明かされた真実③
クリスティーナが告げた瞬間、元から温もりがあったとは言えないコデルロスの顔が、更に冷ややかなものになる。
怒りや不快の表れではない。
それは、クリスティーナを退ける為のもの。
その顔をすれば、娘は何も言わずに引き下がると思っているからだ。
確かに、冷ややかな一瞥にクリスティーナの心は怯む。けれども、我知らず後ずさろうとしている足をとどめ、もう一度繰り返した。
「お母さまが今どこにいて何をされているのか、教えてくださるまではこの部屋から出ていきません。ずっとここで同じことを言い続けます。歌を歌ってもいいですよ?」
ただいるだけでは無視すれば終わりだけれども、彼女が話し続けていれば仕事の邪魔になる。コデルロスにとっては、それが何よりも癇に障るだろう。
反抗的なクリスティーナの態度に、コデルロスが不快そうに眉根を寄せた。そうして、卓上で手を伸ばし便箋を手元に寄せると、さらさらと何かを書き付けた。
その紙を、机上で滑らせる。
「お前の母親はそこにいる」
机の端からひらりと紙が床に落ちた。
クリスティーナはそれを拾い、見る。書いてあるのは、恐らく村か町の名前と思われるもの。
マクシミリアンがあちらこちらに連れて行ってくれるから、クリスティーナもよく地図を眺めるようになった。その名前は、そうしている中で見かけたような気がする。
多分、何とか一日で往復できるはず。
(こんなに近くに、お母さまが……?)
とうてい、信じられない。
でも、信じたい。
ギュッと目を閉じて母につながるその紙を胸に抱き締めたクリスティーナに、嘲笑が投げつけられる。
「あれに会っても、何の意味もないぞ」
「意味がないだなんて……わたくしのお母さまです。それに、お父さまの妻ではないですか!」
声を荒らげたクリスティーナの抗議は、鼻で嗤い飛ばされた。
「妻か。お前の母親は私に爵位を授け、それは大いに役に立った。この国では、金があっても『貴族ではない』というだけで奴らには相手にされんからな」
そうして、彼は肩を竦める。
「だが、あの女自身は駄目だな。確かに、もう一人くらいまともな息子が欲しかったが、人形相手ではその気にもなれん」
人形。
父の下にいた時、クリスティーナはまさにそれだった。
娘には唯々諾々と彼の言葉に従う人形のような有りようを望んでおいて、妻にはいったいどんな存在であることを望んでいたのだろう――爵位と子どもを授けるものである他に。
母に対する敬意の欠片も感じられないその台詞、その眼差しに、クリスティーナは怒りを抑えることができなかった。
「貴方の役に立たないからと言って、尊厳を否定される筋合いはありません。人は、貴方の為に存在しているわけではありませんから。皆、各々、自分自身の為に、そしてその人が大事だと思った人の為に、生きるのです。わたくしもお母さまも、自分自身の道を歩きます。それは二度とお父さまのものと交わることはないでしょう」
父にも匹敵するだろう冷ややかな眼差しできっぱりと言い切って、踵を返す。
クリスティーナが真っ直ぐに扉に向かい、それを開けようと手を伸ばした、その時。
背後から吠えるような笑い声が響く。
肩越しに振り返ったクリスティーナの目に、皮肉気な、けれども確かに笑みと呼べる表情を浮かべたコデルロスが入った。彼の視線は、今や真っ直ぐに彼女に向けられている。
目が合うと、またコデルロスがにやりと笑った。
「言ってくれるな。お前にも骨があるとは思わなかった。骨と、それに脳みそがな」
「それは産まれた時からわたくしの中にありました。目隠しされていたせいで使い方を学んでこなかっただけです」
「目隠し?」
「ええ。お父さまへの愛情です」
彼女の答えに、コデルロスはフンと鼻を鳴らした。
「そんなものの為に能無しでいたのか」
『そんなもの』。
このヴィヴィエにいた頃、コデルロスが一蹴した『そんなもの』がクリスティーナの全てだった。
クリスティーナは父を見つめる。
彼の眼差しに、後悔や惜しむ色はない。
本当に、心の底から、クリスティーナの愛情を無駄なものと思っているのだ。
辛い。
けれども、どうにもならない。
クリスティーナは目を閉じ、また開け、かつてこの世で唯一と思っていた人を見つめる。
視線が絡んでも、コデルロスの表情はピクリとも動かない。
彼は、このまま一生変わることはないのだろう。
今、クリスティーナの中にあるものは、諦念――ただそれだけだった。いや、微かな哀れみも、あったかもしれない。
クリスティーナが手に入れた『人を想う』という幸せを、この人は決して手に入れられない。
そんなものが存在することすら、知ることがないのだ。
彼女は微笑む。
「貴方が『そんなもの』とおっしゃったものは、わたくしには、何よりも大事なものでした」
静かに父にそう告げて、クリスティーナは扉を開いた。
書斎から出て扉を閉ざした瞬間、ずっしりと身体が重くなる。まだ手にしていた母の居所が書かれた紙を丁寧に畳んで手提げ袋にしまい込んだ。
そうして扉に寄り掛かり、深く息をつく。
生まれて初めて、父と『会話』をした。
コデルロスの人となりを思い知った今でも、やっぱり、愛している。これはもう、彼が父である限り、仕方のないことなのだろう。
けれども、彼からの愛情や関心を求める気持ちは、クリスティーナの中からキレイに拭い去られていた。今となっては、どうしてあんなにも盲目的にそれを求めていたのか、そのことの方が理解できない。
クリスティーナは扉から離れ、その向こうにいる父を思う。
きっと、もう、彼の頭の中から彼女のことは失せているのだろう。
しばし扉を見つめ、クリスティーナはそれに背を向けた。彼女がここを訪れることは二度とないと思う――少なくとも、父に会うためには。
廊下を歩くクリスティーナは、不思議な気持ちになった。来た時にはコデルロスとの対面で頭がいっぱいになっていたせいか気付かなかったけれども、何か違和感がある。目に入るのは二十年近く暮らした馴染みがあるもののはずなのに、全然、そんな気がしない。よそよそしくて、まるで今まで踏み込んだことのない、赤の他人の家のように思われてならない。
(ここはもう、わたくしの家ではないのね)
ヴィヴィエの屋敷はクリスティーナの家ではなく、居場所でもない。
(わたくしの居る場所は……)
それを思うと、パッと頭に浮かんでくるのはマクシミリアンの姿だ。
マクシミリアンの傍がクリスティーナの居場所で、彼女が安らげる唯一の場所だった。
(今すぐ、お逢いしたい)
そんな思いが込み上げてきたけれど、彼は今、仕事の真っ最中だ。夕食の席まで待たなければならない。
切ない想いをため息で散らし、クリスティーナはヴィヴィエの屋敷から出た。ストレイフ家を出た時にはまだ高かった日が、だいぶ傾いている。
待っている筈の馬車を探してその方向に目を向けたクリスティーナは、思わず目を見開いた。
そして、そこに佇むその人を、ポカンと見つめる。
どうして、彼がいるのか。
信じられない思いのままに、名前をつぶやく。
「マクシミリアンさま……?」
クリスティーナ自身の耳にもかろうじて届くか届かないかという小さな声が届いたかのように、マクシミリアンがこちらに向かってくる。すぐ目の前で立ち止まった彼を、クリスティーナは目をしばたたかせて見上げた。
「どうして、ここに?」
思わずそう訊ねたクリスティーナに、マクシミリアンは微笑んだ。どこか、よそよそしく。
「どうしてだろうね」
笑顔だし穏やかな声はいつもと変わらないけれども、彼は怒っているような気がする。少なくとも、和やかな気持ちではない――ようにクリスティーナには感じられた。
(でも、どうして?)
以前に、ギョームから孤児が集まる路地のことを聞いたクリスティーナは一人でそこに赴いたことがあって、その時、マクシミリアンからはやんわりとした叱責がたっぷり降り注がれた。
いかにその辺りの治安が悪いのかということ、うかつな若い娘の末路がどうなるかということを、とても理路整然と説かれたのだ。
確かに、あの時は、我ながら軽率だったと思う。
でも、今日訪れた先は実家で、危険なところというわけでもない。
マクシミリアンを怒らせるような要素はないはずなのだけれども。
立ちすくんでいるクリスティーナの腕を取ったマクシミリアンは、仕草で促し彼女を馬車へと誘う。それはクリスティーナが乗ってきたものではなく、普段彼が使っているものだ。
クリスティーナを先に乗せ、彼女を押し込むようにしてマクシミリアンが続く。
馬車が走り出しても、マクシミリアンは窓の外に目を向けてクリスティーナに話しかけてきてはくれなかった。いつもならば、彼と離れていた間に何をしていたのかとか、訊いてくるのに。
「あ、の」
しばらく気まずい沈黙に耐えたあと、クリスティーナは思い切って口を開いた。ゆるりとマクシミリアンが彼女に顔を向ける。
「何?」
「その――……怒っていらっしゃいますか?」
おずおずとそう訊ねたクリスティーナをマクシミリアンは束の間見つめ、そして、にっこりと微笑んだ――笑っているとは思えない、笑顔で。