垣間見えた疵②
「じゃあ、そのドレスを着替えておいで」
帰る途中で拾った医者にまずクリスティーナを診察させ、彼女の申告通りにどこにも怪我がないことを確認したマクシミリアンは、ようやく安堵の表情を浮かべてそう言った。
「このままで構いません。その子を――」
「でも、泥だらけだよ? 風呂も用意させてあるから、入ってきなさい」
「ですが――」
汚れよりも、馬車に乗せるなり意識を失ってしまった少年の方が、クリスティーナには気になった。彼から離れようとしない彼女を、マクシミリアンは笑顔で追いやる。
「いいから。ほら、そこ、少し破れているよ?」
首を捻って彼が指さすところに目を向けると、腕の辺りが縦に裂けていて肌が覗いている。かなり上の方まで見えていて、今までそんなところの肌を晒していたのかとクリスティーナは顔を赤くした。
「すぐ、戻ります……」
手でそこを塞ぎながら後ずさり、クリスティーナは彼女とマクシミリアンの為の部屋へと急いだ。
クリスティーナが慌ただしく身なりを整えて彼らのもとに戻った頃には医者はもういなくて、少年は大きなベッドの真ん中に寝かされていた。
医者を見送りに行ったのか、マクシミリアンの姿もない。
クリスティーナはベッドに近寄り、あどけない寝顔を見つめる。痩せた頬にある大きくて濃い痣と擦り傷に、彼女の胸は傷んだ。
こんな小さな子にあんなに大きな大人が暴力を振るうだなんて、信じられなかった。
クリスティーナも父のコデルロスから折檻されたことはあるけれど、しつけ用の鞭で手を叩かれただけだ。それでも苦痛は強かったのに、あんなふうに殴る蹴るをされたら、どれほどの痛みになるのだろう。
街中で見た時には十歳になるかどうかというくらいだと思ったけれど、眠っていると余計に幼く見える。そのため、一層、この子が暴力を受けていたことが、つらく思えた。
クリスティーナは少年の髪に手を伸ばしかけ、やめる。
もしかしたら、髪を撫でるだけでも、痛みを与えてしまうかもしれなかったから。
彼女は胸の前で両手を握り締め、ただ、少年を見つめる。
飢えた仔猫のように痩せこけた子どもが心配で、クリスティーナは昏々と眠っている彼から目を離せない。
そんなふうに少年に気を取られていたから、背後で静かに扉が開き、閉まったことに、彼女は気付かなかった。
「大きな怪我はないようだよ」
不意にかけられた声に、クリスティーナはハッと息を呑む。
いつの間に部屋に入ってきたのか、マクシミリアンが彼女から数歩離れたところに立っている。
こんな時、マクシミリアンはクリスティーナを抱き寄せてくれるのに、何故か彼はそれ以上近寄ってこようとしなかった。どこか、よそよそしさすら、感じる。
そんなマクシミリアンにクリスティーナは微かな違和感を覚えたけれども、続いた彼の言葉でそれはどこかに行ってしまった。
「多分、普段から暴力を受けているのだろう。派手にやられているように見えて、大事な部分はちゃんと庇っていたらしい」
「そんな……」
大きな怪我がないのは良かったけれども、暴力が日常的なものであったと聞かされたらホッとした気分も吹き飛ばされてしまう。
組んだ両手にギュッと力を込めると手の甲に爪が食い込んだけれども、クリスティーナは、その手よりも、胸の方が痛かった。
マクシミリアンは彼女の手にチラリと視線を走らせ、一瞬目元を歪める。
「……サン・ブニュでは、こういう子どもたちは結構いるんだよ。こういう、誰の保護も受けられないような子どもがね。船乗りが行きずりで手を出した女性が、父親のない子どもを生む。彼女たちは一人で育てきれないから、その子どもたちを通りに捨てるんだ」
(捨てる……?)
クリスティーナには、『捨てる』という言葉と『子ども』という言葉が、つなげられない。
「でも、それでは子どもたちはどうやって生きていくのですか?」
目の前で眠っている少年だって、どう見ても、独りで生きていける年齢ではない。
信じられない思いでクリスティーナがマクシミリアンに縋るような眼差しを向けると、彼はそれを避けるように、少年に目を移した。
「それは……残飯を漁ったり、盗みを働いたり、――色々だ。糧を得るための手段は、何かしらある」
「ざん、ぱん……?」
クリスティーナは驚きで目を見開いた。
愕然としてそれ以上言葉のない彼女に、マクシミリアンの目が陰る。
「やっぱり、貴女は屋敷に置いてきた方が良かったな。悪かったね、私のわがままでこんなところに連れてきて――こんな不快な目に遭わせてしまって」
沈んだ声でそう言われ、クリスティーナはパッと床に下がってしまっていた目を彼に向ける。
「そんな!」
視線を合わせたマクシミリアンの暗緑色の目は、光を呑み込み切ってしまったかのように、暗い。それはまるで月のない闇夜のようで、見たことのないその眼差しに、クリスティーナは束の間声を失う。
彼女は一瞬とは言え怯んでしまった自分を叱り付け、マクシミリアンと真っ直ぐに目を合わせた。
「むしろ、連れてきていただいて、良かったと思います」
「ティナ」
「マクシミリアンさまもおっしゃったでしょう? 色々なことを知るべきだ、と。わたくしは、幼い子どもがこんなふうに扱われているだなんて、想像すらしたことがありませんでした」
「普通、貴族の令嬢はそうだよ。フランジナの淑女は、雲の上に生きているんだ。地上のことなんて、知りやしないよ。貴女だけじゃない」
マクシミリアンは淡々とした声で言い、そして、肩をすくめる。
「それに、もし万が一さっきのような光景が視界に入ったとしても、見なかったことにするだろうね。だから、貴女だけがこんなことを知る必要は、ないんだ」
否定しようとして、クリスティーナの舌は固まった。
脳裏に走るのは、華々しいパーティーで、軽やかに笑う人々の姿。
互いのドレスを褒め、供されるものを飲み、食べる彼らは、自分たちの快適な生活を支えてくれる者のことなど、目に入れない。多分、存在しているとも、思っていない。
ましてや、彼らが降り立つこともないような路上で、彼らとは全く関わりのない人々の身に起きていることなど、服に付いた埃ほどにも気に留めないだろう。
あの人たちが目や耳に入れるのは、自分たちを楽しませてくれるもの、ただそれだけだ。
彼らのことを庇う言葉など見つけられず、クリスティーナは唇を噛んだ。
そんな彼女に、マクシミリアンが浅く嗤う。
「フランジナでは、ヒトには二種類あるんだよ」
「人は人ではないのですか?」
マクシミリアンの眼差しが、不意に、遠くなった。クリスティーナは、彼の住む世界から自分が消え失せてしまったような錯覚を覚える。心細さに駆られて彼の腕に伸ばしかけた手を、キュッと握り締めた。
触れても、気付いてすらもらえないような気がして。
彼女の仕草には全く気付いていない様子で、彼が続ける。
「金を持つ者と持たない者とは、全く別の存在なんだ。富を持つ者は光の中を歩けるが、持たざる者は、フランジナという国の底を這い回る虫のようなものでね、二本足で立ち上がることすら難しい」
そう言ったマクシミリアンの目は、まるで彼自身がその底を眺めているかのように、虚ろだった。
(でも、マクシミリアンさまは、まさに光の只中を歩いていらっしゃる方なのに)
戸惑い、目をしばたたかせたクリスティーナに、マクシミリアンの目の焦点が合った。刹那、フッと彼のその目に光が戻る。
「変な話をしてしまったね。こんなことは、貴女が知らなくてもいいことなのに」
苦笑混じりの言葉に、クリスティーナはトンと胸を押されて遠ざけられたような気がした。思わず彼女が一歩マクシミリアンに近寄ると、同じだけ、彼が後ずさる。
そんなふうにされたのは――彼の方から距離を置かれたのは、多分、夫婦となってから初めてのことだ。
マクシミリアン自身もそれが無意識での行為だったのか、硬直したクリスティーナから、彼は気まずげに目を逸らす。
「……私は少し医師と話をして、その後、少し出かけてくるから。明日の朝は早いし、ティナは先に休んでいていいよ。夕食は一人になってしまうけれど……」
優しく気遣う台詞で、マクシミリアンはクリスティーナにそうすることを命じていた。
彼の行動だけでなく言葉からも拒絶の意思を感じて、クリスティーナはこっそりと唇を噛み締める。
貴方と一緒に、いたい。
貴方の見るものを、見たい。
貴方を苦しめているものを、分けて欲しい。
そう訴えたかったけれども、自分と、今のマクシミリアンの間には、見えない壁が立ち塞がっているように感じられて。
この手も、この声も、今の彼には届かない――届かないことを思い知るのが、怖い。
「――では、先に休ませていただきます」
そう答えて微笑むと、彼女のそれが無理に作ったものだと察している筈なのに、マクシミリアンは笑顔を返してきた。
「悪いね。ゆっくり休んで」
マクシミリアンはほんの一瞬――それまでの遣り取りがなければそうとは気付かせないほど微かに――ためらう素振りを見せ、クリスティーナとの距離を詰める。
「おやすみ」
囁いて、彼女の頬にかすめるようなキスを落とした。