はじめてのお誘い⑤
その赤毛の青年は軽い足取りでクリスティーナの前まで来ると、優雅な仕草で腰を折って彼女の手を取った。絹の手袋に包まれたその指先に口付けて、そのままギュッと握る。
「ボクはアシュレイ・バートンといいます。初めまして、ストレイフ夫人。うかがっていた印象よりも、なんというか、艶やかだね。クリスティーナとお呼びしても構わないかな? 君は別に構わないよね、マクシミリアン?」
にこにこと朗らかに微笑みながら流れるようにそう訊ねた彼に、マクシミリアンは笑顔を返す。
「もちろん、構わないよ……ティナさえ良ければ」
「ほら、貴女の夫は頷いてくれた。あとは貴女自身の了承だけだ」
屈託の欠片もない目で問いかけられて、クリスティーナは悩む。許可か拒否か――どちらの方が正しいのだろうとマクシミリアンにチラリと目を走らせると、彼はいつもの笑顔で彼女を見返してきた。
クリスティーナは、夫のその笑顔で、いっそう返事に窮することになった。
マクシミリアン・ストレイフの笑顔は、少なくとも、二種類あるのではないかと思う。
一つは、時折見ることができる、「あ、笑っていらっしゃる」と思えるもの。何かの拍子にポロリとこぼれたように現れるそれは、向けられるとクリスティーナの胸をほんわりと温めてくれる。
もう一つは、ほとんどずっと、マクシミリアンの口元に刻まれているもの。物腰の柔らかな自然な笑顔なのだけれども、何となくクリスティーナは身構えてしまう。
このひと月の間に、クリスティーナはその二つの違いを読み取れるようになった。
(でも……)
そっとマクシミリアンを窺う。
今、彼が浮かべているのは、そのどちらとも違うように思われる。
(笑顔であることには、間違いないのだけれど)
不可解な夫の表情に、クリスティーナは落ち着かない気分を掻き立てられた。彼女の視線に気付いて、マクシミリアンがにっこりと首をかしげる。
「どうする、ティナ?」
――やっぱり、何かおかしい。
でも、何がどうおかしいのかが、判らない。
その違和感溢れる微笑みから、マクシミリアンがどういう答えを望んでいるのかを察するのは、不可能だった。だから、彼女自身で決めるしかない。
クリスティーナはマクシミリアンからアシュレイ・バートンへと目を移した。
この青年が、マクシミリアンとずいぶん親しそうなのは確かだ。
きっと、仕事の関係者というだけでなく、個人的なつながりも強いのだろう。
マクシミリアンの友人なら、彼女も親しくしたい――彼の世界を、共有したい。
束の間逡巡した末に、クリスティーナは頷いた。
「どうぞ、お好きなようにお呼びください、バートンさま」
彼女の返事に、満面の笑みが返ってくる。それは思わずつられてしまうような笑顔で、クリスティーナは自然と微笑みを浮かべていた。と、不意に、背後から腰に腕が回される。
「きゃ!?」
軽く引かれてよろめいて、クリスティーナの口から小さな声が漏れる。彼女の背中がトンと何かに当たり、肩越しに振り返るとマクシミリアンが笑顔を返してきた。
彼はクリスティーナを支えるように片方の腕を彼女の腰に、もう片方の手を彼女の肩に置いて自身に引き寄せる。むき出しのクリスティーナの背中がマクシミリアンの胸に密着して、彼の衣服を通してその温もりが伝わってきた。
その温かさとは裏腹に、彼の笑顔はとても冷ややかで。
クリスティーナは混乱する。
(怒っていらっしゃる? でも、何故?)
思わず彼女が肩を強張らせると、マクシミリアンの目に奇妙な光がよぎる。それは瞬く間に掻き消えて、いつもの穏やかでよそよそしい微笑みに取って代わった。
マクシミリアンが頭を下げて、クリスティーナのこめかみのあたりにそっと唇を落とす。
「バートンは数少ない友人の一人だからね。貴女がこんなにも早く彼に打ち解けてくれて嬉しいよ」
朗らかな声での言葉なのに、どこか言外の含みがあるように感じてしまうのは何故だろう。
やっぱり、バートンに名前で呼ぶことを許したのは良くなかったのだろうか。そんなふうにする資格など、クリスティーナにはなかったのかもしれない。
そうは思っても今さら取り消すことはできなくて。
困惑と不安でクリスティーナの肩が落ちると、それを引き上げようとするかのようにそこに置かれたマクシミリアンの手に力がこもった。
「ティナ……」
彼らしくない、ためらいがちな声で呼ばれて、クリスティーナは床に向きがちだった視線を上げる。目を合わせると、声と同じように、彼でなければ『自信がなさそう』と表現しても良いような眼差しがあった。
マクシミリアンが何か言いかけて、口ごもる。そんなところも彼らしくない。
と、そこへ。
「へえ」
いかにも意外そうな、何となく感心を含んでいるような、声が上がった。
マクシミリアンからではなく、もちろんクリスティーナでもない。
首を巡らせると、愉しげに煌めいているバートンの眼差しが二人に注がれていた。
それまで様子を静観していたバートンは、マクシミリアンを見て、クリスティーナを見て、またマクシミリアンに戻る。
そうして、にんまりと笑った。
「これはこれは」
「何か言いたいことでも?」
バートンに返したマクシミリアンの声は、愛想がいいけれどもどこか不穏だ。そんな彼に、バートンはひらひらと片手を振る。
「突然『結婚したから』と言われたのも驚いたけど、こんな君を目にするとはね」
「私だって驚いているよ。真っ逆さまに転げ落ちてしまったときには、まさか、私が、と思った」
そう答えたマクシミリアンの口元に浮かんでいるのは苦笑いだ。
「君は一生独りで生きてくんだろうと思ってたよ、ボクは」
「私だってそう信じていたが、こればかりは仕方がない。私自身にもどうにもならなかった。結構抗ったんだけどね」
息を凝らしてその遣り取りを聴いていたクリスティーナは、乏しい手掛かりから二人が言わんとしていることを拾い上げようとする。
得られた答えは――
(マクシミリアンさまにとって、この結婚は望んでいなかったものなのかもしれない)
先ほど、ダクールは、マクシミリアンは何かに高い代価を払ったと言っていた。それはつまり、コデルロスが提示した取引に対するものなのではないだろうか。その入札をマクシミリアンは勝ち抜いたけれども、父は条件の一つにクリスティーナとの結婚を組み入れてきたのかもしれない。そうやって、心許ない跡取りであるアランの代わりに、ヴィヴィエを継ぐ者を作らせようとしたのかもしれない。
礼儀正しく勤勉な人だから、彼はそんなことをおくびにも出さないけれども。
たとえ無理に押し付けられたものでも一度は引き受けた『妻』だから、マクシミリアンはクリスティーナのことを幸せにしなければならないと思っているのだろう。だから、こんなにも心を砕いてくれるのだ。
そう思うと色々と辻褄が合うような気がして、クリスティーナは思わず両手を固く握り合わせた。サッと、血の気が引いたのが、判る。
「ティナ?」
問いかけてきたマクシミリアンを見上げると、とても真剣な眼差しがクリスティーナに注がれていた。そこに濃いのは、彼女を案じる色だ。
(こうやって心配してくださるのも、『夫』だから?)
何と応えたら良いのか、判らない。
口ごもるクリスティーナが何を思っていると考えたのか、マクシミリアンがいっそう眉根を寄せる。
そして彼の口から発せられたのは、思いも寄らない言葉だった。
「今晩は、もう帰りたい?」
「え?」
どういう流れでそう問われることになったのかが、クリスティーナにはさっぱり判らない。思わずきょとんとしてしまった彼女の顎に手を添え、そっと持ち上げると、マクシミリアンが続ける。
「顔色が悪い。ダクールは貴女を死ぬほど怯えさせたんだな。もう屋敷に帰って休んだ方が良くないかい?」
今にもクリスティーナを連れて部屋を後にしそうな彼に、慌ててかぶりを振る。
確かに外出に誘ったのはクリスティーナの方だけれども、これはマクシミリアンのためのものだ。マクシミリアンが友人であり仕事仲間でもあるバートンと、会うためのもの。
それをクリスティーナのことで切り上げさせるわけにはいかない。
滅多に会えないらしいマクシミリアンとバートンの交流を、邪魔するわけにはいかなかった。
「せっかくバートンさまにもお会いできたのに、まだ、帰りたくありません」
微笑んでそう返すと、マクシミリアンの目が一瞬細められ、何か強い光を放つ。剣呑な、とも言えそうなほどの閃きが現れたのはほんのわずかな間だけで、すぐにまた柔和な笑みに取って代わられた。
「……そう? 貴女が望むなら、そうしようか」
自分は不本意だと言わんばかりの台詞だけれども、今のマクシミリアンはいつものように穏やかな表情と物腰だ。
短い頷きと共に彼は背に手を当ててクリスティーナを椅子へと促し、そっと肩を押して腰を下ろさせる。
優しく穏やかな所作は、いつもと同じ。
でも、今日のマクシミリアンは、何かが変だ。
まつ毛の陰から覗くようにしてマクシミリアンの顔を窺っても、そこから読み取れるものは何もなかった。
だから、クリスティーナは自分の選択が正しかったのかそうでなかったのか、判らない。
(帰りたい、と申し上げた方が良かったの……?)
自信が持てずに視線を膝の上に置いた手に落とした時だった。
「ボクもここで聴かせてもらっていいかな?」
ハッと振り返ると、バートンが屈託のない笑顔を投げてきた。
「ボクの部屋もあるんだけど、こっちの方が色々と楽しめそうだから。いいかな、クリスティーナ?」
クリスティーナは、すぐには頷けなかった。
時折マクシミリアンがちらつかせる奇妙な素振りには、この赤毛の青年の影響もあるように思えて。
でも、バートンは彼の仕事仲間だ。住んでいるのが異国で普段滅多に会えないようでもあるし、演奏の合間に何か事業のことなど積もる話があるのかもしれない。
「どうぞ」
わずかな逡巡で笑顔を作ってそう答えると、バートンの目がキラリと光った。
嬉しそうであることには変わらないのだろうけれど、それ以外のものも含まれているような気がしたのは、クリスティーナの考え過ぎだろうか。
少し不安になってマクシミリアンの方を見ると、彼はにっこりと微笑み返してくれた。少なくとも、今度のクリスティーナの行動は、完全な間違いではないのだろう。
ホッと肩を撫で下ろしたところへバートンの声が入り込む。
「ああ、そろそろ時間だ。マクシミリアン、君も座ったらどうだい?」
そう言いながら、彼はクリスティーナの右隣に椅子を引っ張って来て腰を下ろした。彼の向こう側にはそれほど場所は空いていないから、マクシミリアンはクリスティーナの左隣に座ることになる。
(お仕事の話をされるなら、マクシミリアンさまの隣の方が良いのでは?)
そう思って席を換わろうとしたとき、舞台の端から一人の女性が現れた。
「ああ、ほら開演だ。彼女はまだ十七だけど、素晴らしい演奏をするんだ。彼女のヴァイオリンは天からの贈り物だね。今日はフルートもやってくれるんだよ」
クリスティーナの耳に口を寄せて、バートンがひそひそと囁く。
「それは楽しみです」
本当に楽しみだったから思わず顔をほころばせてそう答えると、不意に、ぴり、と肌を刺すような感覚に襲われた。
(何……?)
特に理由があったわけではないけれど、意識しないままにマクシミリアンの方に目を向けていた。
出合ったのは、先ほどの感覚そのままの、突き刺すような鋭い眼差し。あまりにマクシミリアンらしくないその強さに、クリスティーナはハッと息をのむ。刹那、彼はサッと視線を舞台の方へと流してしまった。
それは、まるで、怒っているようで。
(でも、何故……?)
クリスティーナが客であるバートンに対してすげない態度を取っていたなら、怒られるのも理解できる。コデルロスにはいつももっと愛嬌を振りまけと言われていたから。けれど、バートンには自然と笑顔になれるから、愛想が足りないことはないと思うのだ。
今までマクシミリアンの方から目を逸らすことなんてなかったから、クリスティーナは猛烈な動揺に襲われる。それは父にすげなくされた時の比ではないものだった。
どうしようもなくすがるような眼差しを注いでいると、その気配に気付いたように、彼がクリスティーナの方を向いた。
戻ってきたマクシミリアンは、もういつもと変わらない柔和な彼で。
(何だったの? わたくしの、気にし過ぎ?)
「あ、の――」
おずおずと掛けかけたクリスティーナの声に、バートンの明るい声が重なる。
「ああ、ほら、クリスティーナ、始まるよ」
マクシミリアンの態度に戸惑いと心許なさを覚えたけれど、直後空気を震わせ始めたヴァイオリンの音色に耳と心を奪われて、答えが得られないままにクリスティーナの頭の中からその戸惑いは消え失せてしまった。