再会②
母がいるという村、ノルディがあるのは、良く言えば長閑、悪く言えば辺鄙な、田舎だった。
マクシミリアンは低い柵で囲まれた村の手前で馬車を停めさせ、先に降りてクリスティーナに手を差し伸べた。その表情はいつもの彼のようでいて、やっぱりどこか思い詰めた――何か考え込んでいるような気配を漂わせていて、クリスティーナはこっそりと吐息をこぼす。
マクシミリアンが同乗してからここに辿り着くまでの行程は、とても気詰まりなものだった。
なにしろ、膝が触れ合うような距離にいるのに、誰一人として、口を開きはしないのだから。
元々四人乗りの馬車でも、長身のマクシミリアンがいると「ゆったりと」とはいかない。その彼が真ん前にいて、普段はあれこれと話しかけてくるのに、終始口をつぐんだまま。
沈黙にも、心地良いものとそうでないものとがあるのだということを、この二刻ほどの間にクリスティーナは嫌というほど思い知った。
そして、その沈黙の中で、クリスティーナは自分の発言の何がそんなにマクシミリアンを傷つけてしまったのだろうと考えに考えた。
母のことを黙っていたことなのか。
彼に黙って屋敷を出たことなのか。
身を護る術を持たずに長旅に赴いたことなのか。
でも、それらは心配や怒りは招いても、彼を傷付けるということにはならないだろう。
怒らせてしまったのなら、まだいい。クリスティーナが反省すればいいことだ。
けれど、そう、彼女は彼を怒らせたのではない。傷つけたのだ。
その原因は何なのか、はっきりさせたかった。もう二度と、同じことをしてしまわないために。
(難しい、ですが)
クリスティーナはこっそりため息をこぼし、マクシミリアンの手に自分の手を重ねる。
「石が多いから、気を付けて」
彼女が身を乗り出すと、マクシミリアンが声を掛けてきた。こうやって彼が微笑んでくれることは果たして良いことなのだろうか、それともそれで良しとするべきではないのだろかと、クリスティーナは考えあぐねてしまう。
「ティナ?」
手だけ預けて固まっているクリスティーナを、マクシミリアンがいぶかし気に呼んだ。
「すみません」
我に返って腰を浮かせた。
かなり馬車を急がせていたからか、硬い地面に立ってもまだなんとなく揺れているような気がする。
「大丈夫?」
無意識のうちにまだ放していなかったマクシミリアンの手を握り締めていたようだ。顔を赤らめそっと手を放す。そんなクリスティーナを見下ろしチラリと笑みを浮かべると、彼は村の方へと目を向けた。
「道らしい道もないから、このまま歩いて入った方が良さそうだね」
整えられた街並みしか見たことがなかったクリスティーナは、彼が言っていることに首を傾げた。
(道が、ない?)
眉をひそめながらマクシミリアンの陰から出ると、クリスティーナにも彼の言ったことが理解できた。
確かに、道がない。
クリスティーナの腰ほどの高さの柵に囲まれた敷地に、十数戸の粗末な建物が散在し、家によって畑を持っていたり、小さな家畜の囲いを持っていたりする。配置はバラバラで、みな、思い思いに建てたのであろうということが良く伝わってきた。
今までマクシミリアンに連れられていくつかラルス以外の街にも行ったけれど、こんなにまとまりのない建物の並びは初めてだ。
物珍しさに辺りを見回していると、首をかしげるようにマクシミリアンが見下ろしてきた。
「ヴィヴィエ夫人はヴィヴィエの名前でここに居るの?」
「え?」
「それとも、誰かの家に身を寄せているのかな」
「……わかりません」
父から聞かされたのは、このノルディの名前だけだ。自分の思慮の甘さに肩を落としたクリスティーナの顎に、マクシミリアンの指先が当てられる。それにそっと顔を持ち上げられた。
「大丈夫。小さな村だから、少し訊いて歩けばすぐに見つかるよ――ほら、あの人にでも訊いてみようか」
マクシミリアンはそう言って、最初に目に付いた、すぐ近くの畑で鍬を振るっている初老の男性を指さした。
「失礼」
マクシミリアンの朗らかな一言に、ちょうど鍬の刃を土に打ち込んだところで男性の動きが止まる。
「はあ?」
胡乱気な声と共に振り返った男性は、初めにマクシミリアンに目を留め、次いでその横のクリスティーナを見てしばしばと瞬きをした。いぶかし気に眉をひそめ、次いで、「ああ」と納得顔になる。
初対面の相手に奇妙な反応を見せた彼に、マクシミリアンが問いかける。
「この村に、エリーゼ・ヴィヴィエという女性がいるはずなのだけれど、どこを尋ねたらよいのだろう?」
「ああ……あんた、親戚? 妹?」
最後の問いかけは、クリスティーナに目を向けてなされたものだ。けれども答えは求めていなかったようで、問いは投げっぱなしで放置される。
「あの人なら、ほら、あそこ、あの家にいるよ」
そう言って数軒先の家を示すと、彼はさっさと畑仕事に戻ってしまった。この鄙びた村には違和感溢れる集団にも、何ら興味は湧かなかったらしい。
「ティナ、行こうか」
マクシミリアンに声を掛けられて、クリスティーナはハタと我に返る。
「はい」
頷きながらも気になっていたのは、先ほどの男性の一言だ。クリスティーナを見てすぐに、尋ねた女性の妹だと思ったということは、よほど似ているからなのだろう。
クリスティーナの鼓動がドキドキと昂った。
(やっぱり、お母さまなの?)
父やモニクから話を聞かされても胸の奥では信じきれていなかったことが、急に現実味を帯びてきた。
示された家は目と鼻の先だから、あっという間に扉の前に辿り着いてしまう。
その家はそう大きいものではなくて、他所よりもせいぜい一部屋か二部屋多いくらいだろう。けれどよくよく見ると造りがしっかりしていて、『きちんと建てられた家』という印象を受けた。他の家とは、明らかに違う。
その家の扉を叩く前に、マクシミリアンはクリスティーナを見下ろした。
「いい?」
「……はい」
本音を言えばまだ心の準備はできてはいなかったけれども、徒に引き延ばしてみても仕方がない。
クリスティーナはこくりと頷いた。
マクシミリアンは彼女に小さく頷き返し、拳の節で三回扉を叩く。
しばらく待って。
前触れもなく、ギィと軋む音がして扉が開かれる。
姿を現したのは、もう六十はとうに過ぎていそうな老婆だ。
「誰だい――」
不機嫌そうな誰何の声は、途中で止まった。クリスティーナに目を向けたところで。
「あんた、クリスティーナかい」
会ったこともない相手からズバリと言い当てられて、思わず彼女の息が止まる。
「わたくしを、ご存じなのですか?」
訊ねたクリスティーナに老婆は肩を竦める。
「知っているというか、まあ、他にいないだろうし」
彼女はそう言うと踵を返し、家の中へと戻っていく。
帰れとは言われていないから、入って良いということなのだろう。クリスティーナはマクシミリアンと顔を見合わせ、言葉に出さずに互いにそう了解する。
「モニク、いい?」
「はい」
二十年ぶりに母に会う心構えは大丈夫かとモニクを振り返ると、彼女は少し緊張した面持ちで頷いた。
扉をくぐってすぐにあったのは、ストレイフ家のクリスティーナの部屋よりも少し狭いほどの広さの部屋で、真ん中にテーブルが一つ、椅子が二つ置いてあった。老婆以外に、人の姿はない。右手には小さな厨房のような水回りがあって、奥には扉が三つ並んでいる。物音一つしないけれども、その扉の向こうに母がいるのだろうかと、クリスティーナは首をかしげる。
老婆は椅子の一つに腰を下ろすと、前置きもなく切り出した。
「で、あの人に会いに来たのかい?」
「あの人?」
戸惑いながら問い返したクリスティーナに、老婆がフンと鼻を鳴らす。
「あんたの母親なんだろ?」
当たり前のことのように言われ、彼女は一瞬返事に詰まった。
「……どうして、そう思われるのですか?」
「そりゃ、こんだけ似てたらね。あたしも詳しい話は知らないけど、あの人、ここに来た時から人形抱いて赤んぼ代わりに『クリスティーナ』『クリスティーナ』って可愛がってたからね。あの頃、あの人子ども産んだばっかだって聞いてたし、色々つなぎ合わせりゃ、あんたが誰かなんて予想が付くわな」
つらつらと話す老婆の言葉のほとんどは、しかし、クリスティーナの耳から耳へとすり抜けていった。
「お母さまは、わたくしに逢いたがってくださっていた……?」
クリスティーナはポツリと、声に出して確かめるように呟いた。そんな彼女に、老婆は何故かどことなく気まずげな顔になる。
「逢いたがってるっていうかね」
歯切れの悪い彼女の言葉が、クリスティーナの胸に不安を湧きあがらせる。
「違うのですか? わたくしのことなど、別に想っていらっしゃらないと?」
やっぱり、それだから手紙の一つもよこさなかったのだろうか。
「……まあ、本人と顔を合わせたらいいよ。裏庭にいるから」
それ以上、老婆は説明したくないようだ。というよりも、説明しづらそう、といった方が良いのか。
はっきりしない彼女の態度に、クリスティーナの中には、不安ばかりが込み上げてくる。
「参ります。裏庭、ですね?」
「ああ。一度出て、ぐるりと回っておくれ」
「ありがとうございます」
腰を屈めて一礼し、クリスティーナはマクシミリアンを見上げる。
「お母さま、本当にここに居らっしゃるのですね」
なんだかまだ信じられなくて、彼に向けて言ってみた。
「そうだね。嬉しい?」
クリスティーナの喜びを共有するように、マクシミリアンの目元も和らぐ。彼女はうなずき、そしてふと目を曇らせた。
「嬉しいですが……少し、怖いです」
別に会いたいとは思われていなかった……とか、成長した自分にがっかりされる……とか。
歯に物を挟んだような老婆の言い方で元々くすぶっていた不安の火種を掻き立てられて、クリスティーナが胸の奥底に隠そうとしていた本音がポロリとこぼれた。取り繕うように微笑むと、マクシミリアンは指の背でそっと彼女の頬を撫でた。
「大丈夫。ヴィヴィエ夫人もきっと喜ぶよ」
きっぱりと断言されて、クリスティーナの肩からふと強張りが解けた。彼からの太鼓判は、何よりも励みになる。
「ありがとうございます」
もう一度微笑んだクリスティーナは、モニクに目を向けた。
「行きましょう」
侍女からは、深い頷きが返される。
外に出て、クリスティーナを先頭にして三人は壁沿いに家を回った。さほど大きくないとはいえ、数歩で事足りるほど小さくもない。
一つ目の角、二つ目の角を曲がって、クリスティーナは足を止めた。
屋根からそのまま伸びる庇の下に置かれた揺り椅子。そこに、一人の女性が俯き加減で座っている。
(わたくしと、同じ色)
それだけで、クリスティーナの胸の奥がキュンと疼いた。
クリスティーナのものとよく似た淡い金髪は少女のように下ろしっ放しで、今の彼女の立ち位置からでも見えるはずの横顔を隠していた。
クリスティーナは数歩進み、止まる。
足音は聞こえているだろうに、女性は微動だにしない。耳をすませば、小さな声で歌を歌っているのが聴こえてきた。
「あの……」
『母』と呼んでも、良いのだろうか。
不安になってマクシミリアンとモニクを振り返ると、二人同時に励ますように頷いてくる。
「あの……あの、お母さま?」
やはり、振り向かない。
クリスティーナの不安は、困惑に変わった。
恐る恐るもう少し足を進めて、あと数歩、というところまで近づいた。
「お母さま――エリーゼ・ヴィヴィエさま?」
それでも、彼女は顔を上げない。腰を屈めてそっと覗き込んでもクリスティーナと同じ色の目はピクリとも動かず、視線が絡むこともない。彼女の優しく温かな眼差しは、腕の中に納まった小さな人形にだけ注がれていた。
(どういうこと?)
まるで目も見えず、耳も聞こえていないかのようだ。
そうなのだろうかとモニクを振り返ると、彼女も困惑の眼差しで揺り椅子の女性を見つめている。
どうしたら良いのか判らず途方に暮れて女性を見つめるしかないクリスティーナに、しわがれた声が掛けられた。