贈りもの①
うららかな昼下がり。
彼女の為の小部屋で刺繍をしていたクリスティーナに声がかけられた。
「今、いいかな?」
顔を上げれば戸口に立っているのは仕事をしているはずのマクシミリアンだ。
食事の時間以外に彼女との時間を取る時には、いつも必ず予めそう伝えてくる。クリスティーナが聴き逃したのでなければ、昼食の席でも彼は何も言っていなかったはずだ。
「ティナ?」
きょとんとマクシミリアンを見つめていたクリスティーナだったけれども、もう一度名前を呼ばれて我に返り、ハンカチと針を置いて急いで立ち上がる。
「はい、何でしょう?」
「貴女に見せたいものがあるんだよ。おいで」
マクシミリアンはにっこりと微笑んで片手を差し出した。
首をかしげながらも、クリスティーナはマクシミリアンに従う。
クリスティーナが傍に歩み寄ると、マクシミリアンはいつものように彼女の手を取り自分の腕に掛けさせた。
マクシミリアンは、たとえ屋敷の中でも、たとえどんなに距離が短くても、必ずクリスティーナをエスコートする。彼が傍にいるときに、独りで歩かされたことがない。
屋敷の中や人が少ないところではこうやって彼の腕に手を掛けさせるだけだけれども、人込みではクリスティーナの腰を抱いて、包み込むように腕の中に囲い込む。まるで、そうしないと彼女がバラバラに砕けてしまうとでも思っているかのように。
そんなに気を遣わなくても大丈夫なのに、とは思うけれど、そんな彼の所作にクリスティーナは胸がふわりと温かくなるようなくすぐったさを覚える。
マクシミリアンと共に歩き出したクリスティーナは、そっと隣を窺った。
(なんのご用なのかしら)
マクシミリアンの言う『見せたいもの』が何なのか予想もつかないけれど、彼は見るからに機嫌が良さそうだ。普段から、基本的に不機嫌な素振りは見せない人であるとはいえ、今の彼はいつにも増して明るい表情だった。
何が待っているのかを教えるつもりはないらしく、彼はクリスティーナの歩調に合わせてゆっくりと廊下を行きながら、のんびりと天気や庭に咲く花の話などをしている。
マクシミリアンの声に耳を傾けながら、睡眠時間もろくに取れないほど忙しい人なのに、こんなふうに自分の為に余計な時間を割いてしまっていいのだろうかとクリスティーナは眉をひそめた。彼女としては、その分もっと休んでくれたらいいのにと思ってしまうのだけれども。
マクシミリアンの息抜きの為に、と思って行った演奏会も、そういう意味で成功だったのかどうなのか。あれからも彼の生活は全く変わらず、やっぱり朝早く、夜遅く、休日らしい休日も取ることがないままだ。
(わたくしの、『妻』としての存在意義はなんなのかしら)
彼を盗み見ながら、クリスティーナは胸の中で呟いた。
マクシミリアンはこの屋敷に取引相手を招くことがないから、クリスティーナはもてなし役として腕を振るうこともなく、皆が忙しく立ち働く中、一人のんびり日々を過ごしている。せめて夫を寛がせることができれば、と思うのに、一緒にいれば逆に色々気を遣わせてしまう体たらく。
クリスティーナは、夫婦とはこんなものでいいのだろうかと疑問に思う。
彼女だけが一方的に気遣われ世話を焼かれるだけ。
(もっと、お役に立ちたいのに)
与えられる以上のものを返したいと思っても、きっと、その百分の一も報いることができていない。
ふう、と思わずため息をつくと、すかさず隣から声がかかる。
「ティナ?」
目顔で「どうかしたのか」と問われ、クリスティーナは小さくかぶりを振った。
「何でも、ないです」
「……そう?」
マクシミリアンは軽く眉を上げて見返してきたけれど、それ以上追及はしてこなかった。
そうしてまた、足を進める。
やがて彼は、広間の扉の前で立ち止まった。そうしてその扉を開けると、右手をさらりと流す。
「お先にどうぞ」
(広間?)
瞬きを一つして、クリスティーナはマクシミリアンを見上げた。彼からは、微笑みだけが返ってくる。
何だろう、と思いつつ、クリスティーナは部屋の中に進んだ。
誰かがいるわけではない。
何も変わったことはないではないか。
――と思ったけれど。
ぐるりと広間の中を見渡したクリスティーナは、一つだけそれまでとは違うことに気が付いて目を丸くした。
「まあ」
一言こぼしたきり、続かない。
彼女の目が釘付けになっているのは、窓際だ――そこに置かれた、一台の純白のピアノに、目が吸い寄せられる。
少なくとも、昨日はなかった、と思う。
(今朝は?)
今朝は、広間に入らなかったから、判らない。
言葉もなく立ちすくんでいるクリスティーナの両肩に、そっと手が置かれる。
「どうかな?」
耳元で囁かれて振り向いたけれど、とっさに言葉が出てこない。黙ったままのクリスティーナに、マクシミリアンが眉を上げる。
「気に入らなかった?」
そう問いかけてきた彼の声はらしくなく窺うような響きを含んでいた。
自分の態度を振り返って、クリスティーナは慌ててかぶりを振る。
「違います! そんな、全然、あの、嬉しいです。すごく、嬉しいです」
身体ごとマクシミリアンに向き直り、必死に言い募った。
数ヶ月ぶりに目にしたピアノが嬉しかったのももちろんだけれども、自分の反応で彼をがっかりさせてしまったことを何とかしたかった。
両手を握り締めて彼を見上げるクリスティーナの気持ちが伝わったのか、マクシミリアンの顔に晴れやかな笑みが浮かぶ。
「良かった。ほら、どうぞ、近くで見てごらん」
そう言って、彼は彼女の背中に手を添え、ピアノの方へと促した。
傍に寄ってみると、真っ白なのではなくてごくごく淡いピンクで薔薇が描かれているのが見て取れた。
指先でそっと撫でてから蓋を開け、ポン、と一つ、鍵盤を叩いてみる。
響いた、音。
その音色に、クリスティーナはハッと息を呑む。
それは、今まで聴いたことがない音だった。
これまで、ヴィヴィエ家に置いてあるものはもちろん、よそのパーティーに呼ばれた時に、家人に乞われてその屋敷にあるピアノを弾いたこともある。
演奏会も入れれば、結構な数の音を耳にしてきたと思う。
でも、今耳にしたのは、そのどれとも違っていた。
驚きと嬉しさで、クリスティーナは思わずマクシミリアンを振り返る。
「こんなに優しい音、初めてです」
高名な職人の作ったピアノの音は一通り、一度は聴いたことがあると思っていたけれど、この職人は初めてだと思う。
興奮して力説するクリスティーナに、マクシミリアンも嬉しそうな笑みを返してくる。
「貴女に一番合う音を探したんだよ」
「わたくしに……?」
「そう。本当は貴女がこの屋敷に入る前に用意しておく予定だったんだけどね、こだわりの強い職人だから、最後の最後で遅れてしまったんだ。でも、期待以上の仕上がりになってると思うんだ」
マクシミリアンの台詞に、クリスティーナは目を丸くする。
つまり、結婚が決まった時点で職人から探し、出来合いのものではなくて新しく作らせた、ということなのだろうか。
それをわずか二、三ヶ月で成し遂げたのであれば、むしろすごいことのような気がする。
「ありがとうございます。とても、嬉しいです」
同じことの繰り返しになってしまうけれど、クリスティーナにはその言葉しか思い浮かばない。
言葉よりも眼差しに想いを込めてマクシミリアンを見つめると、彼の目がまた和らいだ。そうして、彼が言う。
「何か、弾いてみて欲しいな」
唐突な申し出に瞬きを一つして、目を伏せたクリスティーナはもじもじと両手を組んだ。
「でも、しばらく弾いていないので、あまり上手にはできないかもしれません」
はにかむ彼女に、マクシミリアンがにっこりと笑顔になる。
「ティナが奏でる音を聴きたいんだ。貴女が私の屋敷でピアノを弾く姿を、何度も想像したよ。私の頭の中では、この上なく楽しそうに、幸せそうに、鍵盤の上に指を走らせているんだ。……見せてくれる?」
期待に満ちた朗らかな声に、クリスティーナも自然と笑顔になる。望まれているということが、とても嬉しい。
「では、失敗しても笑わないでくださいね?」
そう念を押して、彼女は椅子に座った。
選んだのは、ピアノを習い始めた頃から弾いている曲だ。
幼い頃からモニクが歌ってくれていた、素朴な、子守歌。彼女はそれを、クリスティーナの母にも聴かせていたのだという。ピアノに触れるとき、彼女は必ず一度はその曲を弾いていた。
有名な作曲家のものではなく、技巧を凝らした難しいものでもない。
でも、この曲は、このピアノの音にぴったりだと思う。それに、彼女が一番好きな曲を、マクシミリアンにも聴いて欲しかったのだ。
巧く弾けるかどうか、本当に心配だったけれども、ひとたび鍵盤に指を載せれば不思議なほどに滑らかに手が動く。運指と紡ぎ出される音に、クリスティーナは没頭した。
楽しい。
ピアノを奏でることを純粋に楽しいと思えたのは、ずいぶんと久しぶりだ。もう、何年もそう感じたことがなかったような気がする。
最後の一節を弾き終え、余韻に浸りながら目を開けたクリスティーナは、何の枷もなく思うがままに弾けた喜びと失敗せずに彼に聴かせられた満足感を湛えた満面の笑みで、ピアノの隣に佇むマクシミリアンを見上げた。
けれど、目を合わせても、彼は微動だにしない。
まるで彫像のようにそこに立って、ジッとクリスティーナを凝視している。
(失敗は、していないと思うのだけれど……)
素朴過ぎる曲が気に入らなかったのだろうか。
「あの、もうしわけ――」
笑顔を曇らせてクリスティーナが立ち上がろうとしたとき、不意に、マクシミリアンが動いた。
大きな両手でクリスティーナの頬を包み込み、彼女を椅子に押し戻そうとするかのように覆い被さってくる。
ハッと小さく息を呑んだ瞬間に、唇を塞がれた。
唇が重なったのは、ごくわずかな間だけ。
それは短いものだったけれども、その短い時間でクリスティーナの全てを貪り尽くそうとでもしているかのような、飢餓感にあふれたものだった。
一度だけ――あれは結婚式のすぐ後だったか、やっぱり突然、唇を奪われたことがあった。
けれども、あの時以降、マクシミリアンから与えられるのは、宥めるような慰めるような、そんな含みを持つキスばかりだった。
今のは、そういうものとは違った。
全然、違った。
それに、どうしてだろう。
ほんの一瞬のことに過ぎなかった気がするのに、のぼせたように頭がぼうっとする。以前に同じようなキスをされた時にはただ驚いただけだったのに、今はなんだかくらくらして、お酒を飲んだわけでもないのに溺れるような酩酊感に襲われていた。
ろくに頭が働かないクリスティーナは、目の前にあるマクシミリアンの顔をただただ見つめる。
マクシミリアンは、離れた唇の代わりのように、クリスティーナの額に自分の額を押し付けていた。そして、何かをこらえるように、固く目を閉じている。
やがて。
「……ごめん」
ずいぶんと経ってから――少なくとも、クリスティーナはずいぶんと経ったと感じるほどの時間が過ぎてから、マクシミリアンが身体を起こした。起こしただけでなく、更に二歩ほど後ずさる。
(『ごめん』?)
――何故?
マクシミリアンの謝罪の言葉の理由が解らず、クリスティーナはぼんやりした頭のままで彼を見上げた。