招かれざる客⑥
アランが言ったことは確かにクリスティーナの耳には入って来たけれど、その意味するところを彼女の頭は受け付けようとしない。
「……え?」
呆然としたクリスティーナの口からこぼれた声を問い返す意図を持ったものだと思ったのか、アランが先ほどと同じセリフを繰り返す。
「お前は、母親よりはよほど役に立っているよなと言ったんだよ」
(――お母さま?)
何故、今、母親のことが出てくるのだろう。二度聞かされても、やはり解からない。
現実を受け入れられずにかすむ視界に、クリスティーナは何とかアランを入れる。
「それは、どういう……」
「お前の母親だよ。あの金食い虫」
「お母さまは、お亡くなりになったと」
アランの言い方では、まるでまだ生きているように聞こえる。
酒が入っているうえに、生意気になった異母妹にようやく打撃を与えることができたことが油を注したのか、戸惑うクリスティーナを見下ろして、滑らかさを増した舌で彼はしゃべり続けた。
「親父はオレのおふくろとは金目当てで、お前の母親とは家名目当てで結婚したんだよ。けど、お上品なお貴族のご令嬢は、うちの親父の粗暴さに耐えらんなかったんだよな。お前を生むとすぐに、頭がおかしくなっちまった。いかれた妻なんか、仕事の役には立たないだろう? 親父の奴、北の方に別荘買ってあの女を放り込んだんだよ」
異母兄が話していることが、理解できない。
つまり、彼が言っていることは――
「お母さまは、まだ生きていらっしゃるの……?」
有り得ないはずのことを口走ったクリスティーナの前で、アランは肩を竦める。
「ああ。ったく、あの女に注ぎ込んでる金をオレによこしたらいいんだ、あのくそ親父」
一転、父親への罵倒に代わったアランの声は、もうクリスティーナの耳には入ることすらなくなった。
(お母さまが、生きていらっしゃる。でも、どうして……どうして、お父さまは教えてくださらなかったの?)
父は、再婚する気にもならないほど、母のことを未だに愛しているのだと思っていた。
もしかして、仕事で出かけると言って遠出をしたときに、母にも会いに行っていたのだろうか。
精神に異常をきたした母に会っても、クリスティーナはつらいだけだと思ったのだろうか。
(だから、隠していらっしゃるの……?)
コデルロスの真意が、全く読めない。
クリスティーナの頭の中には、ただ、『何故』という一言だけがグルグル回り続けた。
「なあ、親父がお前の母親にムダ金使ってる分、お前がオレによこせよ」
「……え?」
呆然と異母兄を見たクリスティーナに、アランが手を伸ばす。そうして、彼女の耳元で揺れているイヤリングを指先で弾いた。
「いい生活させてもらってんだろ? ちょっと工面してくれよ。カードで負けが嵩んでさ」
彼が何を言っているのか、解からない。
いや、金の無心をしているのは、判った。
けれど、彼の声は聞こえてその内容も理解できても、今まで死んだと思わされていた母が実は生きているのだということを教えたその口でそんなことを言い出す彼の思考が、クリスティーナには理解できなかった。
混乱を通り越して怒りが込み上げてくる。そして怒りは、兄の理不尽な要求に立ち向かうための力を与えてくれた。
「……お帰りください」
「は?」
クリスティーナは、キッと顔を上げてアランを見据えた。
「お兄さまの為にマクシミリアンさまのお金を使うことはできません。ご用向きがそれならば、応じることはできません。今すぐ、お帰りください」
声を荒らげることも昂らせることもなく、けれどきっぱりと、彼女は告げた。
「お前、誰に向かって――」
「お兄さまに向けて、申し上げております」
かつてのクリスティーナであれば、容易にアランの恫喝に負けていた。けれども今の彼女はマクシミリアンの妻だ。彼女の弱さは、マクシミリアンの弱さになる。クリスティーナは怯みそうになる心にそのことを言い聞かせた。
アランは両手を拳に握って全身を震わせている。その彼の目を、クリスティーナは瞬きもせずに見つめ続けた。
どれほどの時間が過ぎた頃か。
「――くそ」
毒づく声は、小さかった。
アランは忌々し気に、その場に唾を吐き捨てる。そうして、それきり一言も発せずに彼女に背を向け、よろよろと覚束ない足取りで去っていく。
ホッとすると同時に萎えそうになった足を、クリスティーナは踏ん張った。完全に異母兄の姿が消えるまでは、弱いところを見せるわけにはいかない。
アランは完全に遠ざかり、姿を消し、戻ってくる気配もない。
(もう、だいじょうぶ……?)
その瞬間、クリスティーナはぺたりとその場に座り込んだ。
気負っていた時は気付かなかったけれども、緊張が解けた瞬間、全身がガタガタと震え出す。立ち上がろうとしても、足に力が入らない。
(お兄さまは、わたくしはお父さまに売られたのだとおっしゃっていた)
競売にかけて、誰でもいいから、高値を付けた者に売り渡そうとしていた。いや、実際に、したのだ。
(わたくしは、買われた妻)
父とマクシミリアンの架け橋にもならない、何の意味も役割も持たない存在。
そして、母は生きている、らしい。
(でも、どうしてお父さまは教えてくださらなかったの?)
どうして、クリスティーナに、彼女の為に母は命を落としたのだと思わせたままにしていたのか。
その負い目もあって、彼女は盲目的に父に従っていた。父の愛を、眼差しを求め、母を死なせた自分にはそれらが与えられなくても仕方がないことなのだと諦めていた。
けれど、もしも母が生きているのなら、自分の所為で死んでしまったのでないのならば、クリスティーナの何もかもがひっくり返ってしまう。
(わたくしは、これから、どうすれば……)
シンシンと身に迫る寒さに耐えながら自問するクリスティーナに、不意に、声が掛けられる。
「クリスティーナ様?」
首だけで振り返った先にいるのは、アルマンだ。
「どうされたんですか」
彼はいつの間にか高さを増していた雪を踏み散らしながら彼女の方に駆けてくる。その手には厚手のケットを持っていた。
「アルマン……どうしたの?」
「マクシミリアン様が、貴女がここにいらっしゃるから様子を見てくるようにと――いえ、そうではなくて、何があったんです?」
クリスティーナの肩にケットをかけてグルグル巻きにしながら、アルマンが眉をひそめる。彼女はいかにも心配そうな彼に、微笑みを返した。
「雪につまずいて転んでしまいました」
「大丈夫ですか? 怪我は? まったく、クリスティーナ様を独りでこんなところに残していくなんて、マクシミリアン様はいったい何を考えてるんだか」
ブツブツと漏らしっ放しのアルマンは、屋敷に戻り次第マクシミリアンを叱りに行ってしまいそうだ。今の彼は、きっと誰にも会いたくないに違いない。
クリスティーナは慌てて言い訳を見繕う。
「あ、違うの。マクシミリアンさまは一緒に戻るようにとおっしゃったのだけど、わたくしはもう少し雪を見ていたくて。一人にしてくださいと、お願いしたの」
「それにしたって、そのまま一人にしてしまうのはどうかと思いますよ」
唇を尖らせたアルマンは先に立ち上がり、クリスティーナに手を差し伸べた。彼女はその手を借りて立ち上がる。ホッとしたことに、何とか行けそうだ。
彼女を気遣いながら歩き出したアルマンは、足と同じくらい口を動かす。
「まったくね、いくら屋敷の中で安全とは言え、完全ということはないんですからね。不審者が忍び込むかもしれないでしょう? こうやって転んで、怪我して歩けなくなるということもあるんですし。一人きりでウロウロするのは、時間と季節と天気を考えてからにしてください」
「ごめんなさい。雪の夜に外に出たことなんてなかったから、珍しくて」
「それにしたって、こんな寒い中にいたら風邪をひいてしまいますよ。マクシミリアン様だって、こういう時は、無理やりにでも引っ張ってこないとダメじゃないですか」
「マクシミリアンさまは一つも悪くありません」
反射的にそう答えて、クリスティーナは不意に彼のことが心配になる。
脳裏に浮かぶのは、まるで見失った家路を求める子どものようにあたふたと去っていったマクシミリアンの姿だ。そして、彼の独白と。
あの時のマクシミリアンの奇妙な態度は、ただ、酔っていたからというだけとは思えなかった。酔っておかしな行動をとったというよりも、酔いの所為で普段押し隠していたものが垣間見えてしまったという方が、正しいような気がする。
急に色々なことが押し寄せてきて、クリスティーナの頭は自問と自答で溢れ返った。
この結婚のこと。
母のこと。
そして、マクシミリアンの中に秘められている、何か。
自分自身の為に、それに何より、マクシミリアンの為に。
全て、聞かなかったこと、気付かなかったこととしてしまえば、今まで通りの生活がこれからも続いていく。優しく甘やかしてくれるマクシミリアンに潜む暗いものを見て見ぬふりして、自分だけが穏やかに暮らしていける。
(でも、それではいけない――そうでしょう?)
クリスティーナはコデルロスのもとで十九年間そうやって生きてきた。
そうして出来上がった自分は、どんなものだっただろう。
コデルロスの娘として生きてきた十九年間と、マクシミリアンの妻として生きることになったこの六ヶ月間。
どちらの自分の方が、誇れるか。
(もちろん、今のわたくし、だわ)
まだまだ至らないところばかりだけれども、それでも、今の自分は、少しは己の脚で立とうとしている。多少なりとも己の頭で考え、動こうとしている。
クリスティーナが成りたいのはマクシミリアンの妻であって、彼の隣を飾る置物ではない。
(お金で物のように売りに出されたことが、何だというの?)
それで自己憐憫に陥り以前のクリスティーナに戻ったら、それこそマクシミリアンにとって何の価値もない存在になってしまう。
(わたくしは、マクシミリアンさまのお傍にいたい。あの方を支えて、あの方を幸せに――いいえ、あの方と一緒に、幸せになりたい)
クリスティーナはグッと顎を上げた。
マクシミリアンが彼女に心の内を打ち明けようとしないのも当然だ。異母兄の言葉一つで揺らいでしまうような者が、支えになれるわけがないのだから。
(強く、ならなければ)
どうして夫は何も教えてくれないのだろうとぼやくのではなく、彼がその重荷を安心して分かち合う気になれる妻になるのが先だ。
背筋を伸ばして、自分自身にそう言い聞かせる。
一歩一歩を踏み出すクリスティーナの足取りには、もうほんの少しも不確かなものは残っていなかった。