明かされた真実①
朝食を終えたクリスティーナは自室に引き取り、モニクを呼んだ。
朝の身支度を終えてしまえば、普段、クリスティーナが彼女に用を言いつけることはあまりない。部屋に入ってきたモニクは、いぶかし気な顔をしていた。
「どこかにお出かけですか?」
特に伺っていませんでしたが……と続けた彼女を、窓際に立ったまま、クリスティーナはじっと見つめる。常とは違う主の様子にようやく気付いたモニクは、眉をひそめた。
「どうかされましたか?」
モニクの問いに、クリスティーナは答えなかった。代わりに、訊ね返す。
「お母さまは生きていらっしゃるの?」
静かな声で放たれた、問いの形を取った彼女の確認の言葉に、モニクはハッと息を呑んだ。
「何、を……」
「お兄さまが教えてくださったの。お母さまは、生きていらっしゃるの?」
忠実な侍女は俯き、身体の前で両手を固く握り合わせている。その沈黙が何よりの答えだった。
「どうして……どうして、わたくしに教えてくださらなかったの? お母さまがわたくしの所為で亡くなったのでないのなら、どうして、お父さまは――」
それ以上は言葉にできなくて、クリスティーナは言い淀んだ。
母のことがあるから、コデルロスに疎んじられているのだと思っていた。彼は愛が深いあまりに、あんなふうになってしまったのだと。
(そうでは、ないの?)
クリスティーナは、不意に、床が揺らいだような気がした。
間髪入れずにサッと伸びてきたモニクの手が彼女を支えて、近くの椅子に座らせてくれる。
「ティナ様、お母様は――」
言いながらモニクはクリスティーナの両手を取って、そっとさすった――これから与える衝撃を、少しでも軽くしようとするかのように。
あるいは、事実を口にすることを少しでも先延ばしにしようとしたのかもしれない。
クリスティーナもモニクを急かすことはせず、彼女がするに任せた。
事実が明らかになるまでの時間を伸ばしたかったのは、果たしてモニクの方だったのか、それともクリスティーナの方だったのか。
沈黙は、短いとは言えないものだった。
しばらく無心にそうしていたモニクの手が、ふと止まる。
「お母様は、確かに生きておられます」
唐突に発せられた言葉は、簡潔だった。どう飾ってみても、クリスティーナには何の意味もないと判っていたからだろう。
一度口火を切ってしまったら、あとはもうためらいはきれいに消え失せたらしい。
「お母様はここから北にある小さな村に、おられます。旦那様がそこに用意された、お屋敷に。エリーゼ様は、ティナ様をお産みになってから一月後に、そこへ行かれました」
「それは、お母さまのご意思で?」
沈黙。
つまり、母が望んで、ではないということ――父が行かせたということ。
けれど何故、コデルロスはそんなことをしたのか。
クリスティーナが母は死んだと思い込んでいることはコデルロスにも判っていたはずなのに、何故誤解させたままにしていたのだろう。
その北の地に行ったのは自分の意思ではないとしても、どうして母は便りの一つもよこしてくれないのか。
クリスティーナの中で、疑問が不満に、そして怒りに代わっていく。
その怒りは、父とそして母に対してのものだった。
コデルロスが母を送り出した理由は何だったのか。
今までクリスティーナが何も知らされずにいたのは、何故なのだろう。
異母兄は、母が精神に失調を来たしたというようなことを口走っていた。それが事実だとしても、クリスティーナが幼かったころならともかく、成長した彼女には事情を説明してくれてもいいはずだ。
それに、仮に離れたのは母の意思でなかったとしても、その後一切連絡を取ろうとしないということは、母自身がそう望んだからに違いない。
――つまり、母はクリスティーナを望まなかったということだ。
不意に、怒りは不安に転じた。
「……わたくしを疎んじたのは、お父さまではなくて、お母さまの方なの?」
ポツリと呟いたクリスティーナに、弾かれたようにモニクが顔を上げた。彼女の手に力が入って、クリスティーナの手をきつく握りしめる。
「違います。そうではありません。エリーゼ様は、それはもうティナ様がお生まれになるのを心待ちにしておられました。あの頃、ただそれだけがエリーゼ様の希望でした」
「だったら、どうして今お母さまはわたくしの傍にいてくださらないの?」
今までクリスティーナが発したことのない尖った声に、モニクの顔が歪む。それは、悲しみと苦しみが入り混じったものだった。
「エリーゼ様は、本当にティナ様を愛しておられました。ティナ様がお腹の中におられることが判った瞬間から、お嬢様にとって、ティナ様が唯一無二の存在になったのです」
「でも、一緒にはいてくださらなかった」
クリスティーナは執拗にその事実を繰り返した。
モニクが唇を引き結んで、クリスティーナを見つめる。母にも仕えてきた侍女のその目の中には、様々な色が渦巻いていた。一番濃いのは、やはり、悲しみだろうか。
クリスティーナはツキンと胸が痛んだ。
忠実な彼女を傷付けている。
モニクは、実の母以上に母らしくクリスティーナに寄り添っていてくれた人だというのに。
「ごめんなさい、モニク……ごめんなさい。でも、何があったのか教えてもらえなければ、わたくしにはお母さまの愛を信じられないの」
手をひっくり返して、モニクの手を握り締めながら、クリスティーナは囁く。
モニクが言うように、母は自分を愛してくれていたのだと信じたい。
けれど、そう思うに足る根拠は何一つない。
モニクは少し頭を下げて、伏せたクリスティーナの顔を覗き込んできた。
「ティナ様」
クリスティーナはややしてから半分だけ目を上げる。それをしっかり捕まえて、モニクがもう一度繰り返した。
「ティナ様」
そうして、続ける。
「お嬢様は――エリーゼ様は、本当にティナ様のことを待ち焦がれておられました。それだけは、信じて差し上げてください。いつもうっとりしながら貴女が宿るお腹を撫でて、優しく語りかけておられました。お会いになったことのないエリーゼ様のことは難しくても、私のことは、信じてくださるでしょう?」
そう言ったモニクの声にあるのは、懇願だった。
会ったことのない母を信じるのは難しい。けれど、幼いころからクリスティーナのことを支え続けてくれたモニクのことは、確かに疑えない。
「信じるわ」
弱い微笑みを浮かべながらクリスティーナがそう答えると、モニクは彼女よりも強い笑みを返した。
「ありがとうございます」
そうして、その笑みを消した。
「エリーゼ様は、ティナ様の誕生を心待ちにしていました。でも……怯えておられたのです、とても」
「怯えてとは――何に? 出産?」
子どもを産むということは、とても苦痛に満ちたものだと聞いている。そのことに、恐怖を抱いていたのだろうか。
それなら有り得ることだと思ったけれど、モニクはかぶりを振った。そして、ポツリとこぼす。
「いいえ――旦那様に、怯えておられました」
「お父さま?」
眉をひそめて繰り返したクリスティーナに、モニクが頷く。
「ええ」
「でも、お父さまは確かに難しい方だけれど、怯えるだなんて、そんな……」
確かにコデルロスは威圧的で、クリスティーナも躾のために鞭を使われたことはある。でも、言葉も行動も、暴力的ではない。怯える、というのは言い過ぎのように思われる。
戸惑うクリスティーナの前で、モニクは目を伏せた。
「エリーゼ様は、最初の夜にとてもお辛い思いをされて……」
「最初の、夜?」
クリスティーナは眉根を寄せて繰り返した。
それはつまり、夫婦の、ということだ。
(でも、それって、そんなに怯えるようなもの……?)
式を挙げて神の前で誓いを交わしてから六ヶ月が経過しているけれども、実はクリスティーナとマクシミリアンは、未だその『儀式』をまだ終えていない。
毎晩寝台を共にはしている。
でも、マクシミリアンは「まだその時期ではない」と言う。どうなったら『その時期』が訪れたと言えるのか――とにかく、マクシミリアンがそう言うのなら、きっとそうなのだろうとクリスティーナは思っている。
経験していない彼女には判らないけれど、その行為は、そんなにも恐ろしいものなのだろうか。
マクシミリアンが、クリスティーナを怯えさせるような行為を強いる場面を想像してみる。
――まったく、思い浮かばない。
マクシミリアンに触れられるとき、クリスティーナが感じるのは心地良さだけだ。それも滅多にはないことだから、たまに触れられることがあると、もっと多くを、と望んでしまう。
「わたくしには、判らないわ……想像もできないの」
そう答えると、モニクは弱く笑んだ。
「それは、ようございました。マクシミリアン様はお優しい方ですからね。……お父様は――旦那様は、そうではありませんでした」
痛まし気に顔を曇らせるモニクの言葉で、クリスティーナは初夜の翌朝、彼女がずいぶんと心配していたことを思い出した。それはきっと、母のことがあったからなのだろう。
母は、コデルロスといて、クリスティーナがマクシミリアンといる時のような安らぎや心地良さを覚えたことがないのだろうか。
もしもそうなら――彼女は記憶にもない母に対して痛ましさを覚えた。
唇を噛むクリスティーナの前でモニクは小さく息をつき、かすれた声で続ける。
「それからも、エリーゼ様は夜になるたびとても怖がって。次第に、お心が弱っていってしまわれました」
エリーゼの侍女でもあったモニクには、その様を見るのはとても苦しいことだったのだろう。その眼差しに宿る悲痛な光は、まるで今も目の前にその頃の母がいるかのようだ。
母のエリーゼがコデルロスのもとに嫁いだ時、まだ十六歳だったと聞いている。今のクリスティーナよりも四つ近くも年下だ。
まだ、子どもと言ってもいいような、年頃。
そんな年で庇護者のもとを離れて赴いた先で、一番の味方というべき人に、怯えていただなんて。
「お父さまとお母さまは、愛し合っておられたのではないの……?」
愛し合っているのに、怯えるだなんて。
想いが通じ合っているのに、夫婦の間で為される最も親密な行為が恐怖を覚えるものであるなんて、有り得るのだろうか。
尋ねたクリスティーナに、モニクは答えることをためらった。言葉を選んだ後、告げる。
「お嬢様は――妻としての役割を懸命に果たそうとしておられました。旦那様は、あのような方ですから……」
つまり、それは、愛情とは無縁のものだということか。
クリスティーナの中で、二十年近く信じていたものがガラガラと音を立てて崩れ去っていく。その衝撃に呆然としながらも、彼女は幾度か唾を飲み込み喉を湿らせてから、モニクに続きを促す。
「それで、お母さまはどうして北の地に?」
「……クリスティーナ様を身ごもられて、しばらくは旦那様の足はエリーゼ様から遠ざかっておられました。その頃のお嬢様が一番幸せそうで、一時期はずいぶんとお元気になられていたのです。でも、ご出産後、初めて旦那様がエリーゼ様をお求めになったとき、その行為の辛かったことを思い出されてしまったようで……」
「お父さまを拒まれたのですか?」
モニクがこくりと頷く。
「だから、追い出されてしまわれたの?」
(妻としての夜の務めを果たせないから?)
父は、そんなに狭量で非情な人なのだろうか。
眉間にしわを寄せたクリスティーナに、モニクは震える吐息をこぼした。そして、かぶりを振る。
「エリーゼ様は拒まれましたが、旦那様は……――」
モニクの顔が、苦し気に歪んだ。
「翌朝に私がお世話に上がったときには、エリーゼ様は何もおっしゃらず――それきり……その三日後には、ヴィヴィエのお屋敷を旅立たれました」
モニクの手は、今や潰してしまいそうなほどきつく、クリスティーナの手を握り締めている。
曖昧に濁したモニクの言葉の中には、間違いなく、まだ何かが潜んでいる。きっと、彼女はそれ以上のことを語ろうとはしないだろう――その表情から察するに、口にするのが辛過ぎて。
それならば、より多くのことを問う相手は限られてくる。
「お父さまにお会いしてくるわ」
クリスティーナがきっぱりとそう告げると、モニクの顔がパッと上がった。
「ティナ様」
モニクの面が、心配そうに曇る。
「お母さまのことだけではなくて、他にもお訊きしたいことがあるの」
「でも……」
彼女の脳裏に浮かんでいるのは、父の前で委縮するばかりのクリスティーナの姿なのだろう。
モニクの心配も、もっともだ。
「わたくし、マクシミリアンさまのもとに嫁いでから、半年になったのよ」
唐突に、にっこりと笑ってそういった主人に、モニクが戸惑いの眼差しを向ける。
「え……ええ、そうですね」
クリスティーナはモニクの手をしっかりと握り締めた。
「その半年で、わたくしはずいぶんと変わったと思わなくて? 今のわたくしは父の娘ではなくて、マクシミリアンさまの妻なの。お父さまの前では瞬き一つできなかったわたくしとは、違うのよ」
もう一度クリスティーナが微笑むと、弱々しいながらも、今度は笑顔と言えるものが返ってきた。
「ティナ様は、確かにお変わりになられましたわ」
しみじみと、心の底からそう思っていると伝わってくる口調でそう言って、モニクはクリスティーナをじっと見つめてくる。
「ティナ様は、今、お幸せなのでしょう?」
クリスティーナは一瞬目を丸くして、そして微笑む。
「ええ、そうね。幸せだわ、とても」
たとえ片想いでも、身に余るほどの幸せだ。
もっとマクシミリアンに近づくことができればいいのに、彼の奥底にわだかまる何かを知ることができれば――それをこの手ですくい上げ、少しでも軽くすることができればいいのに、と望んでやまないけれども。
それでも、彼に対して抱くこの想いを知ることができて、クリスティーナは幸せだった。
「今でも充分に幸せだけれども、それに甘んじていてはいけないと思うの。わたくしは、今まで色々なことから目を逸らしてきたでしょう? ヴィヴィエの娘はそれでもいいけれど、マクシミリアンさまの妻は、それではいけないと思うの。わたくしは、もっと強くなりたい――マクシミリアンさまの支えになれるように。だから、心地良くないようなことにも、ちゃんと向き合いたいわ」
柔らかな声で、でもきっぱりと言い切ったクリスティーナに、モニクが目をしばたたかせる。
「ティナ様は、お強くなりました。とても。とてもお強く、お美しくなられました」
半分泣いているようなモニクの笑顔は、喜びと誇らしさに輝いている。
クリスティーナは身を乗り出して、彼女の頬にそっと口付けた。