明かされた真実④
笑みを浮かべたマクシミリアンは、軽く首をかしげてクリスティーナに視線を投げている。
「怒っているように見える?」
そう訊いてくるということは、怒っていないということなのか。
クリスティーナは迷った。
怒っていないのに怒っているだろうと言ったら、本当に怒らせてしまうかもしれない。けれど明らかに不穏な空気を醸し出している彼に『いいえ』とも言えなくて、彼女は膝の上の両手を握り締める。
黙りこくっているクリスティーナをマクシミリアンはしばらく見つめていたけれど、やがて小さなため息をこぼした。
「怒っては、いないよ」
(本当に?)
声に出さない問いかけも、彼には伝わってしまったらしい。
マクシミリアンは片手を伸ばして、指先で、そっとクリスティーナの頬に触れた。
ほんの、一瞬だけ。
彼はすぐさま手を握り込み、それを膝の上に戻してしまった。
そうしてから、もう一度繰り返す。
「怒ってはいないよ。ただ――心配しただけだ」
続いた彼の言葉が予想外で、クリスティーナは目をしばたたかせた。
「心配? どうしてですか?」
「貴女が独りで父上の所に行ったから」
「……心配なさるようなことはないと思いますが」
それは別に油断しているとか彼女が警戒心に欠けるとかではなく、紛れもない事実だ。
父の屋敷は警備もしっかりしているし、危険なことなど何もない。
マクシミリアンの意図が読めないクリスティーナは、眉をひそめて彼を見た。と、マクシミリアンの目に陰りが走る。
「二度と、貴女と父上を二人きりにさせるつもりはなかったよ」
益々もって、訳が解からない。
「父は暴力的な人ではありません。二人きりになったからといって、特に危ないことなどありませんが」
マクシミリアンが警戒する理由がさっぱり読めずに困惑気味にクリスティーナがそう言うと、彼は一度唇を引き結び、そうしてまたそれを開いた。
「確かに、彼は理由もなくティナの身体を傷付けることはないだろうね。そんな無意味なことはしない」
目を伏せ気味に淡々と放たれたマクシミリアンの声は、コデルロスのことを認めているものであるにもかかわらず、暗い。その声の調子に、クリスティーナはいっそう眉をひそめた。と、つとマクシミリアンの視線が上がって、彼女を捉える。
「だが、彼は、貴女のことを傷付けてきただろう?」
「え?」
「貴女の心は、傷付けてきたはずだ。長い間、ずっと」
「そんな、ことは――」
「あるんだよ。私のもとに嫁いだばかりの頃の貴女は、まるで巣から落とされ踏みつぶされた小鳥のひなのようだった。そんな貴女を見ているのは、とても歯がゆかったよ」
「マクシミリアンさま……」
苦いものを噛むようにそう告げたマクシミリアンに、クリスティーナは彼の名を呼ぶよりほかに何ができただろう。クリスティーナが傷付いていたと言うマクシミリアンの方が、よほどどこか痛いような顔をしているのだから。
言葉もなくクリスティーナが見つめる中で、彼が続ける。
「貴女は、ずっと傷付いてきたんだ。ただ、傷付いているということに気が付かなかっただけで、ずっと彼に傷付けられてきた」
喉の奥で押し殺された、唸るような声で言って、マクシミリアンは膝の上の両手を間接が白くなるほどに握り締めた。そこにあまりに強い力がこもっていて、クリスティーナはマクシミリアンが言っていることよりも彼の手が痛まないかの方が気になってしまう。そんな彼女をよそに、彼は何だかタガが外れてしまったかのように、静かな、でも、その奥底にグツグツと渦巻くものを潜ませた口調で、言葉をこぼす。
「本当は、彼のことを貴女の父と呼ぶのも嫌だね。貴女の名前と彼のこととを、並べて口にしたくない。二度と貴女を彼に会わせたくないけれど、それは仕方がないから、もしも会わざるを得ない時には私も隣にいたかったんだ」
飄々としているマクシミリアンが滅多に見せない感情的な態度に、クリスティーナの胸がキュッと痛んだ。衝動のままに彼に手を伸ばす。
クリスティーナの指がマクシミリアンの手に触れた瞬間、彼の全身にピクリと力がこもったけれど、彼女から逃れようとはしなかった。クリスティーナはほんの少しマクシミリアンとの距離を縮めて、両手で彼の手を包み込む。
「マクシミリアンさま」
呼びかけると、つないだ両手に気を取られていた彼の目が上がる。
その視線をしっかりと捕まえて、クリスティーナは伝えた。
「マクシミリアンさま、わたくしは、今日、独りではありませんでした」
「だが――」
反論しようとしたマクシミリアンにニコリと笑いかけて、クリスティーナはそれを封じる。
「わたくしは独りではありませんでした。ここに――」クリスティーナは片手を離して自分の胸に当てる。「貴方がいてくださいましたから」
そうしてまた、彼の手を両手で握り締めた。
マクシミリアンは戸惑ったような顔で、眉をひそめている。
「私が、そこに?」
疑わし気にそう呟いた彼に、クリスティーナはしっかりと頷いた。
「はい」
クリスティーナの胸の中には、彼を想う気持ちがある。
マクシミリアンの隣に相応しい人間になりたいと願う気持ちが、そうあろうと思う気持ちが、コデルロスの前に立っていた間、ずっと彼女を支えてくれていた。
それはつまり、彼が傍にいてくれたということだ。
「先ほど父と話してきて、わたくしは色々なことを知りました。もっと早くに、知っておくべきだったことを。その中の一つが、父の愛情はわたくしには向けられていなかったということです」
静かな声で事実を口にすると、まるで頬をはたかれたかのようにマクシミリアンの目元が歪んだ。そんな彼になだめるような微笑みを向けて、クリスティーナは言葉を継ぐ。
「でも、確かに愛情は受け取れなかったかもしれませんが、父はわたくしに何不自由ない生活をさせてくださいました」
「だが、物が豊かであれば幸せになれる人ではないだろう、貴女は?」
「そうですね。でも、わたくしは、愛情はおろか、物も充分に与えられない子どもたちがいることを知っています」
「幸不幸は相対的なものではないよ。他の者の方がより不幸だからティナが幸福だったと言うことにはならない」
マクシミリアンの言葉に、クリスティーナは頷いた。
「はい。あの子たちに比べれば遥かにマシ、と驕るつもりはありません。でも、少なくとも飢えることはなく教育も与えられました」
そして貴方も、とクリスティーナは胸の中で続ける。
マクシミリアンの妻となれたのは、父のお陰だ。父が、彼に逢わせてくれた。
それはクリスティーナにとって、父から与えられなかった他のことを全て補ってもまだ余るほどの幸福であることは間違いない。
クリスティーナは、またニコリとマクシミリアンに笑いかける。
「そこから先は、わたくし次第ではないでしょうか。父から愛情を得られないからと言って、そこで閉じこもってしまってはいけないと思うのです」
マクシミリアンは、微動だにせずクリスティーナを見つめていた。
闇の色に近い暗緑色の目の中にチラリと何かがよぎって、消える。
彼はクリスティーナに包まれている己の手に目を落とした。そうして、少し迷うような素振りを見せた後、彼女の手を握り返してくる。強い力ではないけれど、確かに彼が応えてくれて、クリスティーナの胸がふわりと温かくなった。
「ティナは強いな。どうして、そんなに強く、美しく、いられるんだろう」
ポツリと、こぼすような呟き。
それは彼女に向けたものというよりも、マクシミリアン自身の中に問いかけているような響きを持っていた。
クリスティーナはぱちりと瞬きをする。そして、微笑んだ。
「今のわたくしを『強い』とおっしゃっていただけるなら、それは、マクシミリアンさまからいただいたもののお陰です」
彼女の言葉で、マクシミリアンの目が上がった。彼は束の間口ごもって、少し掠れた声で一言こぼす。
「……私から?」
クリスティーナは疑わし気なマクシミリアンを見つめ返して、深く頷いた。ちゃんと彼に伝わるように。
「はい。父と話していてようやく気付けました。マクシミリアンさまから、わたくしはたくさんのものをいただいていたのです。貴方の妻となった六ヶ月で、父と過ごした十九年間よりもたくさんのものを」
そう告げて彼の手を持ち上げて、想いを込めてそっと指の関節に口付ける。
彼からもらった、優しさと温もり。そしてそこから生まれた、矜持。
それはマクシミリアンと過ごすうちにクリスティーナ自身の中に芽生えていて、いつしか強靭な彼女の支柱となっていた。
彼から受け取ったものに、いつかお返しできる日が来るのだろうか。
彼がそれを彼女に許してくれる日が、いつか来るのだろうか。
今はまだ、こうやってマクシミリアンの手に触れさせてもらえるのがやっとだ。ほんの少し踏み込もうとすると、彼はサッと引いてしまうから。
馬車の中には車輪が立てる音だけが響く。
マクシミリアンは身じろぎ一つせずにクリスティーナとつないだ両手をジッと見つめている。
永遠にも感じられたけれども、沈黙はそれほど長いものではなかったのかもしれない。
ふと、マクシミリアンの手から力が抜けた。そしてまた、こもる。
彼の指先を握っていたクリスティーナの手をすっぽりと包み込んでくる、彼の温もり。
何がどうとはっきり言えるわけではないけれど、握り返してくる彼の手から伝わってくるものは、さっきまでとはほんの少しだけ違っていた。