はじめてのお誘い⑥
演奏は、とても素晴らしいものだった。
ヴァイオリンもフルートも卓越した技巧に加えて情感も溢れんばかりにこめられており、素晴らしい、としか表現のしようがない。
にもかかわらず、クリスティーナはその演奏に集中することができなかった。
どうしても、開演前のマクシミリアンの様子が気になってしまったからだ。
その上、アシュレイ・バートンの存在。
隣に座ったバートンが演奏の合間に何かと声をかけてくるから、クリスティーナはマクシミリアンと話をすることがほとんどできなかった。曲が途切れると即座に反対側からバートンが聴いた曲についての感想やこれからの演目などについて訊いてきて、マクシミリアンに目を向ける隙すら与えてくれない。
マクシミリアンの友人だからと思うと無下にするわけにもいかず彼に応えていると、すぐにまた次の曲が始まってしまって。
まるで、バートンに会うためにここに来たようだ。
笑顔の奥にため息を隠してバートンに応じながらクリスティーナがちらりとマクシミリアンに目を走らせると、彼は椅子にゆったりと背を預けてどこ吹く風、という風情。放っておかれても全く気にしていないような様子で、彼女は少し落ち込んだ。
(夫婦として正式な場に出るのは初めてなのに……)
透き通るようなフルートの音色を耳から耳へと聞き流しながら、クリスティーナはこっそりと肩を落とした。
そんなふうに時間は流れ。
「では、また何かの機会にお逢いできることを祈って……それとも、もう逢わせてもらえないかな?」
別れ際、バートンはクリスティーナを見て、マクシミリアンを見て、妙に人の悪そうな笑みを浮かべてそう言った。
何故そんなことを言うのだろうと首を傾げたクリスティーナの頬に、ヒョイと腰を折ったバートンがキスをする。
普通、よほど親しい間柄でない限り、挨拶のためのキスは手にするものだ。
思わず身体を引きそうになったクリスティーナだったけれども、寸でのところでそれがグランスでの礼儀なのかもしれないと思い留まった。
身体を起こして一歩下がったバートンは、クリスティーナの背後にチラリと目を走らせた。そうして、また、からかうような色を含んだ笑みを浮かべる。
「ちょっと遊び過ぎたかな?」
(遊び……?)
どういう意味だろうと眉をひそめたクリスティーナの腰に、不意にするりと何かが絡みついてきた。
「!」
突然のことにとっさに声を上げそうになったクリスティーナだったけれども、すぐにそれがマクシミリアンの腕だと気付いてグッと息を呑み込んだ。
「まあ、確かに、最後のはやり過ぎかな」
「だって君があんまりスカしてるからさ」
クリスティーナの頭上でそんな遣り取りが交わされる。
変わらず朗らかなバートンに対して、マクシミリアンが浮かべている笑みは、明らかに温度が低い。まるで背に氷でも入れられた心持ちになったクリスティーナが思わず身震いすると、マクシミリアンが彼女の顔を覗き込んできた。
「寒い、ティナ? 久しぶりの人込みで疲れたのかもしれないな。あんなこともあったし、彼女を休ませたいから、今日はこれで失礼するよ、バートン」
短い挨拶だけを残して、マクシミリアンはほとんど攫うようにしてクリスティーナを促した。バートンの返事を待たずにさっさと歩き出したマクシミリアンの腕の中から、クリスティーナは肩越しに振り返る。
「失礼します、バートンさま」
かろうじてバートンに挨拶をしたクリスティーナに、クスクスという笑いが返される。
「お幸せに」
目の隅に、ヒラヒラと手を振るバートンの姿が映る。けれどそれも、あっという間に人の波の中に消えていってしまった。
ホールにはまだ溢れんばかりの人がいるけれど、マクシミリアンは縫うようにその間をすり抜けていく。こんなにもたくさんの人がいるのに、彼の腕の中にいるクリスティーナは、彼らの誰とも肘の先がかすることすらなかった。
その間、マクシミリアンは一言も口を利かなくて、それは馬車に乗ってからも続いた。
走り出した馬車の中で、クリスティーナはそっと彼の様子をうかがう。
マクシミリアンは足を組み、その上に頬杖を突いて窓の外を眺めている。
いつもなら、何やかやと話しかけてくるのに、今の彼は微笑みかけてくることもしない。
落ち着かない気分になってクリスティーナがそわそわとドレスの布をいじっていると、不意に低い声が何か問いかけてきた。
「え?」
聴き逃してしまったクリスティーナは、首を巡らせてマクシミリアンを見る。彼はいつの間にか彼女に目を向けていて、多分さっきと同じ、問いを繰り返した。
「バートンのことは気に入った?」
唐突な質問。
そして、彼の顔には、なんの表情もない。いつも浮かべている、笑顔でさえ。
(何を求めて尋ねているの?)
判らない。今のマクシミリアンからは、完全に、何も、読み取れない。
肯定か、否定か。
迷った末に、クリスティーナは無難な返事を口にする。
「……良い方ですね」
これは実際の気持ちなので、嘘ではない。コデルロスの知人とは段違いに好印象であったのは、確かなことだ。
ためらいがちなクリスティーナのその答えに、マクシミリアンの目が微かに細められた。
「――また、会いたい?」
この質問への正しい答えは、是か否か、どちらなのだろう。
それに、どうして、こんなことを訊いてくるのだろう。
先ほどの問いよりも、慎重に答えを選ばないといけない気がする。
クリスティーナはこっそりと唇をかみしめた。
バートンがマクシミリアンの仕事仲間なのだとしても、友人なのだとしても、いずれにせよ、会いたくないという返事は望んでいないに違いない。
「……はい。機会があれば」
「…………そう」
彼の短いその一言を耳にした瞬間、クリスティーナは、「間違えた」と判った。キュッと、みぞおちの辺りが締め付けられたように痛くなる。
どうしよう。
何を間違えたのだろう。
考えても、クリスティーナには判らない。
震え始めた手を、膝の上で固く握り合わせた。
「ティナ?」
名前を呼ばれてハッとする。
一つ息を呑んでから、クリスティーナは隣に目を向けた。
恐る恐るマクシミリアンと視線を合わせると、何故か彼は気まずそうな――後ろめたそうな、顔をしている。そこに怒りや不快そうな色は欠片もなくて、クリスティーナの手から少しだけ力が抜けた。
と、まるで彼女の心中を読んだかのように、彼が言う。
「私は、怒っているわけではないんだよ」
その台詞に、クリスティーナは眉をひそめた。
では、どうしてあんな態度を取っていたのだろう。
声には出せない思いを注いで見つめていると、マクシミリアンは小さく笑った。
「この年になってこんなふうに感じることがあるとは思ってもみなかった」
自嘲めいた響きを含ませた声で呟いて、甘く和らいだ眼差しをクリスティーナに返してくる。
(やっぱり、不思議な色)
一瞬マクシミリアンの目に見惚れ、クリスティーナはぼんやりとそう思った。
馬車の中に下げられている灯りを受けて、彼の暗緑色の瞳は仄かに金色も帯びている。真っ黒ではないから余計に深々としていて、クリスティーナはそれから目が離せない。
彼女を見つめたまま、彼が動く。身を乗り出すように。
あ、と思ったときにはもうクリスティーナはマクシミリアンの腕の中にいて、ゆったりとした彼の鼓動に耳を押し付けていた。
マクシミリアンの手が彼女のうなじをたどって、きれいに結い上げていた髪を解く。くせのない柔らかな流れが、サッと背を覆った。マクシミリアンがそれを指でゆっくりと梳き、最後に持ち上げた毛先をそっと唇に寄せる。
そうしながら、囁く。
「貴女は十二回もバートンに微笑みかけていたよ」
「え?」
「十二回だよ。しかも、この上なく自然に、嬉しそうに。貴女と私が出逢ってから私にくれた回数に匹敵するんじゃないかな」
そこで、少し間を置いて。
「いや、もしかしたら彼の方が多いかもしれない」
「そんな、ことは……」
おろおろとマクシミリアンの腕の中から顔を上げてクリスティーナがその目を覗き込むと、彼は愉快そうにそれを煌めかせていた。
「おからかいになったのですか?」
少し唇を尖らせてそう言うと、彼は「まさか」と笑った。そうして、首をかしげる。
「正直言って、どうして貴女に判らないのかが解からない」
「何を、ですか?」
クリスティーナは、やっぱりあの演奏会で、もしくはバートンへの受け答えで、何か見落としや至らないことがあったのかと身構える。そんな彼女に小さく笑い、マクシミリアンは淡い金色の髪を指に絡ませたままで彼女の両の頬を包み込んだ。
彼は心持ちクリスティーナの顔を上向かせ、言う。にっこりと、笑顔で。
「私は嫉妬していたんだよ」
クリスティーナは一瞬ポカンとしてしまう。
「しっと……?」
「そう。貴女がバートンに優しく微笑むたびに、この胸に抱き締めて隠してしまいたくなった――あるいは、彼の目を潰して耳を塞いでやろうかともね」
そうして、マクシミリアンは片方の手の親指で、彼女の頬をそっと撫でる。
「彼がここに唇で触れた時には、殴り倒してやりたくなった」
クリスティーナの耳に口を近づけ、内緒話をするように囁いた。
彼の台詞がどこまで本心なのか、彼女には判らない。
もしも全て本心なのだとしても、理解できなかった。
(わたくしに、そんな価値はないのに)
何か、マクシミリアンの役に立っているわけではない。
今夜なんて、ダクールのことで迷惑をかけてしまったくらいなのに。
戸惑うばかりで見つめていると、その目を閉じさせようとするかのように、マクシミリアンは左右の目蓋にキスを落としてきた。優しく、笑いながら。
「ティナは、他人に何かをしようとするよりも、まず自信を持つのが――いや、貴女が貴女自身を好きになるのが何よりの急務だね」
「わたくしはわたくしのことを嫌ってはいません」
間髪を入れずに、クリスティーナはそう返していた。ほとんど、反射のように。
あまりに速過ぎたから、少し不自然な感じになったのかもしれない。
マクシミリアンはジッとクリスティーナを見つめて、そして、言った。
「ティナはいつもそうだ」
「え?」
「『嫌いじゃない』とか、『イヤじゃない』とか。『好き』や『したい』はなかなか言ってくれない。それはあくまでも『許容』であって積極的な『願望』ではないんだ。私はティナに、もっと欲深になって欲しいよ」
マクシミリアンはクリスティーナの顔を包み込んだまま、頭を下げてくる。
ほんの少し、かすめるように唇が触れ合い、次にはまた、彼女は彼の腕の中にいた。
「私は貴女が好きだよ、クリスティーナ」
そんな言葉が、マクシミリアンの胸からクリスティーナの耳へと響いてくる。
彼の『告白』に、クリスティーナの胸は一瞬ふわりと浮いて、次いで、チクリと疼いた。
その『好き』には格段特別な意味などないのだ。
それに値する人間ではないことは、彼女自身が一番よく知っている。
もしも『特別』であるならば、それはクリスティーナが彼の妻だから。『クリスティーナ』が特別なわけではない。
クリスティーナは、そう自分自身を戒める。
と、不意に、マクシミリアンが腕を解いて彼女を見下ろしてきた。何かを探すように微かに目を細めている。
ガラガラと、馬車の車輪が転がる音だけが響く。
やがて、彼が口を開いた。
「私がティナのどんなところが好きなのかを教えるのは簡単だ。けれど、ティナにはティナ自身にそれを見つけて――気付いて、欲しい」
当惑で、クリスティーナは瞬きをする。
「わたくし自身で、わたくしの好きなところを……?」
「そう」
頷き、マクシミリアンはニヤリと笑った。
「それにね、私が好きなティナは、貴女も知らないティナなんだ――今のところね。だから、私だけのものにしておきたいな」
そうして、また彼はクリスティーナを引き寄せる。
細身に見えるのに揺らぎなく彼女を受け止めてくれるその胸に身を委ね、クリスティーナは目を閉じた。
本当に、この人が好きだと言ってくれるなら、自分には何がしかの価値があるのかもしれないと思いながら。
本当に、それが真実であればいいのに、と思いながら。