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招かれざる客④

 触れ合う場所から互いの温もりが混じり合う。

 冷え冷えとした空気の中、少しでもマクシミリアンに熱を与えたくて、クリスティーナはできる限り彼に身を寄せた。


 マクシミリアンは顎の下にクリスティーナの頭を収めて全身ですっぽりと彼女のことを包み込んでいるけれど、その腕は彼女を抱き締めてはいない。クリスティーナの背中に回されている腕には力が込められてはいなくて、ただ、彼女を囲んでいるだけだ。

 二人の距離は無いに等しいのに、お義理のような彼のその所作にクリスティーナはもどかしさを覚える。


(でも、少なくとも、マクシミリアンさまはわたくしを拒んではいらっしゃらない……そうでしょう?)

 自問の形で物足りなさをごまかして、彼女はキュッとマクシミリアンの背中で両手を握り締めた。


 と、不意に。


「ここから、貴女のピアノを聴いていたよ」

 ポツリと呟くような彼の声が頭の上から落ちてきた。

「あり――」

 ――がとうございます、と反射的に言いかけて、クリスティーナはハタと口を閉じる。最初に「何も言わないから」と言った手前、マクシミリアンも彼女の答えは望んでいないだろう。

 けれど、何も返事がないのは彼の望むところではなかったらしい。


「ティナ?」

 名前を呼ばれて、クリスティーナは目いっぱい頭を反らしてマクシミリアンを見上げた。

「わたくしがしゃべっても、よろしいのですか?」

「貴女の声が好きだよ。どんな時でも、いつでも、聴いていたい。……名前を呼んで、それに応えてもらえるのは、幸せだよね。初めて会ったときからずっと、望んでいたんだ。貴女の名前を呼んで、私の名前を呼んで欲しい、と。貴女の名前を呼ぶたび、私の胸は温かくなる。貴女の声で聴く私の名前は、まるで癒しの魔法の呪文のようだ。名前を呼び合えるほど貴女が私の近くにいることが、未だに信じられない」

 クリスティーナはマクシミリアンの言葉の内容にまず目を丸くし、次いで、その声の様子に首を傾げた。

 彼女の問いに答えたというよりも、ぼんやりと、思うがままに呟いているような口調だ。


 もしかしたら、今の彼は酔っているのだろうか。

 もしもそうなら、屋敷に戻って温かいところにいた方が良いのではないだろうか。万が一こんなところで寝込んでしまったら、死んでしまう。


「あの、マクシミリアンさま?」

「何だい?」

「酔っていらっしゃいますか?」

 単刀直入に訊いたクリスティーナに、一瞬間が空き、それから低い笑いが響いた。

「まさか。ワインを一瓶空けて、それきりだよ」


 ワイン一瓶。


 それは、結構な量のように思われる。

 少なくとも、クリスティーナは、夕食の席でマクシミリアンがグラスに二杯以上飲むところを見たことがない。その一杯も、そうたくさんは入れず、ほとんど形だけ、という程度だった。

 フツウそうに見えるけれども、やっぱり酔っているに違いないと確信したクリスティーナは、屋敷の中に戻るときには必ず彼も連れて行こうと心に決める。


 そんな彼女の決意はつゆ知らず、マクシミリアンはどこか夢見るような口調で続ける。

「貴女のピアノは、天上の音楽のようだ。聴いていると心が安らいで、赦しを与えられたような心持ちになれる」

(赦し……? 何に対して……?)

 マクシミリアンほど、赦されなければならないことから縁遠い人はいないように思われるのに。

 彼が語るごとに戸惑いが増えていくクリスティーナは、ただ、彼を温めることしかできずにいた。

 そんな彼女を腕の中に閉じ込めたまま、マクシミリアンはポツリポツリとこぼし続ける。


「あの日、思いがけず貴女が微笑んだ時、まるで天使の彫像に突然命が吹き込まれたように見えたんだ。あの瞬間、貴女を手に入れたくて仕方がなくなった。貴女を手に入れれば、闇夜を照らす灯が――永遠に消えない灯が、手に入ると思ったんだ」

 微かなため息とともにマクシミリアンの腕が動き、下ろしっぱなしの髪ごと、クリスティーナの背中を撫で下ろす。それは、クリスティーナのためというよりも、彼のため、彼自身の慰めのための行為に感じられた。


 彼に、何か言いたいと思う。

 けれど、掛ける言葉が見つからない。

 それに腕の中にいるのが現実の彼女だと気付かれたら何かがガラリと変わってしまう気がして、クリスティーナは息すらひそめて口をつぐんでいた。


 人形のように佇むクリスティーナを腕の中に閉じ込め、マクシミリアンは繰り返し彼女の髪を撫でる。

「私は、貴女に触れてはいけないんだ。たとえどれほどそうしたくても、触れるべきではないんだ」

 そう呟いてから自分のしていることに気付いたのか、マクシミリアンの手が止まる。かと思ったら、身じろぎをする気配がして、彼が頭を下げたのが感じられた。


 不意に、クリスティーナの耳に何かが触れる。


 温かくて、柔らかい。


 それは次に彼女のこめかみに移った。

 そこで初めて、その何かが彼の唇だったことを知る。

 キスは彼女のこめかみと耳の間をさまよった。多分、マクシミリアンが頭を下げて届くのは、そこが限度なのだろう。

 親密な触れ合いに、クリスティーナの頭がぼうっと呆けた。

 意識せずとも指先一本動かせなくなった彼女の背中からマクシミリアンの手が離れ、するりと流れるように動いたかと思うと、彼女の頬を包み込んで止まった。

 クリスティーナの顎から首にかけて微かな力が加わえられ、自然と顔を上向かせられる。目線も上げれば、食い入るように見つめてくるマクシミリアンの眼差しがあった。

 その強さに、クリスティーナは、束の間、酩酊感に似ためまいを覚える。


 そこにある、縋るような、焦がれるような光に、応えたい。

 この声が心地良いというのなら、いくらでも囀ろう。

 ピアノを聴けば癒されるというのなら、指が壊れるまで――いや、たとえこの手が壊れても、彼の為に引き続けよう。

 こんな取るに足らない自分が貴方の光になれるなら、いくらでも傍にいる。

 触れたいのならば、触れればいい。ためらう必要なんてない。何故なら、クリスティーナ自身も触れて欲しいと思っているのだから。


 けれど、何を言っても、何をしてもうまく伝わらないような気がして、クリスティーナはただ黙って微笑んだ。彼の望み全てに対して許しを与える気持ちを込めて。

 彼女のその笑みに、マクシミリアンがハッと息を呑んだ。

 そしてわずかに視線を揺るがせた後、ゆっくりと、頭を下げてくる。

 次第に近付いてくる闇に近い瞳に、クリスティーナは呑み込まれてしまいそうだった。


 互いに目を見開いたまま、唇が触れ合う。


 二度、三度。

 優しくついばんで、離れて、また戻ってくる。


 今までにも、何度か、クリスティーナはマクシミリアンとのキスを経験した。


 でも、どうしてだろう。


 今までのものと違って、やけに頭がくらくらしてくる。

 マクシミリアンが酔っているせいかもしれない。あるいは、彼の唇に残るワインの味のせいかもしれない。

 何のせいだとしても、マクシミリアンの唇が触れるたびクリスティーナの頭はぼんやりとしてしまって、衝動的に彼女の口から彼の名前が零れ落ちる。


「マクシミリアンさま……」


 刹那。

 彼女の声に突き飛ばされたかのごとく、マクシミリアンが離れた。


「……ティナ?」

 彼は眠りから覚めたばかりのように、何度も瞬きをしている。

「私、は……」

 錆びた声でそれだけ言うと、マクシミリアンはクシャリと髪を掴んだ。

 彼は何度か何かを言おうとするように口を開け、そして閉じる。


 結局出てきた言葉は。

「すまない。やはり、酔っているらしい」

 そうして後ずさり、更にクリスティーナと距離を取った。

「私は屋敷に戻る。貴女も、戻った方がいい」

 奥歯を噛み締めるようにしてそう残し、あとはもうクリスティーナの返事を待たずに大股で去っていく。


 取り乱しているとしか言いようがない、あまりに彼らしくない行動に呆気に取られたクリスティーナは、呼び止めることすら思い付けずに、ただ、離れていく背中を見送った。


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