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彼の提案③

「仲睦まじい夫婦の姿とはかくあるべしというのを子どもたちに示していただくというのも非常に有意義なことですが、今日の御用はそれではないのでは?」


 ビクンと肩を跳ねさせクリスティーナが振り返ると、そこに立っていたのは初老の男性だった。


 中肉中背で、白髪。年は六十をいくつか越えていそう。

 丸メガネの奥の目は銀色で、一見冷たそうだけれどもよく見るとそこには温かな笑みが宿っている。


「ああ、ティナ。彼がここの院長のギョーム・コルノー氏だよ。ギョーム、彼女が妻のクリスティーナだ」

 互いを紹介しながらマクシミリアンがクリスティーナの背に手を添え、その男性に向き直るように促した。


「初めまして、ストレイフ夫人。ようやくお目見えできましたな」

 ギョームは生真面目そうな顔をしかめるようにして微笑むと、彼女に右手を差し出した。

 きっと挨拶のキスをされるのだろうとクリスティーナがその手を取ると、彼はギュッとそれを握り締めた。まるで対等な相手にするような力強い握手だ。力強く、そして、温かい。


 ギョームはクリスティーナの目を覗き込むようにジッと見つめ、それから手を放す。


「で、ストレイフさんからは貴女がうちの子にピアノを教えてくださるのだと伺いましたが?」


 握手にも真っ直ぐに切り込むように見つめられるのにも慣れていないクリスティーナは、彼にそう問われて我に返る。


「あ、はい。わたくしでは力不足かもしれませんが……」

「いえいえ、とんでもない。私はそちらの方面にはてんで不調法なもので、子どもに望むものを与えてやれないのですよ。音楽教師を雇うのはとても金がかかりますしね。ストレイフさんからはたっぷり寄付をいただいていますが、一人を贔屓するわけにもいかないので」

 彼の言葉は率直だ。

「ストレイフさんが、奥様はとてもピアノがお上手だと自慢なさるのでね、だったら是非ともお願いしたいと思った次第です」


「マクシミリアンさま……」

 あんまり持ち上げられたら、実物を見てがっかりされてしまう。

 クリスティーナが夫を睨むと、彼は澄ました顔を返してきた。

「ピアノをやりたいと言っているのはアデールという六歳の女の子なんだ。少し引っ込み思案だけどね、貴女ならうまくあの子の力を伸ばしてあげられる」

 地上に下してもらえるかと思ったら、更に持ち上げられてしまった。

 過剰な期待に応えられるだけの自信がクリスティーナにはない。


(ちゃんと教えられなかったら、どうしよう)

 今さらながら不安になってマクシミリアンを見上げると、彼はポンとクリスティーナの背中を叩いて微笑んだ。


「大丈夫。貴女は楽しめばいいだけだ。アデールには、何よりもまず、楽器を奏でることの楽しさを味わって欲しいから。そのついでに、ちょっと弾き方を教えてあげたらいいよ」

「そんな、適当なことを――」

「気負い過ぎないで、ティナ。貴女ならやれるよ」

 クリスティーナの不安を軽くいなして、マクシミリアンはヒョイと身体を屈めると彼女の頬に宥める為のキスをした。続いて励ましと信頼の笑みを与えられれば、クリスティーナも、おずおずではあるけれど、釣られて微笑みを返してしまう。

「ほら、その笑顔があれば完璧だ」

 そう言って、彼の方こそ人の心を融かしてしまう笑顔になる。


「……私がここに居ることを、覚えていますか?」

 若干憮然とした声が笑顔を交わし合う二人の間に割って入った。


 マクシミリアンの笑顔が少しわざとらしいようなものになって、声の主であるギョームに向けられる。

「ああ、これは失礼。すっかり忘れていました。ティナといると、どうしても他のことは頭から薄れてしまってね」

「そのようですね。だから、なかなかここへお連れにならなかったのでは?」

「当たらずとも遠からず、だよ」

 悪びれもせずにそう答えたマクシミリアンに、ギョームがやれやれと小さくかぶりを振った。そうして、クリスティーナにまた目を向ける。


「では、役に立たない旦那さんは放っておいて、本筋に戻るとしましょうか。アデールはピアノが置いてある講堂で待っていますから」

 そう言うと、彼は踵を返して歩き出した。


 マクシミリアンはクリスティーナに向かってクルリと目を回して見せると、彼女の背に手を添えギョームの後を追う。


 孤児院の中は古びているけれども掃除は行き届いていて清潔だ。そこかしこに、何度も修繕を繰り返した跡があった。


 途中、幾度か子どもたちとすれ違う。

 見た限りでは、三歳ほどから十歳をいくつか過ぎたくらいの子までで、年齢がバラバラな数人のまとまりで活動しているようだった。大きな子が小さな子の面倒を見ているらしい。


 また今通り過ぎて行った子どもたちを見送りながら、クリスティーナは首をかしげる。

「ここには何人くらいの子どもたちがいるのですか?」

「赤子から十三歳までが三十二人だ。十四歳の誕生日を迎えたら、ここを出て働きに出る。ほとんどは、私のところで雇うことになるかな」

「どんなお仕事があるのですか?」

「色々だなぁ。私がやっているのは運輸とホテル経営が主だけど、そこから派生する仕事は様々だから、大体皆、適した職種に就けていると思うよ。ラルスとル・アールとサン・ブニュのそれぞれ五つの孤児院を支援していてね、数年前からぼちぼち軌道に乗り始めている」


 つまり、もう何人もの子どもたちを支え、送り出してきたということだ。しかも、ただお金を出すだけでなく、こうやって足を運び、実際に彼らのことを見ながら。


 クリスティーナは称賛と懸念の混じる眼差しで隣を歩くマクシミリアンを見上げる。


 大人の従業員だけでなく、子どもたちのことまで。

(この方は、いったいどれほどの人の人生を背負っているの?)


 たくさんの子どもたちを救うことはとても素晴らしいことだけれども、それは、一人の肩には過ぎる重責ではないのだろうか。


(たくさんの人を支えるマクシミリアンさまのことを支えてくれる人は、いるの?)


 マクシミリアンの傍には、アルマンが控えている。

 でも、裏を返せば彼くらいしか見たことがないし、アルマンは常に一歩下がっている感じだ。クリスティーナは、マクシミリアンの隣に立って、彼と対等の立場で支える人にいて欲しかった。


 あるいは、クリスティーナが知らない誰かが、他にたくさんいるのかもしれない。

 それならそれでいいと思った。

 誰でもいいから、クリスティーナは蚊帳の外に置かれていてもいいから、マクシミリアンの傍に誰かがいてくれるのならば、それでいい。


 クリスティーナは願い、そしてこっそり唇を噛む。


 でも、きっと、そんな人はいない。

 きっと、マクシミリアンは独りで立つ人だ――常に、どんな時でも。


 あの、夜。

 あの夜のように悪夢にうなされる彼のことを知っている人も、多分、いないのだろう。

 胸の中に巣食う闇も彼は独りで奥深くに抱え込み、決して誰にも見せようとはしない。

 確かに誰にでも笑顔を向けるけれども、誰一人としてその内側には立ち入れさせないのだと思う。クリスティーナにそうしているように、柔らかな笑みで拒むのだろう。

 皆に灯を与えながら、自分はその恩恵を得ようとはしない。


 不意に、暗い中でポツリと佇む彼の姿が脳裏に浮かんで、クリスティーナの胸が重苦しく痛んだ。無性に、もやもやする。


 そんなマクシミリアンでいて欲しくない。

 彼には、光と温もりが似合うと思うのに。


 ――あんなふうに夢に追われて縋りついてくるマクシミリアンの姿を目の当たりにしていなければ、クリスティーナは今でも彼が光に満ちた人だと信じていただろう。けれど、今は、その光の奥にある闇が見えてしまった。


 クリスティーナは、マクシミリアンの腕にかけた手に力を込める。その力は、彼の気を引くのに充分な強さになってしまったらしい。


「どうかした?」

 見下ろしてきた彼に、クリスティーナはこの胸にあるものを打ち明けたかった。

 けれど、それを告げて彼が心の内を露わにするとは思えない。むしろ、その心を覆う鎧を厚くしてしまうところを想像できてしまう。


 だからクリスティーナは微笑んだ。


「少し、つまずいてしまって」

 彼はその言葉を信じたのか、彼女に向けて笑みを返してくる。

「大丈夫? 足を捻らなかった?」

「大丈夫です」


 マクシミリアンの気遣いの言葉に、何故か不意に泣きたくなった。


 いや、違う。


 もっとひりつくようなこの感じは、もどかしいというか、苛立たしいというか。


 自分にどんな表情が浮かんでいるか判らなくて、クリスティーナは足元を見る振りをして顔を伏せる。

 彼女のその態度の不自然さに気付いていないはずがないのに、マクシミリアンからはそれ以上何か声をかけてくることはなかった。二人とも、ただ黙って前を行くギョームに続く。


 それから間もなくして講堂に着いた時、クリスティーナは、マクシミリアンと距離を置けることにほんの少しだけホッとした。


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