彼の提案②
クリスティーナがピアノを教えることになった子どもが身を寄せている孤児院へ向かう馬車の中で、マクシミリアンが彼の慈善事業について話してくれた。
彼は、ここラルスの他、ル・アール、サン・ブニュでも孤児院を支援しているらしい。
「グランスでは貴族が半ば義務のように慈善事業に精を出しているからそうでもないのだけれど、フランジナでは貴族は下々の者には全く無関心だからね。孤児や寄る辺のない女性、働けないほど病んだ人たちは、かなり厳しい状況に置かれているんだよ。税金もグランスに比べて高いからね、私たちのような商売人も、よほど儲かっていないとなかなかそちらに金は回せない」
つまり、複数に援助しているマクシミリアンは『よほど儲かっている』人なのだろう。
「私は、ただ衣食住の世話をするだけではなく、手に職も付けさせたいんだ。ある程度の年齢になったらそれなりの仕事に就けるようにね。望むなら、学校にも通わせる。私は、知識に勝る力はないと思うんだ」
彼は淡々と語っているけれども、それはとても大きな、素晴らしいことではないかとクリスティーナは思う。
ヴィヴィエ家もかなり裕福だったと思うのに、コデルロスからこういった話が出ることは全くなかった。もしかしたら彼女には知らされていなかっただけかもしれないけれど、きっとそうではないだろう。
コデルロスは自分以外の人には関心を抱けない人なのではないかと、マクシミリアンと日々過ごすうち、クリスティーナは思うようになった。
マクシミリアンと出会ったころ、この男性と父とは、よく似ているのだと思っていたのだ。父は冷然とした態度で、マクシミリアンは愛想の良い笑顔で、人を拒んでいるのだと。
けれど、マクシミリアンのことを知れば知るほど二人の違いに気付かされる。
確かに、マクシミリアンは笑顔で人との間に壁を作っていると感じる。クリスティーナに対してもその壁は存在する。彼女が近付こうとすれば、彼は笑顔でするりと身をかわすのだ。けれど、だからと言って、彼が人を拒絶しているわけではないのだということが判ってきた。
彼の壁は、ただ、身を――心を守ろうとしているだけ。
壁の外にあるものを、どうでもいいと思っているわけではない。
この孤児院のことだってその証だと思う。
他人を軽んじているならば、こんなふうに手は差し伸べない。
クリスティーナが今まで知る中で、こんなふうに惜しみなく人に心を割く人はいなかった。
感嘆の眼差しを注ぐしかできないクリスティーナに、マクシミリアンが首をかしげるようにして目を向ける。
「ティナ?」
呼ばれて、彼女はハッと我に返った。
「あ、いえ、とても、素晴らしいです」
力を込めてそう言うと、マクシミリアンは小さく肩をすくめた。
「そうたいしたことではないよ。全ての人に手を伸ばせるわけでもないしね」
自らの行為を軽く流そうとする彼に、クリスティーナはそれが決して些細なことではないのだということを力説する。
「でも、何もしないよりも遥かにいいです。その助けで救われる人が必ずいるのですから。その人がまた誰かを助けてくださったら、どんどん輪が広がっていきませんか? 一人が別の一人を助けたら、二人になるでしょう? その二人がまた別の人を助けたら、今度は四人になります」
クリスティーナの言葉に、彼は幾度か目をしばたたかせた。
「……そういうふうに考えたことはなかったな」
そうして、にっこりと笑う。
「貴女は、自分自身のことについては後ろ向きなのに、こういうところは前向きなんだな」
「そうでしょうか」
「そうだよ。できたら、貴女自身についても前向き方向で考えてもらえるといいのだけれどね」
自分自身についても前向きにとは、どういうふうにしたらいいのだろう。
首をかしげながらも、クリスティーナは頷いた。
「……努力します」
マクシミリアンはそんな彼女に手を伸ばし、指先で頬に触れる。それはほんの一瞬のことで、クリスティーナが一回呼吸するほどの間もなく彼はすぐに手を下ろしてしまったけれども、その温もりは消えずに残った。
無意識のうちに、クリスティーナはその場所に手を当てる。
そうすると、彼の温もりをそこに留めておけるような気がして。
クリスティーナは目を伏せてしまったから、そんなふうにしている彼女のことを、マクシミリアンがジッと見つめていることには気付かなかった。その眼差しに浮かんでいる、ほとんど憧憬と呼んでも良いような輝きにも。
それからは、ほとんど会話らしい会話もなく、それぞれ物思いにふける二人を乗せて馬車は進む。
目的地の孤児院に着くまでは、それから四半刻もかからなかった。
「ほら、見えてきたよ。あれだ」
声をかけられて、クリスティーナは自分が黙りこくっていたことに気付く。
失礼なことをしてしまったと申し訳なく思ったけれど、彼女が謝罪の言葉を口にする前に馬車は小さな門をくぐり質素な建物の玄関前に停まった。門から玄関まではあっという間だったということは、前庭はあまり広くないということなのだろう。
馬が脚を止めてしばらくすると外から扉が開き、先に降りたマクシミリアンがクリスティーナに手を差し伸べる。
「じゃあ、院長を探しに行こうか」
「はい」
クリスティーナは彼の手を取り、頷いた。マクシミリアンはそんな彼女を丁寧に馬車から降ろし、続ける。
「あの人は部屋にジッとしていてくれなくてね。子どもたちの相手でいつもうろうろしているんだ」
いったい、どんな人なのだろう。
クリスティーナは少しドキドキしながら想像する。
優しそうな女性だろうか。
少し怖い顔をした男性だろうか。
マクシミリアンの親しい人にはできるだけ良い印象を与えたいけれど、自信がない。
と、つないだ手からその不安が伝わったかのように、マクシミリアンが微笑んだ。
「大丈夫だよ、そんなに心配しなくても」
「え?」
「ティナのことを知って、嫌いになる人なんていないから」
そうは思えなかったけれども、励ましてくれる彼にクリスティーナは小さく微笑んだ。
マクシミリアンは彼女が彼の言葉を信じていないことを察して小さく肩をすくめる。それ以上は取り合う気がないのか、クリスティーナの手を自分の腕にかけさせると、歩き出した。
「院長は教育熱心な人でね。会いに来るたびにあれやこれやと要求を突き付けてくるんだ」
困ったふうな口ぶりで言うマクシミリアンの顔は笑っていて、院長がそんな人であることをむしろ喜んでいるのだということが伝わってくる。
「良い方のようですね」
「ティナも、ぼんやりしていたら次から次へと色々押し付けられてしまうかもしれないよ?」
「構いません」
それで孤児院の――ひいてはマクシミリアンの役に立てるなら、一日中役割を任せられても構わない。むしろ望むところだ。
気合の入ったクリスティーナの返事に、彼は器用に片方だけ眉を持ち上げた。
「あんまり熱心になり過ぎないように。私との時間も残しておいて欲しいからね」
「それは……はい」
確かに、ただでさえ少ないマクシミリアンとの時間がさらに減ってしまうのは、困る。
肩を落としたクリスティーナの耳に、クスクスと笑い声が届いた。
「冗談だよ。ティナのしたいようにしたらいい。そうしたいなら、一日中ここに入り浸っても構わないよ。私の方が時間を作ってここまで会いに来るから。夜、ちゃんと私のところに帰ってきてくれさえしたら、それでいい」
「……そんなふうにわたくしを甘やかさないでください」
「これで甘やかしているって?」
「はい」
至極真剣な顔でクリスティーナが頷けば、マクシミリアンは残念そうにかぶりを振った。
「私としては、まだまだ足りないけれどね」
「わたくしには、充分です」
むしろ、クリスティーナの方にこそ、彼の為に何かさせて欲しいくらいだというのに。
むう、と彼女が唇を尖らせたその時、背後から呆れたような声がかけられた。