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彼の提案④

 アデールは黒い巻き毛に茶色の目をした女の子だ。

 とても引っ込み思案なようでクリスティーナの隣に座っている間もほとんど口を開くことがなかったけれども、鍵盤を弾いた時にチラリと見せる笑顔は、とても可愛らしい。


 確かに、アデールには才能の片鱗が垣間見えた。たった六歳だというのに、短いレッスンの間に、クリスティーナは幾度もそれを感じた。本気で育て上げればきっと名を馳せるピアニストになる。


(わたくしで、本当にいいのかしら)

 レッスンを始めて四半刻もしないうちに、クリスティーナの胸の中はそんな疑問でいっぱいになった。

 マクシミリアンの期待に応えたいけれど、一呼吸ごとになけなしの自信が薄れていく。

 それほど、少女のピアノは素晴らしいのだ。


 アデールのピアノはクリスティーナとは正反対に、情熱的な音色を奏でた。それはとても力強く、クリスティーナよりも遥かに小さな手が作り出しているとは思えない。確かに技巧は拙いけれど、手先のものではない何かが感じられる。


 それはもう、才能、としか言いようがなくて。


(やっぱり、マクシミリアンさまは素晴らしいことをされているのだわ)

 楽譜もなく思うままに鍵盤を叩くアデールに、クリスティーナはそう確信した。


 マクシミリアンがいなければ、この少女は見出されなかった。裕福な家の子でなければ、ピアノを見ることすらできないのだ。彼がこの孤児院に支援していなければ、アデールの天賦の才は、きっと、生きることに汲々とする日々に埋もれていってしまっていただろう。


 自分の力不足を痛感しながらも、クリスティーナはアデールにピアノの基本を教えていく。真っ白な少女は乾いた砂のように何もかもを見る見るうちに吸い込んでいくから、クリスティーナもつい熱が入る。ふと気付くと練習を始めてからもう数時間も過ぎていて、クリスティーナは小さく息をついた。


「そろそろ終わりにしましょうか」

「えぇえ、もう?」

 アデールに教えているうちにそのピアノの音を聞きつけたのか、他にも数人の子どもたちが集まってきていた。その子たちから一斉に声が上がる。


「長く弾き過ぎては、手を痛めてしまうの。アデールも、練習し過ぎてはダメよ?」

 釘を刺すと、少女は一瞬唇を尖らせてから、頷いた。

 そうして、囁くような声で、言う。

「もう一回、クリスティーナの聴かせて」


「わたくし?」

 アデールがこくりと頷いた。その眼差しは、期待に満ち満ちている。

 それを拒むことなど、クリスティーナにはとうていできそうもない。


「では、これで最後ね?」

 クリスティーナは微笑み、鍵盤の上に手を置いた。少し考え、親しみやすい讃美歌を選ぶ。

 弾き始めてすぐに子どもたちも何の曲なのか気付いたらしく、誰からともなく歌い始めた。


 楽しい。

 パーティーの余興で弾かされていた時とは比べ物にならない楽しさだ。

 クリスティーナの指は踊るように鍵盤の上を滑り、唇は自然と笑みを形作る。


 讃美歌はあまり長くない曲なのであっという間に弾き終わってしまって、子どもたちからは不満の声が上がった。


「もっとぉ」

「他のも弾いてよぅ」

「また今度、次に来た時にね」

 ねだる声を宥めるクリスティーナの袖が、クイ、と引かれた。

「ねぇ」

 見れば、アデールが遠慮がちにそこを摘まんでいる。

「どうしたの?」


 訊ねると、彼女は少しもじもじした後、クリスティーナを見上げてきた。


「あのね、クリスティーナみたいに弾きたい」

「え?」

「クリスティーナのピアノが好き。クリスティーナみたいに弾きたい。なんであたしは違うの?」


 仔犬のようなひたむきな眼差しでそう問われて、クリスティーナはアデールの両手を取った。それをしっかりと包み込み、少女の目を覗き込む。


「わたくしは、アデールのピアノが好きよ?」

「好き?」

「ええ。あなたのピアノは、あなたのピアノのままでいて欲しいの」


「……」

 アデールはしばらく考える素振りをして、頷いた。

「じゃあ、このままでいい」

 嬉しそうな彼女の笑顔はとても愛くるしい。


 キュンと胸が締め付けられたクリスティーナが思わずアデールの額にキスをすると、他の子どもたちから次から次へと不満の声が立った。

「ずるいぃ」

「あたしも、して!」


 我も我もとキスを乞う子どもたちに、彼女は笑いながら順々に応えていく。

 ぐるりと一巡して、ふと、クリスティーナは講堂の入口の方へと目を向けた。何かを感じたわけではなかったけれど、ただ、なんとなく。


 そこには、マクシミリアンが佇んでいた。

 明らかに彼はクリスティーナを見つめていたけれど、彼女と目が合った瞬間、パッと彼の中で幕が下ろされたような気がした。それは、一瞬にしてきれいにマクシミリアンを覆い尽す。けれど、そうなる前のわずかな間に、クリスティーナは彼女に――子どもたちに囲まれる彼女に注がれる彼の眼差しの中にあるものを、見てしまった。


 それは、渇望。

 思慕。

 憧憬。


 とにかく、彼は何かに焦がれ、何かを求めていた。


 けれど。


(それは、何?)


 マクシミリアンは、いつからそこにいたのだろう。何を思いながら、この光景を眺めていたのだろう。

 淡々と心を隠す今の彼の眼差しからは、それを読み取ることができない。


 頭の中にいくつも疑問が渦巻くクリスティーナの手が、そっと握られた。

 ハッとそちらに目を向けると、アデールが見上げている。


「ねえ、次、いつ?」

「え、あ、それは……」

 マクシミリアンに確認しないと、答えられない。

 もう一度戸口の方に目を戻すと、彼はもういなかった。


(どこへ――)


 クリスティーナは眉をひそめたけれど、取り敢えず答えを待つアデールに向き直る。

「マクシミリアンさまにお訊きしないと決められないけれど、またすぐに来たいわ」

「クリスティーナもあたしに会いたいの?」

「ええ、もちろん」

 クリスティーナが深く頷いた途端、パッとアデールの顔が満面の笑みに輝いた。

「絶対ね。絶対、来てね」


 仔猫が絡みつくように、何度も何度も懇願する。

 懸命なその眼差しからは、アデールが心の底からそう願っていることがひしひしと伝わってきた。


 以前にモニクが言ったとおりだ。

 求められることは、嬉しい。

 何をしてでも、応えてあげたくなる。


「約束するわ」

 答えて、クリスティーナはもう一度アデールの頬にキスをした。くすぐったそうにクスクス笑う少女に微笑み、そうして、立ち上がる。


「じゃあ、今日はおしまい。またね」

 歩き出したクリスティーナに子どもたちが付いて来ようとしたけれど、彼女はそれを制した。一人で、マクシミリアンに会いたかったからだ。さっきの彼の眼差しが、頭に焼き付いていたから。


 講堂を出たクリスティーナは、マクシミリアンの姿を探した。


 不慣れな建物の中をひとしきりうろうろと彷徨って、彼女は廊下に佇むマクシミリアンを見つける。彼はクリスティーナに背を向けて、窓から中庭を眺めていた。

 その背中はいつものように真っ直ぐに伸びて堂々としているけれど、何故かそれを見ているとクリスティーナの胸が締め付けられる。廊下のこちらに立つ彼女との距離はそれほど離れていないはずなのに、どうしても越えられない、峡谷ほどもある溝があるように思えてならなかった。


 脚を踏み出せずに立ちすくむクリスティーナの背中が、不意に、ポンと叩かれる。


「!」

 息を呑んで振り返った彼女が見たのは、ひとりの少年だった。

 ドキドキと高鳴る胸を押さえて彼を見つめるクリスティーナに、少年が首をかしげる。彼のその顔には見覚えがあるけれど、どこで会ったのか思い出せない。


「あなた、は……?」

「あ、覚えてないか」

 そう答えるということは、やっぱり面識があるということだ。

「オレ、シリル。ほら、サン・ブニュで」

 その地名で、パッと彼女の頭に記憶がよみがえった。

「あの時の」

 大男に暴力を受けていた少年だ。よく見れば、頬骨の辺りにごくごく薄く、黄色い痣が残っている。


「もう大丈夫なの?」

「ばっちり。全然平気」

 にっこり笑った彼は、確かに万全に見えた。

「あの、どうして……」

「ここにって?」

 後を引き継いだシリルに、クリスティーナは頷く。サン・ブニュにいるはずの彼に対して、当然抱く疑問ではなかろうか。

 シリルは屈託なくにっこりと笑った。


「ストレイフの旦那が連れてきてくれたんだ。あそこにいたらまた同じことになるだろうってさ」

「まあ」

 確かに、その通りだ。思い至らなかったクリスティーナの方が鈍いのだろう。

「べっつに慣れてるからいいのにさぁ」

 そう言いながらも、彼は嬉しそうだ。暴力から逃れられたからというよりも、気にかけてもらえたのが嬉しかったのではないかと、クリスティーナはなんとなく思った。


「でも、どうしてあんなに酷いことをされていたの? あの人は、お父さま?」

 彼女の台詞に、シリルはきょとんとした。次いで、噴き出す。

「親父? まさか! 客だよ、客!」

「お客さま?」

 シリルはまだ十歳かそこらに見えるけれども、何の仕事をしているのだろう。

 首を傾げたクリスティーナに、少年がにやりと笑う。


「まったくさ、三人相手にしてきたとこだってのにやらせろって言うからさぁ。身体もたないっての」

「『やる』?」

 何を?

「そ。オレ、客取るのは一日三人までって決めてたんだよね」

 益々もって、判らない。

「それはどういうお仕事――」

 眉をひそめてクリスティーナがさらに問おうとした、その時。


「ティナ」


 背後から名を呼ばれて、彼女は振り返る。クリスティーナとシリルの声に気付いたのか、いつの間にかマクシミリアンがすぐ近くに立っていた。


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