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贈りもの②

 マクシミリアンは、奇妙な、強いて言うならば警戒するような眼差しを、クリスティーナに向けている。

 どうして彼がそんなふうに見てくるのか、自分はどう動いたらいいのか何を言ったらいいのか――彼女には見当もつかない。


 クリスティーナが途方に暮れていると、マクシミリアンがふっと微笑んだ。

 微笑みといっても、それは限りなく苦笑に近いものの気がする。


「そんなふうに見てはいけないよ」

 不意に、彼が言った。


「え?」


 唐突なマクシミリアンの言葉に目をしばたたかせるクリスティーナに、彼はまた繰り返した。


「そんなふうにね、男を見てはいけない」

「そんなふう……?」

 と言われても、いったいどんなもののことだろう。


 クリスティーナが戸惑っていると、マクシミリアンはさっきよりも力の抜けた笑顔になった。やれやれというように、肩をすくめる。

「無自覚というのは厄介だね。叱ろうにも叱れない」


 彼がそんなふうに言うということは、つまり、何かクリスティーナに不首尾があったということだ。そして、彼女には何がいけなかったのかさっぱり判らない。


 クリスティーナは眉根を寄せてマクシミリアンを見つめた。

「でも、おっしゃっていただけなければ悪いところを直せません」

「そこが困った点でね、直して欲しいというわけでもないんだよ」


 そう言うと、マクシミリアンはまたクリスティーナに近付いてきた。手を伸ばし、彼女の頬に触れる。

 最初はそっと指先で。

 それからそろそろと、まるで炎にでも触れようとしているかのように、窺うような、確かめるような慎重な動きで手のひら全体を押し当ててくる。


「そういう、貴女の無防備なところは、とても愛おしくて、同時にとても厄介なところでもあるんだ――今の私には」

 目を伏せ、彼は呟いた。


 マクシミリアンが言おうとしていることが、やっぱり、クリスティーナには理解できない。

 解かりたいのに、彼の言葉は彼女には謎過ぎる。


 それがとても、もどかしい。


 その気持ちが表情に丸々表れていたのだろう。

 マクシミリアンはニコッと微笑み、彼女の頬に軽いキスを落とした。


「時期が来たら全部説明してあげるよ。どうして私が困っているのかをね」


「今、教えてはいただけないのですか?」

 教えて欲しいという気持ちを含ませ、クリスティーナはそう尋ねた。

 そうすれば、早くマクシミリアンの希望に沿うようにすることができるのに。


 けれど彼はかぶりを振る。

「まだ早いよ。まだ、ね。今全部を明かしてしまっては、きっと、私が望むものは手に入らなくなってしまうから」

 マクシミリアンは手を放し、一歩下がる。

「私は貴女に変わって欲しいと心の底から願っているけれど、私が貴女を変えるつもりはないんだよ」


 そんな矛盾に満ちたことを言うから、クリスティーナの困惑は一層深くなった。


 眉尻を下げている彼女を楽しんでいるかのように、マクシミリアンはクスリと笑う。

「まあ、考えることはいいことだから、たくさん考えるといいよ。ところで、こうやってピアノも届いたことだし、今度演奏会でも開いてみるかい?」


 唐突な話題の転換に、クリスティーナはついていき兼ねる。

「演奏会、ですか?」

「そう……嫌なの?」

 膝の上で組んでいる両手に目を落とした彼女に、マクシミリアンが首を傾げた。


 どうしよう、本当のことを言ってしまってもいいものだろうか。

 クリスティーナは、チラリと目を上げてマクシミリアンを窺った。と、彼は答えを促すようににっこりと笑みを返してくる。

 その笑顔が、彼女に勇気をくれた。


 クリスティーナは一度唾を呑み、答える。


「わたくしは……人前に立つのは苦手です」


 ピアノを弾くのは好き。

 でも、見世物になるのは、好きではない。


 父のコデルロスは人を招いた時の余興にと、いつもクリスティーナにピアノを弾かせた。難しい曲を巧みに弾きこなす彼女に称賛の声と眼差しが向けられたけれども、それを楽しんだことはなかった。


 父の前ではずっと胸の奥に閉じ込めていたことを明かしてしまって、息苦しさを覚えたクリスティーナはマクシミリアンの視線から逃れるようにうつむいた。


 と、ポツリと、呟きが届く。

「ああ、なるほど」


 その主は、もちろんマクシミリアンだ。

 どういう意味だろうと顔を上げると、彼は記憶を手繰るように彼女の目を見つめて続ける。


「ティナがピアノを弾くところを私が初めて見たのは、貴女の十六歳の誕生日の時だ」


 十六歳の誕生日。

 そんな前から、彼は自分のことを知ってはいたのかと、クリスティーナは意外に思った。

 てっきり、求婚の時よりそう前のことではないと思っていたから。


 マジマジと夫を見つめたクリスティーナに、彼は微笑みを返した。


「とても巧みに奏でるのに、まるで機械人形のように寂しげだと思ってね。貴女はあのころからとても美しかったけれど、どこか作り物めいていたな」

 そう言って、束の間口をつぐむ。

 まるで、時をさかのぼって過去のその場に行ってしまったかのように。


 しばらくしてまた口を開いたマクシミリアンの眼差しは深く、クリスティーナにはその底にあるものを見出だすことができなかった。

 その目で彼女を捉えたまま、彼は言う。


「だから余計に、束の間目にした貴女の笑顔に心を惹かれたんだろうけどね」


(笑顔?)

 笑顔なら、いつも浮かべていたはずだ。むしろ、そうでない時の方が少ないはず――パーティーでは、笑顔でいなければコデルロスに叱られてしまうから。


 訝しげなクリスティーナに、マクシミリアンが小さく笑う。

「貴女が笑うのを見たのは、私にはあれが初めてだったよ、ティナ。今もあまり笑ってはくれないけれど、いつか、あの時の笑顔をずっと浮かべてくれるようになってくれたらいいなと思っているんだ」


 そんな言葉と共に、温かい眼差しが、注がれる。


 マクシミリアンが望むなら、叶えたい。

 でも、彼が言うことが何を指しているのかが判らない。


 笑顔なら、今でもちゃんと作っているはずだ。それなのに、彼はそうではないのだと言う。


 マクシミリアンはクリスティーナにたくさんのことを与えてくれるのに、彼女は何一つ返せていないような気がした。

 与えられるばかりで、心苦しい。


「何かわたくしにできることは……しなければならないことは、ないのでしょうか?」


 頼むから、何か命じて欲しい。

 クリスティーナは、そんなふうにすら、思ってしまう。


 と、マクシミリアンは優しく目を和ませて。

 伸びてきた彼の両手がクリスティーナの頬を包み込む。


「貴女の唯一で最大の義務は、この屋敷で幸せになることだよ」

 囁かれるのは、やっぱり、彼女を甘やかすばかりの言葉。


「わたくしは妻としての義務を少しも果たしていません」


 訴えるようにクリスティーナがそう言うと、マクシミリアンは目を丸くして、そして少し意地悪そうに微笑んだ。

「まあ、確かに、厳密な意味では婚姻は完結していないから、そこを突っ込まれたら婚姻無効とされてしまうね」


 きょとんとした彼女の耳に、ほとんど触れてしまいそうなほどに彼が唇を寄せた。そうして、声を注ぎ込むように囁かれる。

「正式に結婚したと認められるのは、夫婦の契りを結んでからなんだよ」


 一拍遅れてその言葉の意味を理解したクリスティーナの頬に、血が上る。


「そ、れは……」


 それ以上続けられなくて声なくはくはくと開閉するだけの唇に、そっとマクシミリアンの唇が重なった。

 クリスティーナを落ち着かせようとするようにそこを二、三度優しくついばんでから、マクシミリアンは彼女の目を覗き込んでくる。


「私は強欲でね、欲しいと思ったものは丸ごと手に入れないと気が済まないんだ。中途半端では満足できない」


 ほんの一瞬その眼差しの中によぎった、貪欲な光。

 常に穏やかな彼が見せたことがないその強さに、クリスティーナはハッと息を呑む。


 マクシミリアンが垣間見せたそれは、一代で、しかもたった十年かそこらで莫大な富を築いた人物なのだということを、クリスティーナに思い出させた。

 猫に睨まれた鼠のようにただただマクシミリアンを見返すしかできないクリスティーナから、彼がそっと手を放す。彼女に見せてしまったものを隠そうとするように、心持ち、目を伏せて。


 そうして数歩後ずさり、言った。


「私は気が長いから、いくらでも待てるよ。それに、執念深いから、決して諦めない」


 ふと、彼は苦笑する。微かに、自嘲の色を含ませて。


「こんな私に捕まってしまったなんて、運が悪かったね」

 冗談めかしてそう残し、マクシミリアンは部屋を出ていった。


 クリスティーナはしばらく扉を見つめてから、ピアノへと目を移す。

 鍵盤を一つ叩いてみた。

 ポン、と響いた優しい音色。

 その音色に耳を傾けて、彼女は考える。


 夫が求めているものとは何なのだろう、と。

 自分が彼に与えられるものは何なのだろう、と。


 何もかもを手に入れているマクシミリアンに、何も持っていないクリスティーナが贈れそうなものは、何一つ思い浮かばなかった。


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