命じられた結婚①
「マクシリミアン・ストレイフという男の所へ行け」
それは朝食の席で、父コデルロスから突然突き付けられた言葉だった。
クリスティーナはナイフとフォークを持つ手をピタリと止める。父へと目を向けたけれども、彼はいつものようにテーブルの上に広げた書類を読みふけっていて視線は合わない。
「すとれいふ、さま……?」
ぎこちなく繰り返したそれは、初めて耳にする名前だ。
もっと説明を聞きたくて一心にコデルロスを見つめるクリスティーナだったが、やはり彼は顔を伏せたままで頷く。
「ああ。今日の昼に来るから用意しておけよ」
「あの、その方はどんな方なのですか?」
父が口にした『行け』という言葉と『来る』という言葉が矛盾していると感じつつも、クリスティーナはそう尋ねる。矛盾の部分を突けば、返ってくるのは怒号だと判っているから。
「ストレイフは投資家で実業家だ。たいそうな金を持っている」
コデルロスからの返事は、それだけだ。もうそれ以上応じるつもりはないのだということが、身にまとう空気から伝わってくる。
もう少しだけ父を見つめて、クリスティーナはそっと小さく息をついた。
つまり、マクシミリアン・ストレイフという男性は父の仕事相手で、これから何か取引をすることになっているのだろう。その交渉を有利に進める為に気分良く過ごさせろ、ということだ。
父の言いつけを拒否することはできない。コデルロスがクリスティーナに向けて投げるのは常に『命令』のみであって、決して『依頼』であることはないのだから。
だから、「しろ」と言われれば「はい」と答えるのみ。
それしか答えはないのだけれども、クリスティーナは、気が重い、と思ってしまう――そんなふうに思ってしまってはいけないのに。
コデルロスの命令が絶対であることは、拒めば彼の叱責を受けるからというのもあるけれど、それ以上に、クリスティーナはそうしなければいけないからだった。
(だって、わたくしは、生まれたその時から罪を背負っているのですもの)
クリスティーナは、そっと父を窺った。
彼は黙々と食事を口に運び、彼女へはちらりとも目をよこさない。コデルロスが娘を視界に入れるのも声をかけるのも、何か彼女に命じる用件がある時だけだった。
――いや、その時ですら、一瞥もよこさないことも多々ある。
それがいつものことでも、彼女の胸はそのたびに小さな痛みを訴える。
(仕方、ないのだけれども)
クリスティーナの母エリーゼは、彼女をこの世に産み落した時に亡くなった。母の命と引き換えに、彼女はこの世に生を受けたのだ。
そうして、母が亡くなってもう二十年近くにもなるのに、コデルロスは再婚しようとしない。
(それだけ、お父さまはお母さまのことを愛していらっしゃる。今でも想っていらっしゃるのだわ)
クリスティーナは、父の整った、けれども決して彼女に向けた笑みは浮かべてくれない顔を、見つめる。
コデルロスの一人目の妻、オーギュスタを喪った後も、エリーゼと再婚するまでに十年以上を置いている。厳しい人だけれども、きっと、愛した相手には深い想いを抱く人なのだろう。
――自分がその想いを受け止める存在になれないのは、悲しいけれど。
ものの解からぬ幼い頃は、父の冷ややかな眼差しが怖かった。何故、彼がそんなふうなのかが解かった頃からは、その怖さは悲しみと寂しさに変わった。
今、存在しているのは何だろう。
切望、あるいは憧憬……だろうか。
クリスティーナは、父に笑って欲しかった。認めて欲しかった。満足して欲しかった。
その為に彼女なりに力を尽くしてきたつもりだったけれど、未だにそれらは一つも叶っていない。
クリスティーナは息をひそめるようにして、食事を口に運ぶ。
自分に対するコデルロスの言動が冷やかなのは彼にもどうしようもないことなのだと、今では、彼女も理解している。
愛する妻と引き換えに生まれてきた子に対して、父は難しい思いを抱いているのだ、と。
けれど、それが解かっていても、いつか小さな笑顔の一つも向けてもらえるのではないかと期待して、クリスティーナはできるだけ父の意に添おうと力を尽くす。
(無理、かしら……?)
クリスティーナはこっそりと苦笑して、まだ半分ほども料理が残っている皿の上にそっとナイフとフォークを下ろした。