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彼の提案⑤

 マクシミリアンは微笑んでいた。

 けれども、その笑みには、どこか警戒するような――牽制するような、色がある。


「私を探していたの、ティナ?」

 クリスティーナの隣に来たマクシミリアンは、彼女の腰に手を回した。そうして、今気付いた、という風情でシリルに目を向ける。

「ああ、シリル、いたんだね。ティナのことは覚えているよね。ティナも覚えているだろう?」

 なんだか、空々しい。

 二人が打ち解けて話している様子は、見えていたはずだ。

「え、あ、うん……」

「はい……」

 クリスティーナとシリルは互いに目を見合わせてから、頷いた。


 マクシミリアンはそんな二人ににっこりと笑みを向けると、グッとクリスティーナを自分に引き寄せる。

「練習はうまくいっていたようだね。アデールも打ち解けてくれた?」

「え、ええ」

「それは良かった。思ったよりも遅くなったから、そろそろ帰らないとだ。せっかく会えたのに悪いね、シリル。じゃあ、行こうか、ティナ」

 クリスティーナからもシリルからも答えが返るのを待つことのない、一方的な口調だった。

 まるで、早くこの場から立ち去りたいかのようだ。もっと直截に言えば、シリルからクリスティーナを遠ざけたいように見える。


 腰を抱えたマクシミリアンに促されながら、クリスティーナはシリルを振り返った。肩越しに彼を見て、かろうじて声をかける。

「シリル、またね」

 少年が彼女に応えるのも待たずに、マクシミリアンは歩き出した。


 いつもよりも速い足取りで彼が向かっているのが玄関ホールだと気付いて、クリスティーナは慌てて声をかける。

「あの、院長先生には――コルノーさまには、挨拶をしないのですか? 次に来る日も――」

「挨拶はいいよ。次の予定はまた誰かに知らせに来させるから」

 やんわりと、でもきっぱりと、マクシミリアンがクリスティーナの言葉を遮った。彼女に声をかけるときにはいつもちゃんと目を合わせてくるのに、それもない。

 彼でなければ、動揺しているのかとでも思っただろう。


(でも、そんなことはないわよ、ね?)


 前庭で待っていた馬車の中に戸惑ったままのクリスティーナを押し込むようにして乗せ、マクシミリアンも続く。


 彼が扉を閉めようとしたとき、淡々とした声がかけられた。

「おや、お帰りですね」

「ああ、ギョーム。邪魔したね」

 応えたのはマクシミリアンだったけれども、ギョームは手前にいる彼を素通りして、クリスティーナに視線を向けてくる。


「いかがでしたか、アデールは」

「とても素晴らしかったです。本当に、わたくしなどで良いのかと思ってしまうくらい」

 彼女に教えるのは楽しかったけれども、明らかに力不足であることに気が引ける。おずおずと言ったクリスティーナに、ギョームはにこりともせずに答える。

「さっきあの子と会いましたが、あれほど幸せそうな彼女は初めてですね。いや、四歳でここに来たのですが、この二年、ろくに笑うこともなかったのですよ」

 表情とは裏腹に、彼の声と言葉は嬉しそうだった。


「あの、アデールにはまた来ると約束をしてしまったのですが……」

「それは何より。是非ともそうしていただきたい――ストレイフさんさえよろしければ」

 その台詞と共に、ギョームはマクシミリアンに目を移した。


 すぐさま頷くと思った彼は、何故か逡巡を見せている。


「あの、マクシミリアンさま……?」

「ああ、うん、構わないよ。貴女次第だ」


 やっぱり、何かが引っかかる。


 クリスティーナはマクシミリアンの顔を窺いながら頷いた――胸の内で眉をひそめて。

「わたくしは、ええ、また来たいです」

 もしかしたら渋い顔をされるのかもしれないと思ったその返事に、しかし、彼は微笑んだ。

「なら、そうしたらいいよ。じゃあ、ギョーム、また連絡するよ」

 それを最後に、馬車の扉が閉められる。


 走り出した馬車の中で、マクシミリアンはずっと窓の外に目をやっていてほんの少しも動かない。クリスティーナがちらちらと彼を見つめても、目が合うことはなかった。


 帰路も半分ほど来たところで、馬車の中の沈黙に耐えきれなくなったクリスティーナは思い切って口を開く。

「あの、マクシミリアンさま」

「……何だい?」

 ほんの少し、普通なら気にならないほどの、でも、いつものマクシミリアンを知っているなら気付いてしまうほどの間を置いて、彼が振り返った。


 夕暮れ時、灯りをともしていない馬車の中は薄暗くて、その表情は良く読めない。

 クリスティーナは小さく息を呑み、そして続ける。


「あの、わたくしは何をしたのでしょう?」

「え?」

「マクシミリアンさまは怒っていらっしゃいます。いいえ……怒っていらっしゃるのではないかもしれませんが、何か、お心に掛かっていることがあるのでしょう?」

 マクシミリアンは無言でクリスティーナを見つめている。彼女はキュッと一度唇を引き結んだ。

「わたくしには、判りません。ですから、教えていただけませんか?」

 なけなしの気概を振り絞って、クリスティーナは言葉を重ねた。


 彼女にしてみたら、マクシミリアンを追及するということは、ほとんど断崖絶壁から飛び下りるにも等しいほどの気負いが必要なことだ。

 けれど、彼の傍に居たい、彼の傍に寄り添いたいという一心から、自分を叱咤した。


 彼の返事を待ちながら、クリスティーナ自身も考える。


 アデールのレッスンを始める前、講堂で別れた時には何もいつもと変わらなかった。

 気になったのは、練習の終わり際、子どもたちと別れようとしているときに彼がチラリと見せた素振り。

 明らかにおかしかったのは、シリルとクリスティーナが話しているのを見た時の態度だった。

 ――なんとなく、シリルと関係があるような気がする。

 では、シリルと話していたことそのものなのか、それとも、会話の内容なのか。

 前者だとしたら、どうしてだろう。

 後者だとしたら、何がいけなかったのだろう。


 答えを待ってクリスティーナがジッとマクシミリアンを見つめていると、やがて彼は小さく息をついた。そうして、笑う。


「何でもないよ。貴女の気にし過ぎだ」


 肩を竦めて返されたその言葉。優しく、温もりに満ちた声。

 クリスティーナのことを、気遣っている。


 けれど。


 ――拒まれた。


 クリスティーナには、そうとしか思えなかった。

 途端、彼女の心の奥のどこかがキュッと縮こまる。

 もっと踏み込んだらいいのかもしれない。その胸の中にわだかまっているものを教えて欲しい、と重ねて乞うべきなのかもしれない。

 一度だけで引き下がっては、関係を深めることなどできないのだろう。

 けれど、拒絶はクリスティーナの勇気を委縮させる。


 彼女は膝の上に置いた両手に目を落とし、唇を噛んだ。

(どうしたら、いいの……?)


 ギュッと握り締めた手が、不意に大きな手に包まれる。

 顔を上げると、マクシミリアンが見つめていた。陰った、暗緑色の目で。

「本当に、何でもないんだ。私の、問題なんだ。ティナが気に病むようなことは、何もないんだよ」

「ですが――」

 クリスティーナは言い募ろうとしたけれど、真っ直ぐに向けられたマクシミリアンの眼差しに口を塞がれる。彼は無言で、それ以上彼女が彼に近付くことを拒んでいた。


 否応なしに、彼女は気付かされる。

 マクシミリアンは、クリスティーナに触れて欲しくないのだ。

 彼を守っている壁の中に彼女を入れたくないと思っているし、彼のことを理解して欲しいとも、思っていない。


(わたくしはマクシミリアンさまの妻ではあるけれど、『特別』ではない)


 決して、彼の『特別』には、なれないのだ――たとえどんなに彼が優しくしてくれても、どんなに温かな微笑みを向けてくれたとしても。


「ティナ?」

 名前を呼ばれても、彼女はすぐには返事ができなかった。声が震えてしまうのが、判りきっていたから。


「ティナ?」

 もう一度、彼が彼女の名前を口にする。案じる響きを強くして。


 クリスティーナはマクシミリアンに気付かれないようにこっそりと深呼吸をする。

 息を整え、そうして、微笑んだ。


「わかりました」


 本当は、何もわからない。何一つ、納得できていない。

 それでも、クリスティーナは、そう答えた。


(わたくしは、ちゃんと笑えている?)

 彼を安心させられる笑みに、なっているだろうか。

 そんなことを考えながら浮かべる笑顔は何かが間違っていると思ったけれど、今はただそれだけが気になった。


 クリスティーナの笑顔を見つめるマクシミリアンの目が、心許なげに揺れる。その口が、もの言いたげに微かに震えた。


 その時、彼は、行くあてのない子どものように見えて。


 クリスティーナは、無性にマクシミリアンを抱き締めたくなった。その眼差しが訴えているように彼が縋り付いてきてくれたなら、力いっぱい、抱き締められただろう。


 息を詰めて、彼女は何かが動くのを待った。


 途方もなく長く感じられた沈黙の末、マクシミリアンの手が彼女の手を離れ、一瞬ためらう間を置いた後、クリスティーナの頬に添えられる。薄い空気の層を挟んで、彼の掌の温もりが感じられた。


「ティナ、私は――」

 マクシミリアンは何かを言いかけ、やめる。そうして手を引き、ギュッと固く握り締めた。その拳を膝の上に下し、彼が穏やかに笑う。


「練習は、週に一度くらいでいいかな」

 いつもと変わらぬ笑顔と共にそう問われ、どう返したらいいというのだろう。


「……はい、それで、お願いします」


 クリスティーナは頷き、彼女もまた、微笑んだ。


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