垣間見えた疵③
何かが聞こえた気がして、クリスティーナはふと目を開けた。
暗い。
マクシミリアンを待って灯りを点けたままにしておいたはずなのに、今、部屋の中は暗かった。彼を待つ間に読んでいた本も手元になくて、しっかりと肩まで上掛けも被っている。
(マクシミリアンさまは……)
ぼんやりと彼のことを思ったとき、クリスティーナを眠りの淵から引き上げた何かが、また聞こえた。彼女はしばし待ってみる。
(あ、また)
呻き声、だ。微かだけれども、苦し気な、呻き声。
クリスティーナは半身を起こし、声が聞こえた方に――いつもマクシミリアンがいる側に、目をやった。
いつの間に帰ってきていたのか、薄闇の中、マクシミリアンの顔がぼんやりと浮かぶ。
初めのうちは気付かなかったけれども、目が慣れてくるうち、彼の表情が穏やかなものではないことが見て取れた。
「触、るな――」
今度ははっきりとマクシミリアンの声だとはっきり覚って、クリスティーナの目が完全に醒める。
「マクシミリアンさま……」
触るなと言われても、指先一つ、届いていない。
戸惑いながら見守るうちに、マクシミリアンの顔が歪む。
(先ほどの言葉は、わたくしに向けたものでは、ないですよね?)
そう自分自身をごまかしつつためらいがちに彼の頬に触れると、そこには玉の汗が浮かんでいた。
起こした方がいいのだろうか。
束の間迷って、クリスティーナはマクシミリアンのがっしりした肩に手を置く。
軽く揺すってみた。
――目蓋は固く閉ざされたまま、ぴくぴくと微かに引き攣っている。
(どうしたら、いいのでしょう)
そっとしておくべきか、もっと強硬に起こすべきか。
次の行動を取りあぐねていると、マクシミリアンの声がひときわ大きくなる。今度は意味のない呻き声ではなく、はっきりとした言葉だ。
「くそ、やめろ!」
初めて耳にするマクシミリアンの口から出た乱暴な罵り声に、クリスティーナは思わずびくりと肩を跳ねさせた。硬直する彼女の前で、まるで何かから逃れようとするかのように、彼が背を反らせる。
「やめろ……やめろやめろ嫌だ、放せよ! 僕に触るな!」
悲鳴のような、甲高い、どこか子どもじみた声。
それは、マクシミリアンではなかった。
少なくとも、クリスティーナがよく知っている、自信に満ちて優雅な、彼ではなかった。
もう、迷う余地がない。
「マクシミリアンさま、起きて」
さっきよりも強く肩を揺さぶると、突然、パッと彼の目蓋が上がった。限界まで見開かれているのにその目は虚ろな深淵のようで、クリスティーナには自分がそこに映っていると思えなかった。
代わりに、溢れるほどに満ちているのは、恐怖と絶望だ。
あるいは、どうしようもないほど、絶望的なまでの、恐怖。
(何をそんなに恐れていらっしゃるの?)
こんな彼は、見たことがない――そう思いかけて、クリスティーナはかぶりを振る。
今日、同じような彼を見た。
男が少年に暴力を振るっていたとき、その様を、彼は同じような目で凝視していた。
「マクシミリアンさま……?」
小さな声で、できるだけ静かに呼びかけながら、クリスティーナは指先で汗に濡れた彼の額から髪をよける。
そうして、頭を下げ、そこにそっとキスを落とした。
額の次は、目蓋、こめかみ、頬、唇。
彼の中の恐怖を消し去りたくて、彼に安らぎを取り戻して欲しくて、何度も何度も口付ける。キスをするたび、彼女の胸がキュッと締め付けられる。
そうしながら、「大丈夫、大丈夫ですから」と囁いた。
わたくしが、守って差し上げます、と。
実際にクリスティーナがマクシミリアンを守ることなどできやしないかもしれないけれど、打ち震える彼に、そう言わずにはいられなかった。
どれほどそうしていたことだろう。
とうとう触れていない場所がなくなって、クリスティーナは顔を上げた。いつの間にかマクシミリアンの身体の強張りは解け、恐怖に満ちた訴えも、消えている。
マクシミリアンに覆い被さるようにしてその目を覗き込むと、彼はぼうっと彼女を見上げてきた。
惚けたようにクリスティーナを見つめる彼の眼差しは、茫洋とはしているけれども先ほどまでの恐怖や絶望は消え失せていて、彼女は安堵で頬を緩める。
と、不意にマクシミリアンがふわりと微笑み、クリスティーナに手を伸ばしてきた。それは彼女の首に巻き付き、自分の元へと引き寄せる。
ギュウ、と、ほとんどしがみ付くようにして抱き締められた。
次いで、耳に吹き込まれるようにして届けられた、囁き。
「やっと、僕を助けに来てくれたんだ……」
「え?」
思わずクリスティーナが問い返すと、マクシミリアンの腕に力がこもった。溺れる者が、小さな小枝に縋りつこうとするかのように。
「ずっとお願いしてた。天使様、僕を助けてって」
半分眠りの世界にとどまっているからというだけではない、舌足らずな、幼げな声。まるで、今の彼は今日助けた少年ほどの年頃のように感じられる。抱き付き方も、男性が女性に、というよりも、子どもが母親に、という風情だ。
とは言え、仕草は子どもっぽくても力は成人男性のものだから、正直、苦しい。むしろ加減がない分、苦しい。
けれどクリスティーナは、抗うことなく彼にされるがままになっていた。
今の彼はクリスティーナをクリスティーナと認識していないけれども、彼女のことを必要としている。マクシミリアンに――いいや、他の誰にも、これほどまでに強く切実に求められたことは、きっと、今までなかった。
ジッと彼の腕の中にいると、こめかみに触れるマクシミリアンの首筋の脈が、次第に緩やかになっていく。重なる胸から伝わる彼の呼吸もゆったりと落ち着いたものになって、やがてクリスティーナをきつく締め付けていた腕の力も抜け落ちた。
(もう、大丈夫……?)
自分が乗っていては重いだろうと思って起き上がろうとした瞬間、それを引き留めるようにまたギュッとマクシミリアンの腕に力が入った。
彼の顔からあの恐怖が消えていることを確認したかったけれども、仕方がない。
無理に離れようとしたらせっかく穏やかな眠りに入ったマクシミリアンを起こしてしまいそうで、クリスティーナはおずおずと力を抜いて、温かな彼の胸に身を任せる。
眠り易い、とは言い難いけれども、体温と鼓動と緩やかな呼吸の揺らぎは心地良い。
今目にしたものはいったい何を意味していたのだろうと思い悩みながら、いつしか、クリスティーナは微睡の中へと引き込まれていった。
*
目覚めると、クリスティーナはベッドの上に一人きりだった。
ベッドの上に起き上がり、寝ぼけた頭で誰もいない隣を見下ろす。枕に触れてみるともう温もりは欠片もなくて、そこに寝ていたはずの人はずいぶん前に出て言ったのだということを教えてくれた。
「マクシミリアンさま」
名を、呼んでみた。
当然、返事はない。
ほ、とクリスティーナが小さな息をついたその時、控えめにドアを叩く音がする。
「どうぞ」
てっきりメイドだと思って返事をしたクリスティーナは、現れたのがトレイを手にしたマクシミリアンであったことに目を丸くした。
「おはよう」
彼は朗らかに言いながら近寄ってきて、紅茶と朝食がのっているトレイをベッドサイドに置いた。そうしてベッドの脇に椅子を引き寄せてそこに腰を下ろすと、紅茶をカップに注ぎ、クリスティーナに差し出す。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
「貴女の支度が整ったら、出発しようか。ああ、急ぐ必要はないからね。どうせ長旅なのだし、ここで急いでも何が変わるわけじゃないから」
その表情も仕草もすっかりいつも通りで、クリスティーナは昨夜のことは夢だったのかと思ってしまう。
(でも、本当にあったこと、ですよね?)
紅茶を口に運びながら伏し目がちにマクシミリアンを窺うと、彼はにっこりと笑顔を返してきた。
屈託の、欠片もない笑顔を。
(やっぱり、夢……?)
戸惑いつつも、クリスティーナは彼が差し出すトースト、オムレツを機械的にお腹に収めていく。
クリスティーナがさほど時間をかけずに朝食を平らげると、マクシミリアンは立ち上がった。
「じゃあ、メイドを呼ぼうか。ドレスは楽なものにするように言っておいたからね」
そう言って、トレイを持ち上げドアへ向かう。
(あ……)
クリスティーナは昨晩のことを――というよりも、もう彼が大丈夫であることを確認したかったけれども、何をどう尋ねたらよいものか、判らなかった。だから、マクシミリアンを呼び止めようと持ち上げかけた右手を膝の上に戻し、左手で握り締める。
彼がこんなふうにいつも通りの態度で通すなら、きっと、何も覚えていないか触れて欲しくないかのどちらかなのだろう。
マクシミリアンが部屋を出ていこうとするのをクリスティーナが黙って見送っていると、彼はノブに手をかけたところで止まった。身じろぎ一つしない彼の背中をクリスティーナが見守る中、ゆっくりと彼が振り返る。
クリスティーナと目を合わせてから、瞬き一回分ほどの間があって。
「昨晩は、よく眠れたかい?」
「え?」
「その……夜中に私が入っていったとき、起こしてしまわなかったかな?」
夜、クリスティーナが眠っている間に彼がベッドに来るのはいつものことだ。それなのに敢えて訊いてきたのは、ベッドに入ったことで起こしたかどうかではないのではないのだろうか。
クリスティーナは少し迷って、かぶりを振る。
「いいえ」
マクシミリアンはクリスティーナの中を窺うように、微かに目をすがめた。彼女は努めて穏やかな、気持ちを消した眼差しを彼に返す。
「そう」
あからさまではないけれど、クリスティーナの返事に彼が安堵したことが伝わってくる。
夜の間にあったことは、クリスティーナに知られたくない何かなのだ。
マクシミリアンの奥深くには何かとても重く暗いものがあるのに、クリスティーナにはそれを知られたくないのだ。
――それが判って、それを思い知らされて、クリスティーナは上掛けの下でギュッとナイトドレスの裾を握り締めた。
寂しさと、微かな苛立ちめいたものを押し隠し、クリスティーナは微笑む。
「マクシミリアンさまをお待ちしていたのにいつの間にか眠り込んでしまって、朝までぐっすりでした」
「それは、良かった」
いつもと変わらぬ笑顔で彼が頷き、言った。そうして、部屋を出て、扉を閉める。
その『良かった』は、クリスティーナがよく眠れたことに対してなのか、マクシミリアンの悪夢に気付かなかったことに対してなのか。
前者であることを望みつつ、きっと後者なのだろうということが判ってしまって、クリスティーナは大きくため息をついた。