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明かされた真実②

 ヴィヴィエ家の書斎。


 この扉の前に立つのは、六ヶ月ぶりだ。


 前回そうしたのは、クリスティーナが嫁ぐその日の朝。

 いつも通りに仕事に没頭する父に、最後の挨拶をと赴いたとき。もしかすると、ほんの少しだけ、今日が自分の結婚式であることを忘れていないか、確認したい気持ちもあったかもしれない。


 クリスティーナは目の前の扉をまじまじと見つめてみる。

 濃い茶色の、何の変哲もない両開きの扉。

 かつて、この扉は、クリスティーナにとって裁きの門に至る関所に等しい重々しさを醸し出していた。

 けれど今は、こうやって立っていても、それがない。ただの扉だ。

 案内の執事は伴っていない。主の不興を恐れて彼は先にお伺いを立てたがったけれども、クリスティーナは父の不意を突く形にしたかった。

 父を畏怖していたかつての彼女では、有り得なかったやり方だ。


 コデルロスの娘であった頃は、そもそも滅多にあることではなかったけれど、父に時間を割いて欲しいときには朝のうちに申し入れ、面会の時間を設定し、その時間の少し前に本当に会えるかどうか確認し、許可が下りればようやく会える、という状態だった。突然ずかずか書斎に足を踏み入れるなんて、考えただけでも恐ろしくて気が遠くなっていただろう。


 クリスティーナは手を上げ、扉を叩く。一呼吸分だけ置いて、返事は待たずに扉を開けた。


 広い書斎に、壁一面に天井まで届く書棚。もちろん、隙間なく本や書類が詰まっている。奥には大きな机。そしてその向こうに、父の姿。

 六ヶ月前と、何一つ変わっていない。

 景観は何一つ変わっていないのに、クリスティーナは自分の中にかつてのような緊張感が込み上げてこないことに拍子抜けした。


「何の用だ」

 投げつけるような冷ややかな声で我に返り、クリスティーナは足を進める。

 そうしながら、声を出した。

「突然の訪問で申し訳ありません。どうしても、お伺いしたいことがありましたので」


 ふと、書類をめくるコデルロスの手が止まった。その目が上がり、クリスティーナに向く。眼差しの中には、いぶかし気な光が宿っていた。

 クリスティーナが話しかけて父が書類から目を離すのも、ましてやその目を彼女に向けるのも、滅多にないことだ。

 コデルロスの茶色の目とクリスティーナの水色の目が行き合い、視線が絡む。

 射貫くようなコデルロスの眼差しにも、クリスティーナは怯まなかった。視線を逸らさず、心持ち顎を上げる。


 と、不意に、父の口元が歪んだ。

 憤りではなく、笑みの形に。


 コデルロスの微笑みは、何度か目にしたことがある。けれど、それがクリスティーナ自身に向けられたことは、記憶に残る限り、ない。

 彼の笑みを与えられたことに、クリスティーナが覚えたのは喜びよりも戸惑いだった。

 ここに向かう馬車の中でコデルロスに問いたいことを幾度も練習してきたはずなのに、予想外の父の態度に呑まれて出てこない。


 口も足も止まってしまったクリスティーナに、コデルロスが眉を片方持ち上げる。

「それで?」

「え?」

「私に訊きたいことがあるといったのはお前だろう。何なんだ?」

 さして興味もなさそうな口調で促され、クリスティーナはハタと我に返った。


 一呼吸置いてから数歩進み、部屋の中央に立つ。そうして、また、父をじっと見つめた。

「わたくしとマクシミリアンさまの結婚は、お父さまとあの方の事業とは、関係がないものなのですか? わたくしは、お金と引き換えに――候補者の中で一番大きな金額を提示したどなたかに、嫁ぐことになっていたのですか?」

 スッとコデルロスの目がすがめられた。温かみのない茶色の目が、クリスティーナを射すくめる。

「……ストレイフか? いや、あの男が余計なことを言うはずがないな」

「お兄さまです」

 短くクリスティーナが答えると、コデルロスがククッと小さな声で笑った。

「ああ、あいつか。もう私から出る金はないと知って、お前の所にせびりにでも行ったのか。あいつはどうにもならん役立たずだな」

 明らかに息子を愚弄した口調でそう言って、彼は鼻を鳴らす。

 その声からは、一欠片の情も感じられない。


「あの愚か者は母親にそっくりだな。頭の中には何も詰まっておらん。私の血が多少なりとも入れば少しは使えるやつになるかと思ったが、私の因子は見てくれだけにとどまったようだ。母親はまあそれなりに役に立ったが、子どもはただの厄介者だ」

 吐き出した台詞は毒に満ちているけれど、その声に感情は含まれていない。憎んだり呆れたりという負の情すら、コデルロスは息子に抱いていないのだ。


 不意に、アランが放った台詞が脳裏をよぎった。


『親父はオレのおふくろとは金目当てで、お前の母親とは家名目当てで結婚したんだよ』


 あの言葉は、紛れもない事実なのだ。

 その瞬間、クリスティーナは気付いた。どうして今まで気付かずにいられたのだろう。


 彼女の中から、何かがポロポロと剥がれ落ちていく。


(この人は、二人の妻のこともお兄さまのこともわたくしのことも見ていない)

 ――自分しか、見えない人なのだ。


 この人の眼差しを、気持ちを欲しがったのは、愚かなことだった。


 ほんの一瞬でも、コデルロスとマクシミリアンが似ていると思ったことが、今では信じられない。

 マクシミリアンは人を見て、声を聴いて、相手を理解し、行動しようとする。

 それらは、コデルロスが決してしようとしなかったこと、きっと、彼の頭の片隅にも存在していない考えだ。


 確かにマクシミリアンも他者に対して壁を作っている。

 けれどもそれは、彼の傲慢さからのものではない――彼の、『弱さ』故の防壁だ。

 マクシミリアンは、彼の中に潜む何かを疎んじている。それがあるから、他者を――クリスティーナを近付けようとしない。その何かを彼女に知られることを恐れているから。

 マクシミリアンの中の闇が何なのか、クリスティーナには想像することもできない。けれども、どんなに暗いものであっても、彼の一部である限り、きっと、彼女は疎ましく思うことはないだろう。

 マクシミリアンさえ許してくれるなら、その闇だって、抱き締められる。

 そんなふうに想わせてくれたマクシミリアンは、クリスティーナにとってかけがえのない存在だ。


 想うだけで胸が詰まる相手がいるということは、どれほど幸せなことなのだろう。


 ふと、クリスティーナはアランのことを思った。そして、胸が痛む。

 彼には、誰もいないのだ。

 お酒と賭け事以外に、彼に寄り添ってくれるものは、ない。


「お兄さまは、とてもお困りのようでした」

 遠回しなクリスティーナの救済の求めを、しかし、コデルロスは鼻で嗤い飛ばした。

「ああ、また借金を山ほど作ったようだな」

「助けて差し上げないのですか?」

 コデルロスは軽く肩をすくめて書類をめくる。クリスティーナの話の方には、まったく興味がなさそうに。

「一度はきれいに清算してやった。まあ、金を出したのはお前の夫だがな」

 コデルロスの言葉に、クリスティーナは眉をひそめる。


「どういうことですか?」

「お前との結婚を承諾する代わりに、アランの借金を払わせた。それに銀鉱山の権利書を一つ、だ。他の連中に出せたのは、バカな息子が作った借金にも満たない額でな」

「え……」

 アランが作った借金の額がどれほどかは知らないけれど、銀鉱山の権利書というのは、とてつもない価値があるように思う。

 言葉を失ったクリスティーナに、コデルロスが肩をすくめる。

「あの男は、お前一人がそれに値すると思っていたらしいぞ? まあ確かに、母親に似て見てくれは良いがな」

 揶揄する声音。その声に、クリスティーナは我に返った。


「マクシミリアンさまのこともお母さまのことも、愚弄しないでください」

 声が震えてしまうのは、仕方がない。それでも精いっぱい毅然とした態度で、クリスティーナは言い切った。

 気弱な娘が初めて見せた反抗的な姿に、コデルロスが一瞬目を見張る。次いで、にやりと笑った。


「お前には、多少なりとも私の血が混じってはいるようだな。ようやく、それが顕在化してきたらしい」

 嘲るようなコデルロスに、クリスティーナは背筋を伸ばした。顎を上げ、かつて畏怖の対象だった、その愛情を求めてやまなかった相手を、真っ直ぐに見つめる。

「いいえ、わたくしが変わったとおっしゃるなら、それはきっと、お父さまとは関係のないことです。今のわたくしにしてくださったのはマクシミリアンさまですから」

 芯のある声で言い放ったクリスティーナに、コデルロスの目が心持ち大きくなった。きっと、娘が「はい」「わかりました」以外の言葉を知っているとは思っていなかったのだ。


 クリスティーナは真っ向から父と向き合った。


 そう、もろい硝子人形のようだったクリスティーナ・ヴィヴィエはもういない。

 マクシミリアンの優しさ温かさが、クリスティーナ・ストレイフを育んでくれた。


 確かに始まりは同情かもしれない。父に売りに出されたか弱い娘を助けたかっただけかもしれない。あるいは、マクシミリアンが求めた、他の何かの代わりか。

 それでも、マクシミリアンの温もりと眼差しと声が、クリスティーナを変えてくれた。自分は無価値な存在ではないと、思えるようにしてくれた。声を出すことを、何かを求めることを、教えてくれた。


 かつて、クリスティーナは、人が人を判断する基準を父に教わった――自分にとって益があるかどうか、それだけが大事で、父に利益を与えない自分は価値のない存在なのだと思い込んでいた。


 けれどそうではない。

 半年ぶりにここを訪れて、初めて父と真正面から対峙して、クリスティーナの心にこびりついていた何かが剥がれ落ち始めた。いや、それ自体は、マクシミリアンと出会ったその瞬間から始まっていたのかもしれない。

 マクシミリアンと出会ったその時から、クリスティーナの心を覆い尽していたコデルロスによって作られた価値観に、ひびが入り始めたのだ。

 その最後の一片が、溶け去る。

 急に、視界が開けた気がした。


 マクシミリアンにとって自分は何の益ももたらさないかもしれないけれど、本当に、彼にとって意味がない存在なのだろうか。

 いつだってマクシミリアンは、彼にとってクリスティーナは宝物にも等しい存在であるかのように感じさせてくれた。彼が大事にしてくれる自分が無価値な存在ではないはずだ


 人と人との関係は、利益の交換だけで成り立つものではない。

 もっと、心の底から湧き上がってくる何かが、他にもある。

 マクシミリアンの傍にいるとクリスティーナの中に込み上げてくる想いのような、何かが。


 ようやく、父への思慕という呪縛から解き放たれた気がする。

 クリスティーナは背筋をただした。


「お父さまとお仕事でのつながりがないとおっしゃるのなら、マクシミリアンさまとわたくしとの間のことは、もうお父さまとは何の関わりもないことです。ですが、もう一つ」


 クリスティーナは胸いっぱいに息を吸い込んだ。

 そうして、続ける。


「お母さまのことを、お話しください」


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