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垣間見えた疵①

 このフランジナ国内でマクシミリアンが拠点にしている港町は、二つなのだという。


 一つは、首都ラルスの西、馬車で片道三日ほどの距離にある、ル・アール。

 クリスティーナは彼に連れられて、もう三度ほどそこを訪れた。

 ストレイフ家の廊下にかかっている絵に描かれた港町で、とても整った陽気な街だ。交易地としても、観光地としても、栄えているらしい。

 初めて連れて行ってもらったときには、ラルスの街並みすらろくに歩いたことのなかったクリスティーナは、その活気にめまいがしそうだった。

 三度目にもなるとその活力みなぎる空気にもすっかり慣れ、今では次に連れて行ってもらえるのを心待ちにするほど、お気に入りの場所になった。


 もう一つは、サン・ブニュ。

 ラルスの南方に位置していて、こちらは馬車で十日はかかる。

 南からの荷が届く港町なのだそうだ。


「遠いし、普段は代理の者に対応させるのだけど、今回はちょっと揉めていてね」

 サン・ブニュへ赴くことになったとき、マクシミリアンは気乗りがしなそうな様子でそう言った。


「長旅になるから、貴女にはつらいかな……」

 眉をひそめたマクシミリアンに、クリスティーナは小首をかしげて答える。

「お屋敷をお守りしています。父もよく留守にしましたから、慣れています」


 兄のアランが頼りにならないから、ヴィヴィエ家では、十歳になる頃にはクリスティーナが屋敷の留守を預かるようになっていた。ストレイフ家のこともずいぶん解かってきたし、マクシミリアンがいなくても滞りなく屋敷を回せる自信はある。


 マクシミリアンはしばらく考え込み、やがてかぶりを振った。

「いや、留守はアルマンに任せよう。三日後に出発するから、貴女も一緒においで」


 てっきり置いて行かれるものだとばかり思っていたクリスティーナは、パッと顔を上げる。


「よろしいのですか?」

「ひと月近くかかるからね。そんなに長い間貴女と離れているなんて、私の方が耐えられないよ」


 微笑みながらのその言葉は、きっと社交辞令なのだろう。

 それでも、マクシミリアンと一緒に行けるのだと思えばやっぱり心が浮き立つ。


「嬉しいです」

 心からの笑顔と共に、クリスティーナはそう言った。


 マクシミリアンは彼女に温かな微笑みを返し、一転、至極まじめな顔になる。

「ただし、サン・ブニュはル・アールと違って柄が悪いから、宿と馬車からは出ないようにね。外に出た時は、絶対に私から離れないで欲しい。間違っても一人で出てはいけないよ?」

「わかりました」

 神妙な顔で頷き見上げると、マクシミリアンは、はあ、とため息をついた。

「本当は、連れて行きたくないのだけどね」


 まだ、彼には迷いがあるようだ。

 置いて行かれるのは嫌なので、クリスティーナはもう一度繰り返す。


「お言いつけは必ず守ります」

「絶対だよ?」


 またため息混じりでそう言うと、マクシミリアンは彼女の頬にキスをして、いつもの仕事へと出かけて行った。


   *


 それから十日と五日が過ぎて。

 クリスティーナとマクシミリアンはサン・ブニュにあるホテルの一室に腰を落ち着けていた。


 マクシミリアンが呼ばれることになったストレイフ商会の問題も無事解決し、明日には帰路に就くことになって。


「午後は丸々時間が空いているから、少し街中を見に行こうか」


 このサン・ブニュに着いてから、クリスティーナは一歩たりともホテルから出ていない。マクシミリアンは事態の収拾に追われていたし、彼女は一人で出歩かないようにと厳命されていたのだから。

 ストレイフ商会が所有するこのホテルはとても快適だったけれども、丸二日間閉じこもりきりでは、さすがにクリスティーナも退屈してくる。


「よろしいのですか?」

 顔を輝かせてマクシミリアンを見上げる彼女に、彼は厳しい顔を作った。

「いいかい、くれぐれも――」

「お傍を離れません」

 クリスティーナが機先を制してそう言うと、マクシミリアンは重々しくうなずく。

「よろしい。じゃあ、行こうか」

「はい」


 マクシミリアンが差し出した手に、クリスティーナは自分の手を重ねた。彼はそれを自分の腕にかけさせる。


 入口に立つ守衛に会釈をしながら通りに出ると、ラルスともル・アールとも違う雰囲気がそこにはあった。


 ラルスの街は上品で、少し澄ました感じ。

 ル・アールは開けっぴろげで楽し気。

 ここサン・ブニュは、活気はあるけれども、猥雑だ。


 道端には露店が並び、明らかに通行の邪魔になっているのに、店側はもちろんのこと、通行人も全く気にしていない。呼び込みの声はあちらからこちらからとひっきりなしに響いているから、お互いに邪魔し合っていて結局どこが何を売っているのか判然としない。


 そんな中を、クリスティーナはマクシミリアンの腕に守られながら進んだ。


 品が良いラルスの街に慣れたクリスティーナには、サン・ブニュの喧騒は少し刺激が強い。けれども、だからこそ興味を掻き立てられ、彼女は無造作に商品を並べる店先にしばしば目を奪われた。

 クリスティーナが立ち止まり見たことのない品に首をかしげるたび、マクシミリアンは丁寧に説明してくれる。

 今も、頭が二つある、大きな耳と長い鼻をした像に気を引かれたクリスティーナに、マクシミリアンは笑顔を向けた。


「これは、東の方の宗教の神様だよ。悪いことを遠ざけ、幸せをもたらしてくれるんだ」

「神さま、ですか? ……どちらかというと――」

「怪物みたい?」


 言い淀んだクリスティーナの後を継いでくれたマクシミリアンに、彼女は頷く。神様を悪く思ってしまったことに後ろめたさを覚えた彼女の気持ちに、彼は気付いたようだ。


「世界にはいろいろな国があってね、当然、そこに応じた宗教・文化があるんだよ。貴女はお隣のグランスのこともあまりよく知らないだろう?」


 無知を指摘され、クリスティーナは頬を染めて頷いた。


「別に、貴女だけがそうなわけじゃないよ。これだけ長い間――三百年以上も角突き合わせてきたというのに、フランジナの人間の大部分は、あの国のことを何も知らない。知らないのに、グランスのことが憎いかと問えば、憎いと答える人は多いだろうな」


 マクシミリアンは首をかしげるようにして、クリスティーナの目を覗き込んでくる。


「貴女は、アシュレイ・バートンに会っただろう? 彼を嫌な奴だと、憎い敵だと思えるかい?」

「いいえ、まさか」

「だろう? 彼はグランス人だ。でも、個人を知ったら、フランジナの人間でも、十人中七人は彼に好感を持つだろうね」

「十ではないのですか?」

「誰からも好かれる人間なんていないよ。七割でもすごい」


 マクシミリアンなら、会う人全員が彼のことを好きになってしまいそうだと思ったけれど、その考えは胸の内にしまっておいた。直接本人に言うのは、なんとなく恥ずかしいような気がしたから。


 口をつぐんだクリスティーナの背中を促して、マクシミリアンがまた歩き出す。


「だからね、人はできるだけたくさんのことを見聞きするべきなんだよ。嫌うにしろ好きになるにしろ、ちゃんと根拠がなければいけないからね」

 彼の言葉に、ふとクリスティーナは首を傾げた。

「もしかして、わたくしをここに連れてきてくださったのも、その為ですか?」


 マクシミリアンは一瞬ポカンとし、それから笑った。

 ニヤッと。


「まあ、それもあるけれど、言っただろう? 理由の九割は貴女と一ヶ月も離れていられなかったからだよ。ラルスにはまだバートンもいたしね」


 なぜそこでアシュレイ・バートンの名前が? とクリスティーナは思ったけれど、多分、これも彼流の何かの冗談なのだろう。


 二人はまた居並ぶ露店を覗きながら、ブラブラと散策する。


 それが起きたのは、一通りの路地を歩いて、そろそろホテルへの帰路に就こうとした頃だった。


「何やってんだ、このガキ!」

 突然、喧騒を貫いて男の怒声が響き渡った。


 ハッと目を巡らせると、通りの反対側で厳つい男が拳を振り上げている。もう片方の手で、まだ十歳にもなっていなそうな少年の胸倉を掴んで。

 どういう状況なのかとっさには理解できずにクリスティーナが目を見張ってる中、男は、容赦なく少年を殴り飛ばした。

 道に叩き付けられ、力なく転がった小さな身体を、今度は足蹴にする。


 現実とは思えない光景に硬直していたクリスティーナは、二度目に少年が蹴り飛ばされて、ようやく我に返る。


「マクシ――」

 隣に立つ彼を見上げ、すがろうとして、彼女は固まった。


 マクシミリアンは、彼も、少年と男を見ていた。蒼白な顔で、目を見開いて。


(マクシミリアン、さま……?)


 こんな彼は、見たことがなかった。

 まるで、恐怖のどん底にいるような、絶望だけが満ちている眼差し。その目は同時に虚ろでもあり、今目の前にあるものは見えていないのではないか、そんなふうに思わせた。


 異様なマクシミリアンの姿に目を奪われていたクリスティーナだったけれども、再び耳に入ってきた男の怒鳴り声で、ハッと振り向いた。

 男が、また、足を引いている。少年を、蹴ろうとしている。


 とっさにクリスティーナはマクシミリアンの腕から抜け出し、二人のもとへと走った。そうして、今にも少年を踏みつけようとしていた男の腰に、しがみ付く。


「やめて!」

 初めて出す大声に、喉が痛くなる。


「なんだぁ、このアマ!」

 背中側からしがみ付いているクリスティーナの腕を、男の手が万力のように締め付けた。痛くて力が抜けそうになったけれども、こらえる。


「……ミリアンさま、マクシミリアンさま!!」


 クリスティーナは、声を限りに叫んだ。


 助けてくれるのは、彼だけだ。

 彼が、すぐに助けてくれる。


 そう信じて、声を張り上げた。


 今までにないほど力を込めている手が、震える。力を入れることができているのか、いないのか、判らなくなってきた。


「あ!」


 ついに手を振り解かれて、クリスティーナは地面に放り出される。乱れた髪の間から男を見上げると、途端に、彼の目の色が変わった。


「なんだよ、どんな婆あかと思えば、可愛い子ネコちゃんか。えらい毛並みがいいな」

 怒りの形相をにやにや笑いに変えて、男が手を伸ばしてくる。


「あんなガキより、よっぽどいいや」


 笑顔が、気持ち悪い。悪意しか、感じられない。

 

 クリスティーナはすぐさま逃げようとしたけれど、こんな体勢から立ち上がったことがない上に気は焦り、絡んだドレスの裾に足を取られて後ずさりもままならない。


 その指先がクリスティーナに触れそうになったその時、サッと伸びてきた手がその腕を捕まえる。


「触れたら、殺すよ?」


 地の底から響いてくるような冷ややかな声が、言った。そうして、掴んだ腕をぐるりと回して男の背中に捻り上げる。男の口から、それこそ、殺されそうな悲鳴が上がる。


「わかった、わかったから、放してくれ!」


 たっぷり呼吸五回分はそのままでいてから、マクシミリアンは突き飛ばすようにして男を放した。彼はよろよろと立ち上がると後ろも見ずに走り去っていく。


「マクシミリアンさま……」


 遠ざかる男の背中を見据えていたマクシミリアンにそっと声をかけると、彼は一瞬拳を固く握り、一つ大きな息をしてから彼女に向き直る。


 マクシミリアンはクリスティーナの前に膝を突き、彼女の頬にかかる淡い金髪を、そっと掻き上げた。その指先は、微かに震えている。


「ティナ……怪我は、ない……?」

 囁くように問いかけてきたその声は、彼のものとは思えないほど弱々しく、掠れていた。


「わたくしは何も。マクシミリアンさまこそ、大丈夫ですか?」

「私は――ああ、私も、大丈夫だ。何でもない。すまなかった、クリスティーナ。貴女をこんな目に遭わせてしまうだなんて」


 まだマクシミリアンの顔は血の気が引いたままだ。目も、まだいつもの彼のものとは、違う。


(まるで、怯えた子どもみたい)

 そんなふうに思って、クリスティーナはハタと思いだした。

「あの子……あの子は?」


 最後に少年を見た場所に目をやると、彼は地面に座り込んでいた。座れるということは、大きな怪我はないのだろうか。


「あの子をお医者さまに診せないと」


 マクシミリアンの腕にそっと手を置いて、クリスティーナは彼の注意を引いた。マクシミリアンは一拍遅れて少年に目を向け、頷く。


「ああ、そうだね。ホテルに連れて帰ろう。貴女は歩けるかい?」

「はい。……きっと、髪がすごいことになっていますね」


 笑いながらクリスティーナは髪を手櫛で整えて、マクシミリアンの手を借りて立ち上がる。彼は彼女の手を取ったまま、薄く微笑んだ。

「ティナはいつでも綺麗だよ」

 そうして、ぽつりと呟くように。

「貴女は、強いな」


 立ち上がった彼は束の間クリスティーナを見つめ、そうして、彼女を引き寄せ抱き締める。それは、彼が彼女を抱き締める、というよりも、彼が彼女に縋りつく、といった方が良いもので。

 クリスティーナは手を上げ、マクシミリアンの背に回した。ためらいがちに撫でると、ほんの少しだけ、彼の腕に力がこもる。


 抱擁はほんの短い間のことで、じきに彼はそっと彼女を放し、少年のもとへ向かうと彼を抱き上げた。


「帰ろうか」


 そう言ったマクシミリアンはもういつも通りの彼のように見えて、クリスティーナはほっと小さく息をついた。


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