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招かれざる客③

 広間を出たクリスティーナは、最初に、二階にある書斎を覗きに行ってみた。雪が降っているのだから、家の外よりも中の方が、マクシミリアンがいる可能性が高いと思って。


 ノックをする。

 返事がない。


 そっと、開けてみる。

 暖炉の火が唯一の光源だ。


 一応中に足を踏み入れてみたけれど、人の気配はない。大きな机の向こうに座る人もいなくて、ずらりと並ぶ本棚の前に立つ人もいない。


 そうなると、やっぱりマクシミリアンは庭にいるのだろうか。

 クリスティーナは書斎を出ようとして、足を止めた。踵を返して窓辺に寄って、ところどころにランプが灯されている庭を一望してみる。

 雪がチラついているうえに灯りはまばらで、庭の様子は見えにくい。

 それでも目を凝らしていると、噴水の傍に佇む人影を見つけることができた。その人は屋敷に背を向けているけれど、その背中だけでも一目で判る――マクシミリアンだ。


 クリスティーナは衣裳部屋に戻って何か羽織るものを取ってこようかと思ったけれど、そうしている間に、マクシミリアンがまたどこかへ行ってしまうかもしれない。

(ドレスは、長袖だもの)

 雪もふわりふわりと舞う程度だし、きっと、それほど寒くはないはず。

 モニクに知られたら怒られてしまいそうだけれども、クリスティーナはそう自分を納得させて、淑女として許されるギリギリの速さの駆け足で階段を下り、庭への出入り口に向かった。


 扉を押し開け一歩踏み出した途端、真冬の冷気がクリスティーナを取り巻く。

 彼女は、冬、それも夜に、不用意に外に出たことがなかった。

(こんなに寒いの?)

 一瞬怯んだけれども、むしろ、こんな寒い中にマクシミリアンがいることが心配になる。

(マクシミリアンさまも、早くお連れしないと)

 こんなところに長くいたら、病気になってしまう。

 クリスティーナは書斎の窓から確認した場所へと、急いだ。


 彼女にとっては精一杯の駆け足でも、正直、それは遅い。

 もしかしたら、マクシミリアンはもうさっきの場所にはいないかもしれない。

 そんな懸念がクリスティーナの胸をよぎったけれども、少なからず息を切らした彼女の視界に噴水が入ってきたとき、果たして、マクシミリアンはそのすぐ傍に佇んでいた。


 彼から少し離れたところで、クリスティーナは立ち止まる。

 近付いたら、マクシミリアンの方から気が付いて、振り返ってくれると思っていた。

 いつも、そうだから。

 けれど彼はピクリともしなくて、クリスティーナは自分の方から声を掛けようとして、ためらった。

(本当は気付いていて、でも、気付いていないふりをしているだけかもしれない)

 クリスティーナと、顔を合わせたくなくて。

 そんな考えが頭をよぎると、ここまでやって来た勇気が不意に萎えた。


 広間からの喧騒が、微かに耳に届く。

 シンと冷えた夜気の中に漂う陽気なピアノの音色は、どこか空々しい。


 マクシミリアンの肩の上に薄っすらと積もる雪が、彼がどれほどの時間ここに居たのか教えてくれる。それは、決して短くはないはずだ。


 このまま放っておいたら、彼は夜が明けるまでここに佇んだままかもしれない。

 わずかな逡巡ののち、クリスティーナは意を決する。


「マクシミリアンさま」


 ビクンと彼の肩が跳ねた。

 それを目にして、クリスティーナはホッとする。わざと無視されているわけではないということが、判って。

 パッと振り返ったマクシミリアンは、クリスティーナの姿を目にした途端に足早に近寄ってきた。そうして口を開くよりも先に上着を脱ぐと、それで彼女の肩を包み込む。

 上着に残るマクシミリアンの温もりが与えてくれる心地良さに思わず吐息をこぼしたクリスティーナに、その白い曇りが消えきらぬうちに怒声といってもいい声が降ってくる。


「貴女は、いったい、こんなところで何をしているんだ」

 今まで聞いたことがない夫の荒い声に、クリスティーナは驚くよりも面食らった。

 そして、キッと彼をねめ上げる。

「それは、わたくしの言葉でもあります。こんなに寒いのに、何をされていらっしゃるのですか」

 反撃は全く予期していなかったに違いない。今度はマクシミリアンの目が丸くなった。

 眉間にしわを寄せているクリスティーナをまじまじと見つめ、そして一転、破顔する。


「貴女でも、そんな顔になるのか」

 クスクスと笑いながら、彼はもう一度クリスティーナに手を伸ばし、上着の前をしっかりと閉じる。


「皆の熱気にてられたから、少し涼んでいたんだよ」

 まるでほんのひと時過ごしていただけのような言い方だけれども、ジッと佇んでいた彼の周りの真白な雪に、足跡はなかった。今あるのは、ここまでやって来たクリスティーナの分と、彼女に近寄るためにマクシミリアンが踏んだ、数歩分だけ。

 クリスティーナはそれを指摘して反論しようとしかけて、やめる。その代わりに彼の上着を脱いで返そうとした手は、すぐに止められた。


「着ていなさい。というか、早く屋敷の中に戻るんだ」

「マクシミリアンさまもお戻りになりますか?」

「いや、私はもう少し――」

「では、わたくしもここにいさせてください」

 そう言ってしまってから、クリスティーナはマクシミリアンの顔を真っ直ぐに見上げた。その暗緑色の目は、今はほとんど真っ黒と言っていいほどだ。彼女はそこに、厭わし気な色や、迷惑がる色がないか、探った。


 困惑は、溢れ出ている。

 けれど、クリスティーナのことを疎んじている色は、ない――と思いたい。


 クリスティーナは、マクシミリアンをここに独り置き去りにすることで生じる気掛かりさと、彼の要望を無視して自分の我を通すことに怯む気持ちを天秤に掛けてみた。

 しばらく迷い、それは結局、前者に傾く。


 手は、他にあったかもしれない。

 すぐに屋敷の中に入るからと言って上着を返してその通りにするとか。

 上着を借りたまま屋敷の中に戻って代わりのコートを取ってくるとか。

 その方が、遥かに現実的で『正しい』行為だったはず。

 けれども、そうしている間にマクシミリアンはどこか別の場所に行ってしまうような気がして、間違いなくそうする気がして、クリスティーナはここを、彼の傍を離れることができなかった。


(この人を、この寒い中に、たった独りでいさせたくない)


 何故か、自分が立ち去る背中を、彼を置き去りにしていく姿を、見せたくないと思った。


(どうしよう……どうしたら……)

 今も、マクシミリアンは薄いシャツ一枚とベストだけで佇んでいる。

 彼に温もりを与える為に、自分は何をしたら良いのだろう。


 思い付いた方法は、一つだけ。


 クリスティーナはマクシミリアンを見上げ、一歩、距離を詰める。そして彼に片手を伸ばした。


 指先が硬いみぞおちの辺りに触れた瞬間、彼の全身がびくりと震える。


 もしかして、彼女の方から彼に手を伸ばしたのは、こんなふうに触れようとしたのは、初めてかもしれない。

 クリスティーナはそのままゆっくりと掌をマクシミリアンの胸に押し当てた。それを横に滑らせながら、もう片方の手も上げる。

 また一歩近付くと、マクシミリアンの絹のベストに鼻先がかすめそうになった。雪の匂いに混じって、彼がまとう柑橘系の香りが鼻腔をくすぐる。


「ティナ」


 彼女の名を呼んだマクシミリアンがその時どんな表情をしていたのか、クリスティーナには判らなかった。あまりに近くて、彼の顔を見上げることができなかったから。

 触れた両手を細身に見えて意外にがっしりしている彼の背中に回して、クリスティーナは最後の距離を詰める。

 ピタリと頬を胸に押し当てても、マクシミリアンはやっぱり微動だにしなかった。


「ティナ……」


 また、名前を呼ばれた。

 名前だけを。

 その声は、どこか苦しそうだった――何かに耐えているかのように。

 何が夫をそんなにも苦しめているのかは、判らない。彼が何を堪えているのかも。

 けれど、どうしてか、クリスティーナには、マクシミリアンに拒まれていないということだけは、判った。


「温石代わりです。何も申しません。もう、指一本動かしませんから、お傍にいさせてください」

 囁き声でそう告げて、彼女は、彼の背に回した腕に力を込める。


 そうした拍子にマクシミリアンの上着が滑り落ちそうになって、それを止める為に、その為だけに、彼の手がクリスティーナの肩に置かれた。

 それきり、マクシミリアンは、しばらく彫像のように固まっていた。息すら止めているのではないかと思うほどに、ほんの少しも動かない。今彼女がしがみ付いているのは命をもつものだと教えてくれるのは、温もりと頬に伝わる鼓動の響きだけ。


 どれほどの時間が過ぎた頃だろう。

 クリスティーナには永遠に近いほどにも感じたけれども、実際は、それほど長くはかからなかったのかもしれない。マクシミリアンの後ろに残る、数歩分の足跡はまだ残ったままだったから。


 ゆっくりと、マクシミリアンの腕が上がり、彼の上着に包まれたクリスティーナの身体に回される。そっと、壊れやすい卵でも包み込むように。


 力強い彼のその腕はクリスティーナを引き寄せようとするものではなくて、彼女は代わりに自らの腕に力を込めた。


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