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命じられた結婚②

 コデルロスから着るようにと指示されたドレスをまとった姿を鏡に映し、クリスティーナは顔を曇らせる。


 月光を紡いだようだと称される淡い金髪と春の空のような水色の瞳、可憐な顔立ち、華奢な肢体――陶器の人形のようなクリスティーナには、色香を強調するものよりも清楚なドレスの方が似合う。

 が、今回父が用意したものは胸元と肩が露わになっていて、昼間に着るものとしては――いいや、たとえ夜でも、少し慎みに欠けるものに感じられた。


「別のものに着替えますか?」


 クリスティーナが物心つく前から仕えてくれている侍女のモニクはそう言ってくれたけれど、父の言いつけを破れば後でどんなことになるか、クリスティーナはイヤというほど判っている。


「いいえ、これで良いわ。とても綺麗ですもの」

 気遣わしげなモニクに笑顔を向けながら、クルリと回って見せる。

「でしょう?」

「はい。良くお似合いです」

 モニクはクリスティーナに比べると明るさに欠ける笑みで頷いた。と、パッとその顔が輝く。


「ああ、そうだ」


 モニクはクルリと向きを変え、衣装箱に屈みこんだ。少しして振り返った彼女の手には、薄手のショールがあった。それをふわりとクリスティーナの肩に掛け、綺麗な飾り結びにしてくれる。


「これならいかがです? ドレスはお召しになっているのですから、お父様もお怒りにはなれないでしょう?」

「そうね、ありがとう。素敵だわ……ああ、そろそろ行かないと。お客さまがお見えになる頃だもの」

 微笑み返しながらも、クリスティーナの胸には不安が漂った。それを奥へと押し込みながら、モニクの頬にそっとキスをする。

「じゃあ、行ってきます」

「行ってらっしゃいまし」

 その声に送られて、クリスティーナは部屋を後にした。


 モニクの前では保てていた笑顔も次第に薄くなり、廊下を歩く彼女の足取りは重く、視線は自ずと落ちがちになる。

 内向的なクリスティーナにとって、パーティーなどで大勢と相対するのもあまり気の進まないことではあったけれど、こういうふうに個人的にもてなさなければならないのは、いっそう気が沈むことだった。


 ヴィヴィエ家には本来『女主人』の役割を果たす筈のコデルロスの妻がいないから、クリスティーナが十歳をいくつか過ぎた頃からこの十九歳という年齢に至るまで、彼女が代わりを務めてきた。

 何をするかは良く心得ているし、失敗するようなこともない。

 にも拘らず、父から客の相手をするように言われるたびにどこか不安になるのは、ここ数年、彼女に向けられる客の目が変わってきた為だった。


 以前はさして注意も払われなかったのに、最近は、何だか全身に絡み付いてくるような視線を向けられる。

 触れてくる手をやんわりと避けても執拗で、いたたまれない気持ちになることもしばしばだ。


 クリスティーナは広間の扉の前で立ち止まる。


「今日のお客さまは、どんな方かしら……」


 深呼吸を一つして、ノックをした。


「入れ」


 父の声だ。


「失礼いたします」

 そっと扉を押し開け、目を伏せがちに中に入る。


「さっさとこっちに来い」


 入り口付近で足を止めると、間髪を入れずに苛立ちを含んだコデルロスの声が飛んできた。

 覚悟を決めて、クリスティーナは目を上げる。


 まず視界に入ったのは、父の姿だ。そして、その隣に立つ、一人の男性。

 クリスティーナに視線を注いでいるその人は、漆黒の髪にそれと同じほど暗い瞳をしている。

 男性としては平均的な体格の父よりも、頭半分は高い。小柄なクリスティーナでは、彼の肩にようやく届くかどうかというところだろう。

 年の頃は三十半ばほどに見える。異母兄のアランと同じか、少し上か。

 そして、その人は、とても整った顔立ちをしていた。

 すっと通った鼻梁に切れ長の目。

 薄めだけれど形の良い唇は、何かを面白がるように両端が上がっている。


(お会いしたことが、あるかしら……?)


 柔らかな笑みとともに真っ直ぐクリスティーナに向けられた眼差しに、ふとそんなことを思った。彼の遠慮のなさもそうだけれど、その微笑みに、なんとなく覚えがあるような気がして。


「クリスティーナ! 何を呆けておる!」

 叱責に近い声で呼び付けられ、彼女はピクンと背を正す。

「ごめんなさい、お父さま」

 無様にならないほどの急ぎ足で二人のもとに急いだ。


 三歩分ほど離れたところで立ち止まってみると、やはり、客人は大きかった。


「クリスティーナ、こちらがマクシミリアン・ストレイフだ。マクシミリアン、こちらが娘のクリスティーナだ」

「……初めまして、クリスティーナ」


 良く響く声、柔らかな口調でそう言って、マクシミリアンはすらりと形の良い手を差し出してくる。クリスティーナがおずおずとその手に触れると、彼は身体を屈めて彼女の指先に軽く触れるだけのキスを落とした。父が招く他の客がしばしばするように、唇をべたりと押し付けたりなかなか手を放してくれなかったりということはなく、彼の行為はあっさりとしたものだった。

 手慣れて穏やかで、それでいてどことなく事務的な仕草に、クリスティーナの緊張が少し解れる。この人ならば、必要以上に触れてきたり不躾な眼差しを注いできたりはしなそうだ。


「初めまして、ストレイフさま」


 口元に笑みを浮かべて小さな声で答えると、マクシミリアンの目が一瞬だけキラリと光り、次いで笑みが深くなった。

 それは確かに笑顔なのだけれども――


(本当に、笑顔、なのかしら……?)


 クリスティーナの胸の中に、小さな不安めいたものがよぎる。

 笑みの前のつかの間の目の輝きのせいだろうか、なんとなく、その柔和な笑みが彼の内面にあるものを包み込んで隠してしまっているような気がした。


 コデルロスが屋敷に招く人々には老練な商売人が多く、表情と心の内が一致していない人も多い。幼い頃から彼らと接してきたクリスティーナには、少なくとも、「ああ、彼は今心と言葉が同じではないな」と察することができる。

 けれど、このマクシミリアン・ストレイフという人はそれすらさっぱり判らない。


 おずおずと彼の目を見上げると、「何か?」と問うように小さく首をかしげて見つめ返してきた。

 マクシミリアンのその表情はとても感じが良いのに、クリスティーナのみぞおちのあたりがざわついた。何となく、居心地が悪い。


(なぜ……?)


 初対面だから、ではない。

 それならば今までにも何人もの『初めて会う人』がいたのだから。


 今まで接してきた人たちと今目の前にいる人と、いったい何が違うのだろう。


 戸惑うクリスティーナと笑みを浮かべて彼女を見下ろしているマクシミリアンの間に、父の声が割って入る。


「では、顔合わせも済んだことだし、二人で話してくるといい」

「え?」


 クリスティーナは戸惑い、父と客人を交互に見た。

 流石に、初対面の男性と二人きりにされたことはない。


「あの、お父さま――」

「クリスティーナ、庭を案内してもらえるかな?」

 コデルロスにすがるような眼差しを向けたクリスティーナの肘を、マクシミリアンがやんわりと掴んだ。


 これを拒めば、間違いなく父を怒らせる。こんなふうに今までしたことのないようなことをするからにはこの男性は彼にとって重要な人物の筈だから、その怒りも激しいものになるに違いない。

 父の怒りを買うのと、もやもやとした不安を抱かせるけれども終始穏やかな物腰の初対面の客人としばし時を過ごすのと、どちらがいいだろう。

 クリスティーナは迷い、決めた。


「こちらへ、どうぞ」


 彼女の肘をすっぽりと包みこんでいる手からさり気なく逃れ、先に立って歩き出す。

 廊下を進んでいるときも、庭へ出てしばらくしてからも、マクシミリアンは無言だった。

 黙って、クリスティーナの隣を歩いている。

 黙っているけれど、なんとなく視線を感じる。


(気のせい……? 気のせい、よね……?)


 そっと横目で伺うと、バチリと目が合った。

 ただ『見る』のではなく『観察』しているようなその眼差しに、思わずクリスティーナはパッと俯いてしまう。と、勢い余ってふら付いた。


「あ――」

「おっと」


 即座に伸びてきた腕に抱え込まれるようにして支えられる。

 いや、これは、支えられるというよりも。


「……大丈夫?」


 頭のすぐ上から響いてきたどこか甘いような声に我に返ったクリスティーナは、慌てて腕を突っ張って体勢を立て直そうとした。


「申し訳ありません、ありがとうございました――」


 けれど。

 彼女の身体に回された予想外に逞しいマクシミリアンの腕に力がこもり、一層深く彼の胸元に引き寄せられてしまう。


 頬に押し付けられた硬くて温かな胸。

 ふわりと漂うさわやかな香りと、背中を覆ってしまう大きな手。

 ダンスの時でも、これほど異性に密着したことはない。

 クリスティーナの頭は思考を停止し真っ白に塗り潰される。


 そんな状態だったから、彼女は、囁かれた彼の言葉を聞き逃した。


「え……?」


 一拍おいて、クリスティーナはマクシミリアンの腕の中で顔を上げる。彼女のその仕草に気付いたのか彼の力が緩んだ。許される限り身体を離し、ほとんど首が直角になるまで頭を反らして、彼の目を呆然と見上げた。


「今、今……なんて……?」

「だからね、貴女は、この結婚のことをどう思っているのかな?」


 笑いを含んでいるような声で、マクシミリアンが言った。それが耳には入っても頭で理解できなかったクリスティーナはポカンと口を開ける。


「けっ、こん……?」

 異国の言葉のようにぎこちなく、彼女はその一言を繰り返した。


 マクシミリアンはそっと彼女の身体を放して、一歩後ずさる。彼がそうしてくれたことで、目を合わせ易くなった。


(今のは、わたくしをおからかいになった、の、よ、ね?)


 まじまじと彼を見つめるクリスティーナに、マクシミリアンが苦笑を浮かべる。


「同意どころか、この話自体を聞かされていないということだね」

 続いた、深いため息。

「私は貴女に求婚する許可をお父上に願い出たんだよ。彼は求婚の許可どころか結婚そのものをその場で許してくださったけれど」

「つまり、わたくしは貴方の妻になる、ということでしょうか?」

「貴女が受け入れてくれるならば」

 マクシミリアンがにっこりと笑う。


 多分、いや、きっと、その笑顔を向けられた淑女は誰も皆、うっとりと天に昇る心地になるだろう。けれどクリスティーナにはその余裕がなかった。微塵も。


(結婚……この方と……?)


 初めて会って、交わした言葉はわずか。

 為人ひととなりなど全く知らない。

 そんな人との、結婚。


 正直なところを言ってしまえば、怖い。不安だ。

 けれど、クリスティーナの気持ちなど何になるだろう。

 コデルロスはもうこの結婚を決めてしまっているのだから、彼女の意見が入り込む余地などこれっぽっちもない。


 言葉なく立ちすくむクリスティーナの前で、不意にマクシミリアンがひざまずく。ほんの少しクリスティーナよりも下になった彼の黒瞳が、実際には黒ではなくてとても深い緑なのだということに、彼女は気付いた。


(この色は、なんて表現したらいいのかしら? 真冬に茂るモミの樹の葉の色? とても、深い……なんだか呑み込まれてしまいそうな……)

 そんなことを考えてフルリと身を震わせたクリスティーナの両手が、大きく温かな手に包まれた。


「クリスティーナ?」


 飽和状態だった頭に、静かな声が染み込んでくる。

 彼女の空色の目を覗き込んでくる彼の深緑の目はほとんど黒といっていいほどで、底知れない闇の淵を覗き込んでいるような気持ちにさせる。


「私は、貴女に妻になって欲しい。貴女にとっては寝耳に水で、今も考える余裕がないことも判っている。けれど、約束するよ。貴女のことは幸せにする――必ず」


 そう言って、マクシミリアンは恭しいといえるほどの手付きで包んでいたクリスティーナの手を持ち上げると、そっと甲に口付けた。彼女の目をジッと見つめたままで。

 それは、先ほど父の前でもした行為だけれど、あの時とは何かが違っていた。

 あれよりも、もっと――

 どういったらいいのだろう。

 そう、手の甲ではなく、もっと、深いところに触れられたような、そんな感じ。


 彼に取られたままの自分の手をジッと見つめて固まっているクリスティーナに、マクシミリアンが静かだけれどもきっぱりとした口調で続ける。


「だから、私の求婚を受け入れて欲しい。今、この場で」


 クリスティーナは目を上げてぼんやりとマクシミリアンを見た。

 彼がそう言っても、結論は、もう出ているのだ。クリスティーナがどうしたいかなど関係ない。

 彼女の中にあるのは、幼い頃からどっぷりと浸かり爪の先まで滲みついている諦念だ。


 気付けば、クリスティーナの口は勝手に動いていた。


「貴方の求婚を、お受けします」


 答えると同時に、マクシミリアンが微笑んだ。


 その時、彼の目の中にほんの一瞬、何かそれまでとは違う色がよぎったように見えたのは気のせいだろうか。

 それは彼がクリスティーナに見せていた人当たりの良い態度とは違う、何かで。


 クリスティーナが瞬き一つする間に、その何かは消え失せていた。


 この人は父が連れてきた人たちの誰よりも紳士的であるにもかかわらず、誰よりも彼女を落ち着かない気持ちにさせる。

 そわそわと身じろぎをしたクリスティーナの目を、ふと表情を消したマクシミリアンが真っ直ぐに見つめてきた。彼女はネコに見つかったネズミのように身動き一つできなくなる。


 そんなクリスティーナを見据えながら、マクシミリアンは、ずっと捉えたままだった彼女の手に、その指先に口づける。

 それはまるで何かの誓いを立てるかのように慎重で厳かなもので、束の間、彼女の中に渦巻いていた不安が薄まったように感じられた。


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