリスティーナは一瞬息が止まる。
(なんて、不思議な瞳)
彼の目の色は黒にも緑にも見えて、一たび目にすると、本当はどちらの色なのかを見極めるまで覗き込んでいたくなってしまう。
大きく空色の目を見開いてマクシミリアンを見返していると、反対に、微かに彼の目が細められた。次いで、クリスティーナの唇の両端に置かれていた彼の親指が、動く。
最初は、彼女の唇をそっとかすめる程度に撫でただけだった。
ちらりと、マクシミリアンの黒緑の眼差しの中を何かがよぎる。ほんの一瞬で消え失せたそれを目にしたとき、クリスティーナの背筋には寒気にも似た何かが走り抜けた。
(今のは、何……?)
いつものマクシミリアンとは違う、何か。
いつもの、穏やかで柔らかな物腰とは違う……
彼女はなんだか息苦しいような気がして、薄く開いた唇からそろそろと息を吸い込んだ。
と、ほんの一瞬間があってから、マクシミリアンの顔がゆっくりと下りてくる。
彼の吐息が唇に感じられた。
ためらうかのように、束の間止まって。
そして、そっと唇が重なった。
二度、三度とついばまれ、クリスティーナはその心地良さに小さく息をつく。
途端、マクシミリアンが身体を強張らせた。
クリスティーナの頬を包んでいた彼の手が動き、彼女のうなじと腰に回る。細身に見えて予想外にがっしりとした彼の身体にグッと引き寄せられた。
口づけは貪るようなものに変わり、驚きで開いたクリスティーナの唇の隙間から、温かくて柔らかなものが侵入してくる。内側の敏感で湿った場所に触れられ、クリスティーナは思わずびくりと肩を跳ねさせた。
とっさにマクシミリアンの胸に手を押し当てて突っ張ると、彼はほとんど突き放す勢いで彼女を解放した。唐突に手を離されてふら付いたクリスティーナを、マクシミリアンがサッと腕を伸ばして支えてくれる。
「すまない」
「いえ……」
マクシミリアンのその謝罪は何に対してだろうと思いながら、彼女は小さくかぶりを振る。
「わたくしこそ、申し訳ありません」
気まずい思いで目を伏せてそう答えると、つかの間の沈黙の後、返事があった。
「貴女は謝るようなことはしていないよ」
マクシミリアンらしくない、ぶっきらぼうな声。
(怒らせて、しまった?)
彼のそんな声など聞いたことがなかったクリスティーナは、恐る恐る目を上げた。
彼女を見下ろしているマクシミリアンに、いつもの愛想の良さはない。顔を強張らせて、憮然としているようにも見える。
自分の何が彼をそんなにも怒らせてしまったのか。
途方に暮れてクリスティーナがマクシミリアンを見つめていると、不意に彼が表情を緩めた。
自然と気が解れたというよりも、無理やりそうしたようにも見える。
そして、小さな咳払いが一つ。
「貴女は、何も悪くない」
少し言葉を変えて同じことを繰り返されても、クリスティーナにはそうは思えない。
「でも、わたくしが何か――」
「貴女は何も悪くない。悪いのは、私だよ」
遮るようにそう言われ、彼女はそれ以上何も言えなくなる。
マクシミリアンは困惑するクリスティーナをジッと見つめ、そっと彼女の頬に優しいキスを一つだけ落とすと、微笑んだ。もう、すっかり、いつもの彼だ。
穏やかな笑みで全てを包み隠した、いつもの彼。
「今日はもう充分皆に貴女を見せびらかした。私はもう少し彼らと仕事の話があるから、貴女は先に部屋に戻って休んでいなさい」
そう残すと、マクシミリアンはクリスティーナの返事を待たずに身を翻して、きた道を戻って行ってしまった。あまりに彼らしくなく素っ気ないその素振りに、何となく、逃げられたようにも思えてしまう。
置き去りにされた彼女は、しばらくその場に立ち尽くして小さなため息をこぼしてから歩き出す――披露宴会場とは反対の方向に。
今日から夫になったその人は、父よりも難しい人だと思いながら。