再会③
「その人に話しかけても無駄だよ」
パッと振り返ったクリスティーナの目は、マクシミリアンとモニクの後方、ちょうど家の角の辺りにいる老婆を捉えた。
「どうして、ですか? いったい、何が、お母さまに何が……」
クリスティーナの視線が老婆と母の間を何度も行き来する。
逢ったら、母は喜ぶだろうか、不快に思うだろうか、驚くだろうか――ここに着くまでの間に、クリスティーナは色々考えた。
けれど、こんな反応は、全然予想していなかった。
まるで、視界にも入れてもらえないなんて。
「ティナ」
狼狽しているクリスティーナにマクシミリアンが呼びかける。不安と戸惑いに満ちた眼差しを向けると、彼は真っ直ぐに見つめ返してきた。落ち着いた、冷静な暗緑色の目に、取り乱した自分の姿が映る。
ふいに、スゥッと、クリスティーナの頭の中が鎮まった。
(お母さまは、生きていらっしゃる。少なくとも、今、わたくしの前にいらっしゃる)
幼いころからずっと、一目でいいから逢えたなら、と思っていた人に逢えたのだ――たとえその人がどんな状態であろうとも。
クリスティーナはその事実だけに耳を傾けて、淡く微笑むそのひとに目を向ける。
穏やかで、満ち足りた表情。
温かな視線は人形に向けられているけれど――茫洋としたそれは人形を通り抜けてその先にあるものを求めているようだった。この世には存在していない、何かを。
普通、ではないことは、確かだ。
けれどいったい、どういうことなのだろう。
(話を、聴かなければ)
母に何が起きているのか。
クリスティーナは振り返り、モニク、次いで老婆に目を向けた。
「母は、いつからこのような様子なのですか? モニクが最後にお母さまにお会いしたのは、わたくしが生まれてすぐ――二十年ほど前ですね?」
訊ねた彼女に、モニクは血の気の失せた顔で頷いた。
「はい。あの頃もとてもお気持ちが沈まれていましたけれど、まだ、こんなふうでは……少なくとも、お話はできていました。お屋敷を出られるというお話は、とにかく急に決まって……私はエリーゼ様にご一緒するつもりだったのですが、エリーゼ様は私にティナ様の世話をするように言いつけられました。私にティナ様を見守って欲しい、と――」
「お母さま、が」
「はい。申し上げましたでしょう? エリーゼ様は、お腹の中におられる時からティナ様のことをこの上なく慈しんでおられたと。エリーゼ様にとって、ティナ様はご自身よりも遥かに大事な存在ですもの」
クリスティーナの胸の中に、温かなものがジワリと湧いてくる。
母の愛は、確かにあったのだ。
母にとってきっと誰よりも近しい存在であろうモニクを、ティナの為に手放しても良いと思うほどに。
「……嬉しく思ったら、罰が当たるでしょうか」
誰にともなくポツリと呟くと、優しい声が降って来た。
「どうして?」
見上げると、その声のままの眼差しが、注がれている。
「お母さまが、確かにわたくしのことを愛してくださっている――いたから。それが実感できたからです」
「いた、ではないのじゃないかな」
マクシミリアンが首をかしげてクリスティーナの言葉を訂正した。
「え?」
「今も、ティナのことを愛しているのだよ、きっと。ヴィヴィエ夫人にとっては、その人形がティナなのだろう? 見てごらん、とても愛おしそうだ」
言われて、クリスティーナはもう一度母に目を戻す。
穏やかで幸せそうな表情は、腕の中に彼女がいると思っているからなのだろうか。クリスティーナを抱いていると思うから、微笑んでいるのだろうか。
もう一度マクシミリアンを見上げると、彼は励ますように頷いてくれる。
「そう、ですね。きっと、お母さまはわたくしを愛してくださっています」
少しかすれる声で囁いて、クリスティーナは微笑んだ。
まだ、少し切ない。
けれども、何か、胸の片隅にあった寂しい場所に、すとんと温かなものがはまったような心持ちになる。笑顔は無理に浮かべたものではなくて、心の奥の方から自然と込み上げてきたものだった。
クリスティーナのその笑みを見つめて、マクシミリアンの瞳の色が微かに色を濃くなった。ふらりと彼の手が上がり、その掌がクリスティーナの頬をすっぽりと包み込む。気持ち頭を傾け、彼女は目を閉じその掌に頭を預けた。彼の親指が、唇のすぐそばをそっとかすめる。
マクシミリアンの温もりからは、労りと――慈しみ、あるいは限りなくそれに近いものが伝わってくる。
――わたくしは、この方のことが愛おしい。
ふわりと、そんな想いが身体中を満たした。
確かにこの身体を世に送り出してくれたのは母だけれども、マクシミリアンと出逢うまでは、心も意思も持たない抜け殻だった。クリスティーナはこの人と出逢って初めて、本当の生を受けたのだ。
この人がいなければ、きっとまた、喜びも悲しみも感じない、ただの人形に戻ってしまう。
クリスティーナにとって、マクシミリアンは唯一無二で、かけがえのない、特別な存在だった。そして、彼にとっては、自分がそういうものではないことは判っている。
けれど、特別ではない『ただの妻』に過ぎなくても、彼の傍にいたい。隣に、彼の一番近くに、寄り添っていたかった。
と、ふいに。
「その人はさ」
彼の温もりに浸っていたクリスティーナだったけれども、静かに近づいた声にパッと目を開けた。咄嗟に一歩後ずさってマクシミリアンから距離を取ったクリスティーナに、老婆が続ける。
「――ここに来てひと月くらいは、一日中泣いてばっかだったよ。あんたを恋しがって」
『あんた』でクリスティーナに向けて顎をしゃくりながら、老婆が言った。
「あの子が、世話をしてくれって手紙と一緒にその人送り付けてきてさ。まあ、手はかからん人だし、世話賃もたっぷりもらってるからいいんだけど。日がな一日泣き暮らされるのは気が滅入ったけどね」
『あの子』とは誰だろう。
ここにエリーゼを連れてきたのは、父のはず。
その疑問を、クリスティーナはそのまま口にした。
「あの子、とは、どなたですか?」
「ああ、あんたの父親だよ。コディ――コデルロスだ」
ずいぶんと親し気な老婆の言い方に、クリスティーナは目をしばたたかせた。
「あの、父とはどういうご関係でしょう」
今初めて、そこに思い至る。
考えてみたら、縁もゆかりもない人のところにポイと投げるように妻を任せるのもおかしな話だ。父に親戚がいるという話は、ついぞ聞いたことがないけれども。
眉をひそめているクリスティーナに、老婆は肩を竦めた。
「コディはこの村にいたんだよ、子どもの頃」
「ここに、ですか?」
「ああ。母親に連れられてフラッとやって来たのが三つかそこらの頃かいな。それから一年か二年かして母親の方はまた姿を消してね。あの子だけ残ったんだ。放っておくわけにもいかないからうちの母親が引き取って、村の雑用させて食い扶持稼がせてたんじゃないかな。あたしもまだ子どもだったからあんまり覚えてないけどね、遊んでるところは見たことがなかった気がするよ。いつも何かしら仕事して」
コデルロスの生い立ちを知らなかったクリスティーナは、言葉を失った。彼女にとって父は父として存在していて、どうやってあの父になったかなど、頭の片隅でも考えたことがなかった。
思わぬ父の身の上話に呆然としていたクリスティーナは先を促す言葉もかけられずにいたけれど、反応のない彼女に構わず老婆は淡々と続ける。
「十をいくつか過ぎたくらいでこの村から出て行ってね、それから十年かもう少しくらいしてからかな、急にやってきて、あたしの母さんにこの家を建ててくれたんだ。昔あの子の世話をしてた時にかかった分の支払いだとかなんとか言って。母さんが死んでからはあたし一人で暮らしてたんだけど、そうしたら、あの人を寄越したんだよ」
そこで彼女はハア、と息をついた。
「来た時から『はい』くらいしか言わない人だったけど、だんだん、それすらなくなってね。今じゃ、食べて寝てしかしないよ。それ以外は、ずっとああやって人形抱いて歌うたってる」
「医者には診せましたか?」
尋ねたマクシミリアンに、老婆はまた肩を竦めた。
「別に、身体にゃ悪いとこないんだし。医者がどうこうできるもんでもないだろ。なんか、こうなってからの方が結構幸せそうだしね。少なくとも、泣き暮らすことはなくなったよ」
――『幸せ』そう。
老婆のその言葉に、クリスティーナは唇を噛み締めた。マクシミリアンから離れ、エリーゼの前にしゃがみ込む。そうして、下からすくうように母の顔を覗き込む。
そうやっても、やっぱり彼女の視線も表情も、動かなかった。
(今、本当に、お母さまはお幸せなのですか?)
確かに、穏やかな顔だ。
彼女がこれで幸せだというのなら、このまま、そっとしておくのがいいのかもしれない。
けれども。
「わたくしは、お母さまに見ていただきたい」
ポロリと、クリスティーナの口からこぼれた。
見て欲しい。ここにいる、幸せでいる自分の姿を。
目を合わせて、今現実に存在している『クリスティーナ』がいることを、知って欲しい。
せっかく母が築いた安寧の小部屋から彼女を引きずり出したいと願うことは、間違っているだろうか。
クリスティーナは手を伸ばし、人形を抱くエリーゼの手の甲にそっと触れた。
何も、反応はない。
この手に、触れて欲しい。
触れたら応えて、手を握り返して欲しい。
目を合わせて、微笑んで、声を聴かせてほしい。
(そう願うのは、いけないこと?)
声に出さずに自問するクリスティーナに、静かな声がかけられる。
「ティナは、どうしたいの?」
「え」
振り仰ぐと、その問いを発したマクシミリアンは数歩近付き、彼女の前にひざまずいた。
「ティナは、どうしたい?」
重ねて問いかけられて、クリスティーナはうつむく。
「わたくし、は……」
どうしたいかと訊かれれば、答えなんて一つしかない。
けれど、それを求めてもいいものだろうか。
クリスティーナは目を上げ、マクシミリアンを見る。彼からは、何も言葉がない。その深みのある眼差しで、ただ、彼女を見つめるだけだ。
もう一度、クリスティーナは母に目を向けた。
エリーゼは彼女のことを見もしない、存在していることに気づいてすらいない。
それでも。
クリスティーナは一度固く目を閉じ、深く息を吸い込んだ。そうして、また目を開け、マクシミリアンを見上げる。
「わたくしは、お母さまと一緒にいたいです。お母さまをお連れして、ストレイフの家に帰りたいです」
それは、クリスティーナのわがままだ。マクシミリアンとエリーゼは何の関係もなく、クリスティーナの母を背負う義務も義理も、彼にはないのだから。
けれど、そう解かっていても、エリーゼを支えていくときに、マクシミリアンの手があって欲しかった。彼が傍にいてくれたら、いてくれるだけで、どんなことでもできそうに思えるから。仮に母がずっとこのまま変わらないとしても、マクシミリアンがいてくれれば笑顔を浮かべることができると思ったから。
両手を胸の前で組み合わせて見上げるクリスティーナの頬に、マクシミリアンの指先が触れる。
――多分、触れた。
それは一瞬だけかすめて、すぐに離れていく。
「いいよ、帰ろう――家に。皆一緒に」
そう言って、彼はふわりと微笑んだ。




