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再会①

「本当に、旦那様に黙ってこんなことをされて、良いのでしょうか」

 軽快に走る馬車の中、モニクが心配――というよりも非難の響きを含ませた声で、そう言った。


 馬車が屋敷を出てから彼女がその台詞を口にした回数は、もう両手の指の数でも足りなくなっている。モニクはクリスティーナを委ねる相手としてマクシミリアンをすっかり信頼しているから、彼に告げずに勝手なことをすることにどうしても納得がいかないようだ。


「でも、どういう状況か、全然判らないでしょう?」

「そうですけど……それでも、マクシミリアン様にご相談申し上げるべきではないですか?」

「とりあえず、わたくしがお母さまにお会いして、どうお考えなのかお訊きしたいの」

 きっぱりと答えてそれ以上のお小言は聞かないことを態度で示し、クリスティーナは馬車の外に目を向ける。


 多分、もう行程は半分ほど進んでいるだろう。ラルスの街を出てからも、もう一刻以上過ぎている。とうに建物は消え失せ、なだらかな野山が広がっていた。

 父コデルロスが書いて寄越した母の居場所は、ノルディという、首都ラルスの北方にある村の名前だった。

 アルマンに訊いてみたら売り物になる特産物もなく旅の途中で人が寄るような場所にもなく、彼も名前だけは知っている、というだけの小さな村らしい。


 とうに死んだと思っていた母が遠く離れた場所で生きているかもしれないという話は、マクシミリアンにはしていない。ノルディを訪ねることも、マクシミリアンが仕事で三日間屋敷を留守にするのを待って、行動に移したのだ。

 馬車に乗る寸前まで、モニクはマクシミリアンに黙って出かけるのは良くないと言い続けていて、乗って、もうラルスを出てしまった今でも、先ほどのようなことを言う。けれど、クリスティーナは、真実をはっきりさせてから事の次第を彼に伝えたかった。


(もしかしたら、お母さまはわたくしにお会いになりたくないのかもしれないし)


 クリスティーナが母に拒絶されるところを目の当りにしたら、マクシミリアンは心を痛めるだろう――多分、拒まれたクリスティーナ以上に。優しいあの人に、不快な思いはさせたくなかった。


 ヴィヴィエ家の父を訪れてから二週間、毎日、そ知らぬふりをして何も変わらないような顔で過ごした。そうして今朝、まだ薄暗い時間にマクシミリアンが出立するのを見送って、そのままアルマンに自分も出かけたいということを伝えた。彼はいぶかし気に眉をひそめたけれども、特に深く追求することもなく馬車の準備を整えてくれたのだった。


 会話を拒むクリスティーナにモニクはこれ見よがしなため息をこぼしてよこしたけれども、それでも彼女の気を変えさせることは諦めたらしい。


 会話もないまま、馬車の中は車輪が転がる音だけが響く。


 それから半刻ほど過ぎた頃だろうか。

 不意に、馬車が停まった。

 何か、外で声がする。扉越しではくぐもっていて、はっきり聞こえない。


「何でしょう?」

 不安そうにモニクがクリスティーナに近寄った、その時。

 蝶番番から引きちぎられそうな勢いで、馬車の扉が開け放たれた。

 そこに立つ人を、クリスティーナはポカンと見つめる。


「え……どうして、ここに……?」

 思わずつぶやくと、その人は大きく息を吸い込んだ。そしてそれを吐き出しながら、言う。いつもと全く違う、笑顔とともに。

「さあ、どうしてだろうね?」

 その微笑みは、微笑みと称するのがはばかられるほど不穏なもので、日々クリスティーナが見慣れたものとは大きくかけ離れていた。


 予期せぬ訪問者――マクシミリアン・ストレイフその人は、一度御者の方へ行き、何事か伝えてから戻ってくる。そうして黙って馬車に乗り込むと、クリスティーナの真向かいに腰を下ろした。長身の彼の脚は勿論長いので、必然的に、ドレスに包まれているクリスティーナのふくらはぎがそこに挟み込まれる形になる。


「あの、私は外に行きましょうか?」

 ためらいがちに、モニクがマクシミリアンに声をかけた。彼はかぶりを振って答える。

「いや、モニクがいた方が私も自制が効くだろうから」


 つまり、かなり怒っている、ということだろうか。

 クリスティーナは心持ち顎を引いて、上目遣い加減に夫を見た。


 常に悠然としている彼の髪は乱れに乱れ、その上汗だくだ。他に馬車はなさそうだから馬を駆けさせてきたのだろうけれど、まだ寒さの厳しいこの時期にこんなに汗をかいているということは、ずいぶん飛ばしてきたはずだ。もっとも、そうでなければ追いつけていないだろう。

 マクシミリアンは上着を脱いで横に置く。シャツはぺたりと肌にくっついていて、こんなに汗をかいていたら身体を冷やして病気になってしまうに違いないと、クリスティーナは若干場違いな心配をしてしまう。


 それだけ怒っていても引き帰させるつもりはないようで、じきに馬車は方向転換することもなく動き出した。


 走る馬車の中で、誰も言葉を発しない。

 クリスティーナは膝の上に揃えた手をひたすら見つめていたけれど、前からひたと据えられ続けている視線には、嫌というほど気付いていた。


 沈黙があまりに重く、耐えかねたクリスティーナは覚悟を決めて顔を上げる。

「あの……――――怒っていらっしゃいますか?」


 マクシミリアンと目が合った瞬間、「どうしてここに」という問いかけが口の中に引っ込んで、言わずもがななことがこぼれ落ちてしまった。思わず口を押えた彼女に、マクシミリアンの眉がピクリと動く。

「怒っていると思う?」

「そう、見受けられます」

 肩を縮めて答えると、少し間が開いて、小さなため息が聞こえてきた。

「まあ、怒っているよ。護衛もつけずに女性だけでラルスを出るなんて、何を考えているんだい? 獣や野盗の危険だって、ないわけじゃないんだよ?」

「すみません……」

 それはクリスティーナも頭をよぎったけれど、急なことだったので、護衛まで手配させるのは申し訳なく思ったのだ。でも、マクシミリアンにそう言ったら、もっと怒らせてしまうような気がする。


 話題も空気も変えたくて、クリスティーナは当初の疑問を口にする。

「あの、ところで、マクシミリアンさまはどうしてここにいらっしゃるのでしょう?」

 今頃、違う方向でラルスから離れているはずなのに。

「アルマンが知らせてきたんだよ。貴女がラルスを出ようとしている、と」

「まあ。それで、その……お仕事は……」

「他の者を行かせた」

「! 申し訳ありません!」

 そんな迷惑をかけることになろうとは、思ってもみなかった。サッと血の気が引いたクリスティーナから、何故かマクシミリアンが目を逸らす。

「構わない。元々、他の者でも対処可能な案件だった」

「え……」

 確か、どうしてもマクシミリアンの目が必要だから彼が赴かなければいけないのだと言っていたような記憶があるのだけれども。


 自分の記憶違いだろうかと眉をひそめたクリスティーナの頭を、ふと嫌な考えがよぎってしまう。

(もしかして、わたくしと距離と置きたかった、とか……?)

 そう言えば、以前は彼の出張にクリスティーナも連れて行ってくれたのに、もうここ数ヶ月、そういうこともない。冬だからだとか暮れで忙しいのだとか自分を納得させていたのは、欺瞞だったかもしれない。


 またうつむいたクリスティーナに、少しためらう気配を見せた後、今度はマクシミリアンから問いかけがある。

「それで、どうしてノルディなんかに用があるの?」

 パッと顔上げると、もういつものマクシミリアンがそこにいた。穏やかで、静謐で、淡々としている、彼が。優しげだけれども、どう思っているのか読み取らせてくれない、彼が。

 その表情も声も身にまとう空気も、先ほどの怒りなどまるではなから存在していなかったように消え失せている。


 剥き出しの怒りを見せていたマクシミリアンの方が近し気に感じられ、ふと、クリスティーナはあの彼をもう一度見たいと思ってしまう。それは、良くないことだろうか。

 心寂しくうつむいたクリスティーナの気を引くように、彼が手を伸ばしてきた。指先を包まれ、ただそれだけの触れ合いに、どきりと胸が高鳴る。


 クリスティーナのそんな胸中など全く知らず、彼はもう一度問いを投げてくる。

「アルマンからは、ノルディに行く予定らしいと聞いているよ。どうしてあんな田舎の村に?」

「それは……」

 ここまで巻き込んでおいて、もう言わないわけにはいかないのだろう。

 クリスティーナは言葉を選ぼうとして、諦める。どう言いつくろっても、奇妙な話であることには違いない。


「母が、生きているようなのです」

「え?」

 マクシミリアンが眉をひそめるのも当然だ。クリスティーナだって、未だ半信半疑なのだから。

「母が生きていて、ノルディにいると、先日父から聞かされました。それを確かめに行こうと思ったのです」

 クリスティーナが言うと、マクシミリアンは束の間唇を引き結んだ。


「先日、とは、この間ヴィヴィエの家を訪ねた時のこと? どうして話してくれなかったの?」

 その暗緑色の目に苛立ちの陰が見え隠れする。自分の返事が何故彼を怒らせたのか解からず、クリスティーナは怯んだ。怯みながらも顔を上げて、答える。

「これは、ヴィヴィエの家の問題ですから、マクシミリアンさまのお手を煩わせるわけには……まずはどういう次第か確かめて、どうしても手に余るならご相談申し上げようかと思っておりました」

「じゃあ、もしかしたら、私は何も知らずに終わっていたかもしれないのだね」

「はい。できれば、そうなればいいと……」


 クリスティーナは答えたけれども、マクシミリアンから漂ってくる空気が冷ややかというかひりひりするというか、とにかく圧迫感のようなものを覚えて、最後の方は口の中でもごもごと消えていく。彼を気遣ったはずの配慮がうまく働いていないのは、もうこれ以上はないというほど、明らかなことだった。


「そう。まあでもとにかく、どうするかは実際に会ってみないと何とも言えないね」

 静かな声でそう言って、マクシミリアンはそれきり黙り込んだ。胸の前で組まれた腕が、それ以上の遣り取りを拒んでいる。


 馬車の扉を開けた時のような火が点いたような怒りは感じられないけれど、この展開がマクシミリアンの望むものではないことだけは確かだ。

 でも、何が彼の気に障っているのかが、判らない。


(お仕事の邪魔をしてしまったから……?)


 それは、違うような気がする。

 黙って供も付けずに出てきたことへの怒りは、もう治まっていそう。元々いつまでも怒りや不満を引きずる人ではないから、クリスティーナが反省の色を見せた時点でそこは解消されたはず。


 クリスティーナはそっとマクシミリアンを窺う。そうやっても目が合うことがない彼に、困惑混じりのため息をこっそりとこぼした。


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