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彼の提案①

 今クリスティーナが奏でているのは、彼女が習得したものの中で一番難易度の高い曲だ。楽しむためというよりも運指の練習として弾いているようなもので、間違いのないように、ただそれだけを意識する。


 目を閉じた彼女に届くのは、自らの指が放つ旋律だけ。

 音階も抑揚も模範的に。

 情感よりも技巧に集中する。

 鍵盤の上を滑るように指は動き、最後の一音まで完璧に弾きこなしたクリスティーナは、達成感に息をついた。


 とたん、広間に響き渡る拍手の音。

 パッと振り返ると、そこにはマクシミリアンが立っていた。


「すごいね、見事だ」

「マクシミリアンさま。いつからそこに」


 慌てて立ち上がったクリスティーナに歩み寄ったマクシミリアンは、首を傾けて彼女の頬に触れるだけのキスをする。


「残念ながら、ついさっきからだよ。最初から聴きたかったな」

「でしたら、何かお弾きしましょうか?」

 喜び勇んでクリスティーナがそう訊ねると、マクシミリアンは柔らかく微笑んだ。

「じゃあ、いつものあれがいいな」

 彼が言うのは、ピアノが届いた日に弾いてみせた素朴な子守歌だ。クリスティーナが一番好きな曲を彼も好きだと言ってくれることに、ふわりと胸が温かくなる。


「わかりました」

 頷いてまた椅子に座り、今度は思いを込めて鍵盤を弾いていく。


 広間中に響き渡る、温かく優しい音色。

 ピアノは同じなのに、弾くときの気持ち次第で全く違う音になるのが不思議だ。

 すぐそばに立つマクシミリアンが一心に耳を傾けてくれるから、クリスティーナの指にはいっそう熱が入った。多分、同じピアノで同じ曲を選んでも、他の人が相手ではこんなふうには弾けないに違いない。


 ――サン・ブニュから戻って二週間ほどが経つけれど、マクシミリアンの態度は以前と全く変わらないように見える。あの夜のマクシミリアンの取り乱しようはクリスティーナの夢だったのではないかと思うほどに、彼は『普通』だ。

 屋敷に戻ってからも彼が悪夢にうなされることはなく、クリスティーナの眠りが妨げられることもない。

 クリスティーナはマクシミリアンの前に立つたびにそっとその目を覗いてみるけれど、彼の暗緑色の瞳の中には、陰の欠片も見つからなかった。


 今も、そうだ。

 絶えぬ微笑みも静かな眼差しも穏やかなもので。

 クリスティーナは胸の辺りに微かなしこりのようなものを抱きつつ、それを奥へと押し込んでマクシミリアンに向き合うのだ。

 一抹の寂しさが、彼女が奏でる曲に深みを加える。

 多分それは、その寂しさがマクシミリアンのことを想って生まれるものだからなのだろう。


 最後の一音の余韻が消え、クリスティーナはそっと手を下ろした。


 少し間を置き、マクシミリアンが指先で鍵盤を撫でる。


「ティナの演奏は本当に素晴らしいよ。私一人で聴いているのがもったいないくらいだ。ああ、でも、他の男に聴かせるのも癪に障るかな」

 にっこりとそう言ったマクシミリアンに、クリスティーナははにかんだ笑みを返す。

「たくさんの方の為よりも、本当に聴いていただきたい方の為に弾く方が、楽しいです」

「それは、私のことかな?」

 問い返されて、自分の言葉が予想外に大胆なものであったことに気付きクリスティーナは頬を赤らめる。


「え、あ……はい」

 口ごもった末に頷いた彼女に、マクシミリアンがクスクスと笑った。

「それは光栄だ。できたら他の誰にも聴かせたくないものだけど、どうかな、貴女に一つお願いしたいことがあるんだ」

「何でしょう?」

 客をもてなす席での演奏でもさせたいのだろうか。

 首をかしげてマクシミリアンを見上げると、彼はクリスティーナを立ち上がらせてソファへといざなった。


「貴女に、ピアノを教えてもらえないかと思って」

「マクシミリアンさまが弾かれるのですか?」

 それは、楽しみだ。

 弾む声で訊ねたクリスティーナに、マクシミリアンは一瞬目を丸くし、苦笑する。

「ああ、いや、そうではなくてね。私が援助している孤児院があるのだけれどもね、そこに一人、音楽の才能が有りそうな子がいるんだ」

「まあ。それは素敵ですね。わたくしがお力になれるなら、ぜひ、やらせていただきたいです」

 目を輝かせてそう答えると、マクシミリアンが目元をほころばせた。

「そう言ってくれると思っていたよ」

「わたくしも楽しみです」


 それは、心の底からの言葉だった。

 マクシミリアンの役に立てるのも嬉しいし、子どもにピアノを教えるという行為そのものも、やってみたい。

 作ったものではない自然な笑みが、クリスティーナの顔に浮かぶ。

 と、彼女のその笑顔と入れ違いに、マクシミリアンの顔からは微笑みが掻き消えた。


 彼は、ジッと、彼女を呑み込んでしまいそうな眼差しで、クリスティーナを見つめてくる。

 急に、空気の密度が増したような気がした。なんだか息苦しくて、彼女は息を詰める。

 互いの視線を絡ませたままマクシミリアンの手が上がり、クリスティーナの頬に近付いた。

 その指先が、彼女の肌に触れそうになった、その瞬間。

 まるでクリスティーナの体温で火傷でもしそうになったかのように、マクシミリアンがパッと手を引いた。


 彼は瞬きを一つしたかと思うと、唐突に立ち上がる。

 あまりに急な動きでマクシミリアン自身もその不自然さに気付いたのか、彼は小さく咳払いをした。次いで浮かんだ微笑みは、どこか取り繕うような色を帯びていて。


「ああ、すまないね。まだ仕事が残っているんだ。じゃあ、孤児院には明日にでも行ってみようか」

 一方的な口調でそう告げて、彼が一歩後ずさる。

「じゃあ、夕食の席で。ピアノの邪魔をして悪かったね」


 クリスティーナが声をかけるのを拒否するように会話を打ち切る言葉を口にして、マクシミリアンはくるりと向きを変えると足早に広間を出て行ってしまった。

 本当に、クリスティーナが口を開く隙を一瞬たりとも与えずに。


 閉ざされた扉を見つめて、クリスティーナは小さく息をついた。


 あの旅から帰ってきて、やっぱり、一つ、変わったところがあるかもしれない。

 それは、以前にも増して、マクシミリアンが彼女に触れなくなったことだ。

 全然接触がないというわけではない。婚約していたころから結婚した今でも、マクシミリアンは、しばしばクリスティーナに触れる。

 けれどそれは、あくまでも礼儀的なものに限られていた。

 挨拶のために頬や手にキスをしたり、エスコートの為に肩や腰を抱いたり。

 今までも、時々、ついうっかり触れ方が深くなってしまったとき、彼はいつもクリスティーナに謝罪した。紳士が淑女に馴れ馴れしくし過ぎてしまったときのように。

 夫婦なのだから構わないのではないだろうかと思うようなこと――例えば、親密なキスなどでも、マクシミリアンはしてはいけないことだったかのように、申し訳なさそうにする。


(夫と妻というのは、そんなによそよそしい関係なの?)


 身近にその関係がなかったクリスティーナには、判断ができない。確かに、父のコデルロスのお供で出ていたパーティーで見かける夫婦も、互いよりも他の異性との方が親し気にしていることが多かったような気はするけれど。

 妻と同伴で来ている男性もよくクリスティーナにベタベタと触れてきて、そんな夫の様子を目にした妻の方も何も気にしていないようだった。


(わたくしは、マクシミリアンさま以外には触れて欲しくないのに)


 そう思うのは、むしろおかしなことなのだろうか。

 マクシミリアンに『礼儀以上の』触れ方をされると、ドキドキする。

 そしてそのドキドキが不快なものではないことが、最近のクリスティーナには判ってきていた。ドキドキして、もっと触れて欲しいという気持ちが胸の奥からふわりと湧いてくることにも。


 ――けれど、それも、あの旅以降なくなってしまった。


 あの旅から帰ってきて、さっきのように親密な雰囲気になると、マクシミリアンはサッと逃げていってしまうのだ。彼自身取り繕う余裕があまりないようで、普段のさりげなさもなく、唐突に。

 その徹底ぶりは、クリスティーナに触れることを嫌がっているのを通り越して、怯えているというようにすら見えてしまう。


「きっと、あの夜のあの方のご様子と関係があるのだわ」

 クリスティーナは自分自身に聞かせるようにつぶやいた。


 あの時、マクシミリアンの夢の中に現れた何かが、今も彼を苦しめているに違いない。


 その何かから、彼を守りたいと思う。

 あの時のように彼を抱き締めて、彼を苦しめるその何かを溶かしてしまいたいと思う。


 そう、願っても。


 触れることすら拒まれているクリスティーナには、どうすることもできなかった。


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